「おかず」の世界観…地味でも、ひとりでも、幸せになれます!
料理にも世界観がある。
いわゆる「日本料理」に世界観があるように「おかず」にも世界観がある。
ただ「おかず」の世界観は無名の無数の人たちによって成り立っているから、「どんな」といわれても、なかなかとらえどこがないと思っていた。
ま、じつは、あまり真剣に考えたわけじゃないのだが。
ところが、最近「おかず」について考えているうちにひらめいた。
というのも、ある高名な雑誌の編集者から、生活のなかにある料理というところをもっと現実的に見つめたいと思うが、「欲望を満たすゴチソウ料理のほうが、どうしても華があり」、編集はそちらに傾いてしまうという話を聞いたからだ。
それは、いまどきの世間の余裕ある「読者階級」の関心や思想の反映でもあるだろうけど、おれは、そういえば日々の暮らしのおかずには楽しみはあっても「華」がないかもなあ、たとえ「華」があっても料理そのものというより「食事」の興奮だろう、大衆食堂のおかずは地味だしねえと思ったのだった。
その瞬間、頭のなかに「津村記久子」がひらめいた。地味といえば津村記久子、ってわけじゃないが。
津村記久子の作品のなにかに、「おかず」の世界観に近いものがあったような気がして、本を引っ張り出してみたら、簡単に見つかった。
津村記久子の『二度寝とは、遠くにありて想うもの』(講談社)の帯にあったのだ。
「地味でも、ひとりでも、幸せになれます!」と。
これは編集者がつくったコピーかもしれないが、そのまま「おかず」の世界観ではないか。
だいたい、これまで津村記久子の作品を読んだところでは、その世界観は「おかず」に近いし。
しかし、「地味でも、ひとりでも、幸せになれます!」を、そのまま「おかず」の世界観をあらわすキャッチフレーズに使うわけにはいかない、困ったなあ、と思っているのが、今日なのだ。
思案しながら、当ブログで、『二度寝とは、遠くにありて想うもの』にふれたエントリーを検索してみたら、過去4回あった。「津村記久子」への言及は、もっと多い。津村記久子に惚れているからね。
「おかず」の世界観に最も関係ありそうなことは、このエントリーでふれていた。
2015/10/05
「数値化したらプラスになる物事だけを良しとする傾向。」
これは、2019/03/01「「下手味」と「下手糞」。」にも関係あるね。
ほか「二度寝」関連。
2015/06/21
「生活の底」と「労働の底」。
2015/06/22
津村記久子が気になっている。
2015/08/02
「川の東京学」メモ 大衆食堂から見たなくなったもの。
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