「平成最後の」。
なにやかにやで「平成最後の」ってことが姦しい。年号なんてのは、さっさと卒業したほうがよいと思うんだが、できないんだなあ。次の年号は、これを最後の年号にしよう、というぐらいの決意でのぞもうぜ、みなのしゅう。
とりあえずは、平成は、ちょうど30年間なので、おれは30年をふりかえる意味で、簡単に「平成30年間は」なーんていってしまうんだけどさ。30年間、「食」に関しては大きなことがいろいろあった。なかでも「ジケン」として騒がれることなく、でも大きな変化であるし、さらなる変化の予兆として、もっと注目され議論になっていいと思うのは、去年と今年あたりで、消費金額にしてだが、パンが米を上回ったことだろう。
『大衆めし 激動の戦後史』では、「米とパン」「米と麦」について、けっこうふれているのは、そのうちに、この関係が大きな問題になるだろうと見越してのことだったが、そのことを気にしている人たちは「食」の関係者でも、あまりいないようだ。日本という国がミステリアスなのか日本人がミステリアスなのか。
「東京=中央」のメディアが騒がないと問題にすらならないのは、このことだけじゃないが。
いろいろ整理をしていて、ことし都内へ行った回数を調べたら、4月以降は1か月に2回平均だった。仕事の打ち合わせや飲むために、わざわざ都内からお越しくださったみなさま、ありがとうございました。これからもよろしくお願いしますね。
おれは、文化的にはすでに「東京=中央」的なアルゴリズムやらコードやらからの離脱あるいは逃走が、ヤバイほどすすんでいるが、都内へ行く回数が減ってさらにすすむかもしれない。
「運動」というのは、たいがい大勢でやるイメージだろうけど、おれの食と料理に関する「運動」は「一人運動」だ。運動はカネにするのが難しいし「一人運動」ともなればなおさらだ。ほかにも「一人運動」の人たちがいるけど、たいがい、なにかしら商売をして収入を確保している。そういうものなのだ。
「東京=中央」的なアルゴリズムやらコードやらが圧倒的な力を持っているメディア業界。おれは、ただでさえ売れないフリーライターなのに、75というトシだし、かなりヤバイことになるか。スリリングな事態になった。日本の農業みたいだ。
一億火の玉
一億玉砕
一億総懺悔
一億総白痴化
一億総中流
一億総グルメ
一億総評論家
一億総活躍社会
というのを拾ってみた。「一億玉砕」は「一億総玉砕」という言い方もあるようだ。戦中のことで、戦後がらっと「一億総懺悔」。
「一億総白痴化」「一億総中流」「一億総グルメ」「一億総評論家」は、社会風俗のことで、そういう言葉があてはまりそうな現象があったのだけど、「一億総活躍社会」は「お上」のおぼしめしだ。政府のスローガンにすぎない。「一億玉砕(一億の火の玉)」も、「上」からのスローガンだし、「一億総懺悔」は微妙だが、どこかしら「上」の意向ではあったようだ。
こうやって並べてみると、ここに「一億総グルメ」があることに、あらためておどろく。おどろいて、ああでもないこうでもない考えている。平成は、「一億総グルメ」で始まったんだよね。
とにかく、ここにあげた「一億ナントカ」は、ヤバイか、それほどほめられるようなことではない。「一億ナントカ」なんてのは、ないのが普通であってほしいな。
一人火の玉、一人玉砕、一人懺悔、一人白痴化、一人中流、一人グルメ、一人評論家、一人活躍…、これならどうだろう。
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