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2019/01/26

プロとアマ、きのうの続き。

きのうのプロとアマについて、ネットで検索していたら、やはり同じようなことを気にしている人がいた。

2014年06月15日のブログの投稿に、こんなタイトルで興味あることを書いている。

「プロとアマの違い。アマチュアリズムにこんなにも深遠な哲学があったとは思わなかった。」
https://plaza.rakuten.co.jp/sasoimizu/diary/201406150000/

この人もフリーライターだけど、こう思っているのだ。

……………
ぼくの中に、「プロ」という意識は、あまりない。
ほとんどないかもしれない。
もっとプロ意識をもって仕事と取り組まないとと思っていたのだが、
でも、
果たして、それは必要なことだろうかと、
今、思っているところだ。
……………

そして、「日本のラグビー界が誇る名将・大西鉄之祐さんのことを書いた「知と熱」〈文春文庫 藤島大著)」の「大西アマチュアリズム」という章から、このことばを引用し、「アマチュアリズムにこんなにも深遠な哲学があったとは思わなかった」ということなのだ。

それは、「アマチュアリズムは自由な行動で、金に対しても、政治的な圧迫に対しても、名誉に対しても、そんなものには自分を売らないという考え方です」、ということ。

おれも、「プロ意識」なんてまったくない。かといって、アマチュアリズムを信奉したいわけでもない。というのは、きのうも書いたように、プロだのアマだのというレベルのことには興味がないからだ。

そうそう、きのう「このあいだ、あることのアマチュアの方と話しているうちに、いまどきの「プロ」と「アマ」が気になった」と書き始めたのは、アマのなかにはプロに対してコンプレックスのようなものを持っている人がいるからだ。しかも、それは、ほとんど「プロ」側からの抑圧の結果なのだ。

ある傾向ばかりを称賛していれば、そこにダーク・サイドが育つ。という当然の成り行きがあるわけだ。

とにかく、おれの興味は、プロかアマかではなく、「人間としてどうか」という自分のオリジナリティとは何かであり、それは誰でも持っているもので、それがお互いに普通に自由に発揮できるといいなあ、ってことなのだ。

「プロ意識を持て」とか「プロとして、いい仕事をしろ」とかいった抑圧は日常的にあるわけだけど、そんなものはテキトウにやりすごしておく。なにそれ、ぐらいでいいわけだ。

プロ意識なんぞ持たずに、何かしらの楽しみを持ちながら、くいっぱぐれないで生きることが普通である世間が望ましい。昨今の「プロ」や「プロ意識」礼賛は、そういう普通を破壊しているのではないか。

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