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2018/12/18

「ナチュラル志向」と「食」。

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きのう書いたことに関係するが、手元にある平成初期の頃の資料を探したら、見つかったのが『ハッピー・エンド』1990年11月号。雑誌タイトルのところに「地球にそって生きる」のキャッチがある。ハッピーエンド通信社の発行で、編集・発行者は、森村一会だ。

森村一会もハッピーエンド通信社も、「ナチュラル志向」の啓蒙というか普及に、かなり影響力を持っていた。いまでは、ほとんど忘れられているけどね。おれの記憶でも、そういえば、そういう人が、がんばっていたなあ、と、やっと思い出すていど。

この号の特集が「食卓と日本の農業をつなぐJAC(ジャック)」なので、おれはこれを保存していたのだろう。

2017/08/14「有効微生物群(EM)の初期の資料。」に、「古い袋をあけたら、こんなものが出てきた。近年なにかと世間を騒がせている「有効微生物群(EM)」の資料だ。/これはたしか、1989年か90年に、JAC(ジャパン アグリカルチャー コミュニィティ株式会社)を訪ねたときにもらったものだ。」と書いている。

当時、無農薬・有機栽培の生産者と関わって、その販売を手伝っていたおれは、その分野で先進的に流通網を広げていたジャックに関心があったのだ。

それはともかく、この特集は、巻頭が森村一会の「危険な野菜が売られている」という文章で、次がJACを取材してまとめた「食卓と農業をつなぐコンピューター 野菜の小流通が提起する新しい家族」、次が「美しい野菜をつくる 有機・無農薬野菜づくりの美学」のタイトルで農業の中村武夫を取材している。当時はまだ「オーガニック」という言葉は使われていなかった。

特集のつぎに「ワクワク鼎談」というのがある。

「現代の医療に欠落した癒しの「場」としての共感の世界」ってことで、東京大学東洋文化研究所・上田紀行、京都・高雄病院の江部康二、東京都立豊島病院東洋医学科・小高修司が、「悪魔祓いから端を発するワクワク談論は風を発してとどまることがないのであります」と編集部がリードに書いているとおり。ここでは、きのう書いたように、おれもチョイと首を突っ込んだ、ホリスティック医学なるものも話題になっている。

「癒し」は、この頃から、料理と食事の分野でも注目のキーワードになった。

河野友美が寄稿しているのが意外だった。ま、あの人は「越境」を苦にしない感じだったからなあ。

「東洋医学を学ぶ」という連載があって、三浦於菟(東京・武蔵野市、武蔵境東方医院)が「東洋医学の生理観 五臓六腑は互いに調節しあう」を書いている。陰陽五行説にもとづき、下の画像のような「五臓六腑とその関連器官」などの表がある。

食材や料理の話はないが、料理家は、これに「五色」と「陰陽」をからめて、食材と料理の話をするのが、ハヤリになっていた。

また、森村一会が「中国の伝統医学とはどんな方法か」を書いている。

そして、「地球再生計画」のくくりで、「人間と健康」「食卓と農業」など。あるいは、「ナチュラリスト」の寄稿や、世界の伝承料理を旅したり。

当時は、こういう傾向はマスコミや行政などメインストリームからは無視され、かなりマイナーであったけど、急速に広く受け入れられるようになっていて、その上昇気流にのった熱気が感じられる。

それにしても、「危険な野菜が売られている」といった見出しからは、『週刊金曜日』が1996年から連載し99年に一冊にまとまって話題になった『買ってはいけない』を思い出す。こういう煽りが売れるのも、この頃からか。

いまでは「エコロジー」や「ナチュラル」はファッションとしても浸透し、「パワースポット」なる言葉も普通に流通し、なんだか知らんが「スピリチュアル女子」をあざ笑ったり、あざ笑う人たちにもの申すということにもなっている。

エコロジーやナチュラル志向は、必ずしも「スピリチュアリティ」と結びつくものではないし、けっこう科学的に追究されているところもあるのだが、「不安」や「恐怖」を煽るようになると、とんでもないところへ転がりかねない。また、「ナチュラル志向」や「スピリチュアリティ」などを頭ごなしに否定することで、とんでもないところへ転がるということもある。平成の30年間の「食」をめぐっては、そのあたりのもみあいだった一面もある。

2018/12/10「「細分化」はどこまでゆくのかねえ。こわいねえ。」に引用した、「化学調味料は簡便さという最大の特長があり、それはそれで堂々と使えばいいのであって、自然のものなら何でも上という意識は、かえって魑魅魍魎の棲家となる。もっとシンプルに自分にとっての心地よさをみんなが追求するとよいと思うな」

これには、もみあいのはざまで、おかしなところへ転がりかねない危うさを見た気がした。単純な否定というか。頭ごなしの否定は、別の危険をよびこむことになりかねない。

化学調味料も自然調味料?も連続している。どっちがいいかとか、どっちが「魑魅魍魎の棲家」になるかということではないし、「もっとシンプルに自分にとっての心地よさ」は、そもそも「ナチュラリスト」たちが得意とすることだったのではないか。「自分にとっての心地よさ」を求め、そこもまた「魑魅魍魎の棲家となる」ことだってあるのだ。

食材選びや料理は、簡便かどうかやナチュラルかどうかより、それぞれの生活の実態や能力に応じてやればよい、それだけのことだ。そこには優劣も上下もない、それぞれの生活や能力の実態にあっているかどうかだけだ。それぞれに応じて楽しむことだろう。

楽しむためには、選択肢は多いほどよい。科学や化学が広げた選択肢もあるし、エコロジーやナチュラル志向が広げた選択肢もあるのさ。そこは連続している。

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