『ハックルベリイ・フィンの冒険』の一大事。
『ハックルベリイ・フィンの冒険』は、ときどきパラパラ見たり、何度かはシッカリ全部読んだりしている。『トム・ソーヤの冒険』もいいが、ハックのほうが、おもしろいだけじゃなく、なんてのかな、あの開放的な自由の思想ってのかなあ、それがいいドラッグになってカツが入るのだ。
ところがだ、そうまで入れ込んでいたのに、といってもおれの「入れ込み」ぐあいはネチネチが嫌いだからテキトーなんだが、テキトーだから、いろいろ見逃している。
今回、おれにとっては一大事を見逃していたのに気がついた。だから、こうして書いている。
それは、新潮文庫版の33刷(1982年6月)だと、本文が始まってすぐ、2ページ目にあるのだ。
ハックが几帳面で上品で堅苦しいダグラス未亡人のもとを一度は逃げ出し、そしてトム・ソーヤに捜し出され連れ戻されたあと。
「またもや、元の通りのことが始まった。未亡人が夕食の鐘を鳴らすと、時間どおりに行かねばならず、食卓についてもすぐ食べてはいけない。未亡人が頭を垂れて食べもののことをくどくど言うのを待たねばならないのだ。別に食べものがどうかなっているわけじゃないのに、――ただ、なにもかも別々に料理してあるというだけのことだ。これが残飯桶の中だと話がちがう。いろんなものが一緒くたになり汁がまざり合ってずっと味がいいのだ。」
これはもう、ハックというより作者のマーク・トウェインに拍手喝采を送るべきだな。
別々に料理し別々の皿にもった、単品単一型の美味追求より、残飯桶の中で「いろんなものが一緒くたになり汁がまざり合ってずっと味がいいのだ」と、複合融合型美味追求のぶっかけめし・汁かけめしを語っている。
これをよろこばずにいられるか。
しかし、なんで、ここんとこを見逃していたんだろう。『ぶっかけめしの悦楽』(1999年)を書いたときも、『汁かけめし快食學』(2004年)を書いたときも、気が付いていなかったのか。気が付いていたら、ゼッタイ引用したもんな。どこに目をつけて読んでいたんだ。
ま、おれの頭も目もザルだけどさ。
いやあ、さすが「現代アメリカ文学の源泉」といわれるこの作品だ、と、こういうとこで評価したいね。書かれた、ふだんの食事にあらわれる思想は、その文学や文化の本質だ。
と考えると、夏目漱石だの森鴎外だのを奉り、文学というと上品に気取って人びとの上にそびえようという日本の近現代文学そしてその影響下のテキストどもは……おっと、これ以上はやめておこう。
とにかく、ハックルベリイは何度読んでも、たのしい。
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