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2018/12/17

「スピリチュアリティ」と「食」。

読んでないのだが、最近ネットで『「スピリチュアル女子」をあざ笑うすべての人たちに言いたいこと』という文章が話題になっていたようだ。

「スピリチュアル女子」って、どんな女子をさすか知らないし、「スピリチュアル系」とか「スピリチュアル界隈」とかいわれても、どんな「系」や「界隈」なのかイメージがわかない。

ただ、平成30年間の「食」の動向を考えるとき、簡単にいってしまえば「スピリチュアリティ」なる、それなんだ?「思想」なのか、いやちがう「スピリチュアリティ」なのだという感じのことが、平成以前と比べると大きなインパクトを持つようになったといえる。

そのインパクトは、個人的な体験でいうと、当時はまだ「スピリッツ」がせいぜいで「スピリチュアル」という言葉は、ほんとんど聞かれなかったけど、1983年の中沢新一の『チベットのモーツァルト』あたりから、そんなニオイが濃くなり、関心が雷雲のような勢いで高まったと思う。

おれも知り合いに誘われて、信濃町にあったマンションの一室で中沢新一とファンが(誰でも参加できる)集まりをしていて、一度それに参加したことがあるけど、あまりの熱気に圧倒されて一度だけでやめた。

フリッチョフ・カプラの『ターニング・ポイント―科学と経済・社会、心と身体、フェミニズムの将来』(工作舎、吉福伸逸訳)が1984年。これには、おれも刺激を受けた。松岡正剛の工作舎は、その前から「タオ」に関して、たしか「游」あたりでもやっていたと思うが、「タオ」に関するフリッチョフ・カプラの著書を、やはり吉福伸逸の訳で出していた。『ターニング・ポイント』は、「タオ」よりはるかに広い層に読まれ「エコロジー」や「フェミニズム」をブームに押し上げる一翼をになった。というのがおれの印象だ。

これとはちがう、もともと桜沢如一が始めた「正食普及会」、それから農本主義と自然農法の流れもあり、70年前後からはカウンター・カルチャー系の「インド思想」や「東洋思想」をゴチャゴチャしたような流れもあり、また山岸会やMOAなどの宗教団体などの活動もあり、料理の「自然主義」「環境主義」や「無国籍料理」などが70年代後半からじわじわ広がっていた。

その背景には、近代合理主義や科学やテクノロジーあるいは「都市」や自然破壊に対する不信や反発などがあった。

食の分野では、栄養学に依拠しながらも、東洋思想やインド思想で「自然」に一歩近づき、さらにそれを超越するかのような、さまざまなリクツが盛んになった。食に「癒し(ヒーリング)」を求め、中国ン千年の知恵といわれる「五色×陰・陽」説などが話題になり、鍼灸やヨガも混ざり合いゴチャゴチャ広がっていった。

で、おれも、脱西洋医学をめざす「ホリスティック」な思想に興味を持ち接近し、当時はマクロビという言葉はなく「無農薬・有機栽培」「自然農法」といった界隈に関わるようになった。

それで見えてきたのが、いまでいう「スピリチュアル」という言葉にまとめられそうな人たちなのだ。これはもういろいろあって、分類困難だね。天河系の人もいれば、ヒッピー系の人もいれば、「透視」だか「霊視」だかが好きな人もいれば、単なる詐欺師的な人もいれば、右翼系もいるし左翼系もいる。それから、「魂」なるものについて、ちゃんと考えのある人たちも、けっこういたな。

そうそう、「spirit」「mind」「heart」のちがいをうまく説明する人がいて、すごく納得したことがある。

あとやはり、「不治の病」というものを抱えて、ひたすら「スピリチュアリティ」に心を寄せる人たちも多かった。

「食べ物」は、単なる物質としての「食べ物」ではなく、身体と心、自然や自然を超越したつながり、ま、このへんのことになると、表現の仕方はいろいろになるが、「言霊」といわれる「ことば」のような意味を持つ。だから、その選択も料理も、なかなか念がいっている。できるだけ工業製品は避け、できるだけ自ら手を下す。その一つ一つに意味がある。そして、自然を超える「何か」に近づこうとする。

って、こういうことを信じてないおれが書くと、ほんと「スピリチュアリティ」には失礼なんだけど、おれは『「スピリチュアル女子」をあざ笑うすべての人たちに言いたいこと』というほどじゃないんだが、「スピリチュアリティ」は、いろいろ誤解されやすいということは理解しているツモリなのだ。でも、うまく書けねえなあ。

広井良典という学者、科学史や科学哲学が専門なのかな? 「いのち、自然のスピリチュアリティ」について語っていて、なかなかうまくまとまっていて、おもしろい。

彼がそこで言っていることではないが、日本というのは先進国のなかでは「アミニズム」が根強く残っている国なのだそうだ。そういうこともあわせて考えると、「いのち」に関わる「食」では、「スピリチュアリティ」のことは避けて通れないし、だから平成30年間の「食」の分野で存在感を増してきているといえそうだ。

広井良典は、こう述べている。

「自然のスピリチュアリティという時、それは日本だけの話ではないのですが、生命と非生命は連続的なんですよね。石ころであっても風であっても、そこに神様は宿っている。そして今の自然科学もそういう方向になりつつあるともいえるわけです。」「もともとは存在/非存在という区別そのものも連続的だった。自然のスピリチュアリティとか、日本語の「いのち」というのは、そんな宇宙全体を包括した言葉ではないかと思います。」

2018/12/10「「細分化」はどこまでゆくのかねえ。こわいねえ。」に書いたように、食の分野では細分化がすすむ一方で、「宇宙全体を包括」なんて思いもよらないことだが、連続しているのだ。

東電原発事故以来、放射能汚染と「食」をめぐって、いろいろあり、なかなか困難な問題を抱えている。そこでは「科学的」ということが重みをもって語られているし、「科学的」であるのは当然だとしても、それはどうも「物理科学的」なことに偏っているようにもみえる。「物理科学的」でないことは叩かれ排除されるだけというのでは、チョイと「科学の道」に反するのではないかという感じもする。

いろいろなことが連続して成り立っている。なのに、「科学的」に、連続を不連続にしてしまう。また分断が深まる。これはある種の「劣化のループ」か。

平成30年間のあいだの「食」のインパクトとして、エコやマクロビや手作りのブームなどの流れと「スピリチュアリティ」をふりかえってみようと思ったのに、ズレてしまった。めんどうな問題だ。

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