それぞれの生活の実態や能力に応じてやることが可能性につながる。
きのうは、「それぞれの生活の実態や能力に応じてやればよい」という言い方をしたが、これでは足りない。それぞれの生活の実態や能力に応じてやることが、多様性になり、可能性につながる、と言いたいのだ。
そのことに関連して、以前いただいたメールを思い出した。
これは、2018/02/13「コーヒーのランクを下げると、人はもっと幸せになれる」をご覧なってのことだ。
こう書かれてあった。
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「ライフハック」に掲載された「コーヒーのランクを下げると、人はもっと幸せになれる」(ニック・ダグラス)、これ、面白い(刺激的な)文章ですね。いろんなことを考えさせられます。
世の中全体のコーヒーの味が、スタバとか出てきて以来、平均的に旨くなりすぎ、頑張りすぎて、コーヒーの味に対する期待値が、やや変わってしまった。
ニック・ダグラスは、そんな「平均して旨くなったことで、ある意味で、味覚の偶然性、多様性が失われた」コーヒーをめぐる状況が、以前と比較してリラックスできないようになり、心の中で「しゃらくさい・・」と感じている??
わたし自身について言えば、自宅でいつも飲むコーヒーは、MJBのグリーンと「決めて」います。その理由のようなものは、味が飽きないこと、植草甚一がMJBを好きでつねに普段づかいで飲んでいたこと、MJBは冷めても味が比較的落ちないように思えること、値段がそこそこであること、割と入手しやすいこと、そしてコーヒーについてあれこれ考えたくないこと…あたりです。最後の「考えたくない」という理由が一番大きいかもしれません。コーヒーのこと以外に、考えたいこと、おカネを回したいところ(面白そうな本や雑誌を買うことや、妻と旅行をすること等)があるので、生活上のコーヒーに対する優先順位は、高くはありません(でも必需品なんですよね)。
遠藤さんは「自分の哲学を持てということなんだろう」と、ブログでまとめておられましたね。
私もこの話から導かれたのは自分自身の価値判断、哲学が必要というようなことで、「自分自身の(味覚の、生活の)指標、哲学をもちなさい。たかがコーヒーの味にそれほどこだわる(必要以上にグルメ的にこだわりすぎる)ことは人生を窮屈にするよ、だからこだわらないことにこだわろうよ。その方が楽しい人生を過ごせるんじゃないの」、というように受け止めたのですが。
自分は遠藤さんの考察に大いに共感するのですが、こういう(コーヒーのランクを下げる)のは、もしかしたら一種、古い、「反動的」?な考え方にとられてしまうんでしょうかね?? 難しいところです。
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難しいところではあるけれど、さて、どう考えるか。
おれは「反動的」というより、「個」の自由を広げる「革新的」だと思っている。ある種の人たちからは、「リベラル」といわれるようだけど。それはともかく、このメールの方のように、自分の生活の実態や能力などにあわせて考え楽しむ選択をすることに、これからの可能性を感じる。
誰もが同じ方向へ向かって優れたモデルを追いかければ全体が発展するという構造は、すでに閉塞に陥って久しい。
誰もが同じようにやれるわけではないし、誰もが同じ感覚を持っているわけじゃない。それぞれ異なる「個」が基本なのだ。味覚などは典型的だが、それぞれの口中のことだ。
「同じ」は、かなり限定された条件で成り立つものだろう。トラック競技の100メートル走、1500メートル走、あるいはマラソンを、あるいは三段跳びなどを、「同じ」ように比べ、優劣をつけることはできない。でも、そういうことが、さまざまな分野で平気に行われている。なにさ、その「トップ」って。
「コーヒーのランクを下げると、人はもっと幸せになれる」ということを、もっと大っぴらに、考えたり主張してもいいのではないか。
それに、「ちがい」が雑多で変化に富んでいるところに、人間としての可能性や、交流や交易や文化や経済が成り立ってきたし、発展性があるのではないか。
それにしても、今夜は早い時間から、よく飲んだ。酔って、変化に富んでいる。
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2018/10/07
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