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2019/04/30

ヒグラシ文庫8周年トーク・イベントのテープ起こしです。

ここのところこのブログの更新は滞りグズグズ状態、この前連続3回のエントリーは、みな去る4月13日のヒグラシ文庫8周年トーク・イベント「飲食店ラプソディ~何の飲食店哲学の欠片もなく」のことばかりだった。ってわけで、これがうまいぐあいに連続的につながった。

グズグズしているあいだに、トークのテープ起こし(いまじゃ録音はテープじゃないが)を、トークの企画や運営でお世話になった猫のまにまにさん(フリーペーパー「猫のまにまに」「そのヒグラシ」発行人)がやってくださったのだ。

内容がよくわかる臨場感のあるまとめ。猫のまにまにさん、お疲れ様でした、ありがとうございました。

こちらでご覧いただけます。
https://note.mu/neconomanimani/n/nd424e3333aa0

5ページにわかれています。見出しをあげると、以下のようなぐあい。

(1)
型にはまらない人たちの「新しい食堂」茶話
いつでも何かまわりにあるものを面白がって取り入れて、それが、現在も続いてるだけ
餃子なんて別に食べ歩きもしないし、全然好きじゃないんですよ。
(2)
ヒグラシ文庫に行ったら「あ、こんなんオレでもできる」と思うはずです。
ボヘミアンたちの、複合・融合的シェア、ファンタジー的共同、私小説的ワンマン
苦し紛れが生み出したシェアスタイル
(3)
マーケティングやったり経営計画書いたりするなんて、まったく無駄ですよ。
出たとこ勝負的な人たちの集合体が、お店になってくる
お客さんの都合にあわせて「公園みたいな使い方」ができるお店
人生の落伍者が最後に食ってく手段としての飲み屋
(4)
餃子の皮というコンプライアンスに包んじゃえば、お店の体裁に落とし込める
個性を出すというより、世界の同じ気候帯ではとか、人が脈々と続けてきた中で今、できるもの。
鬼平犯科帳だと、慇懃無礼な軍鶏屋が実は殺人の仲介者とか、暗黒街の人ばっかり
お店をやりたいが為にお店をやるのではなく、自分の生き方を考えなおすためにその場所を使う
(5)
Q:あの、みかじめ料とか、やっぱりあるんですか? 
Q:飲食店の人たちって人が来なくて客待ってる時ってどういう心境でどういうアプローチをするのか。

登壇者

丸山伊太朗(ウナ・カメラ・リーベラ)
1980年から東京中野で無国籍料理店「カルマ」をはじめる。「こだわらないことにこだわる」をモットーに料理だけではなく人の場作りを常に模索。2001年頃より同じ中野で「una camera livera」、その後「エカイエ」、阿佐ヶ谷「イネル」を次々に共同オーナー方式でたちあげる。そこから自分の店や生き方を作り上げた人たちが全国に居て、今は実店舗はなくなってしまった「カルマ」を支えてくれている。その一人、鳥取の「カルン」の佐々木薫さんの店を引き継ぎ、tottoriカルマも運営中。

按田優子(按田餃子)
1976年東京生まれ。按田餃子店主。2012年より、食品加工専門家としてペルーアマゾンを訪れること6回。
著者に『男前ぼうろとシンデレラビスコッティ』、『冷蔵庫いらずのレシピ』、『たすかる料理』などがある。

中原蒼二(ヒグラシ文庫)
ごく若い頃、酒場のカウンターで、隣りあわせになった老人から、名刺を頂戴したことがあった。ずらりと並ぶ誇らしげな肩書には、すべて「元」が付いていた。それで貴方は、と問いかけると、老人の姿は忽然と消えていた。
1949年、東京生まれ。北九州角打ち文化研究会関東支部長。立ち飲み屋「ヒグラシ文庫」(鎌倉・大船)主宰。横浜周辺の酒飲みが欠かさず愛読している『はま太郎』の版元、星羊社から、昨年『わが日常茶飯ー立ち飲み屋「ヒグラシ文庫」店主の馳走帳』を刊行。

 

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2019/04/21

トークも写真も記念碑的。

去る13日のヒグラシ文庫8周年トーク、考えれば考えるほど貴重ないいトークだった、登壇者の写真がほしいと検索したら、星羊社さんのツイートにあった。しかも、いい写真だ。

「消費者」や「ユーザー」として「いいもの」「いい店」を追いかけ鑑賞採点消費する文化は、あいかわらず強力だけど、それとは違う「自らつくりだす」生き方と可能性がある。最近の食事や料理をめぐる発言や動きにも、そういう傾向が、はっきり見えるようになった。

そういう状況のいま、この顔ぶれでトークができたのは、「これから」へのステップになるようで、ほんとうによかった。

 

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2019/04/17

ヒグラシ文庫8周年トーク。配布資料の続き。

昨日の続き。配布した資料のテキストに、少し改行などを加え読みやすくしただけで載せておく。

トークの前半は、登壇者のプロフィールと時代背景について。

(「新しい食堂」より)とあるのは、スペクテイター42号「新しい食堂」を参照している。

◆印は、時代背景を、大きな力に寄らず「自ら生んでいく、自らつくりだしていく」インディーズ・カルチャーの視点からピックアップしたもの。

 

(前半 プロフィールと時代背景)

丸山さん 1969年 吉祥寺のbe-bopでアルバイトを始める「大学は七〇年安保前夜、闘争闘争で講義なんてほとんどない。僕自身も勉強なんかより街に出て、外でのいろんな出会いの方が何倍も面白いって気持ちもあって」。1年後ぐらいに高円寺にムーヴィン開店した。丸山さん「ムーヴィンの雇われ店長になる」

75年大学を卒業し「保父さんになる」「『ロック喫茶も保育園も同じ、まったく違った考え方や才能を持っている人がゴチャゴチャに集うからこそ面白い』——この丸山さんの発想が、無国籍食堂カルマを生んでいく」(「新しい食堂」より)

中原さん 69年『檀流クッキング』檀一雄、74年『庖丁文化論』江原恵を読む。「檀一雄と江原恵から教わったことは、権威に頼らなくとも、料理本なんかに書いてある通りに作らなくても、それはそれなりに旨いよ、自分が食べるものは、それでいいんだ、ということであった」(『わが日常茶飯』星羊社より)

◆インディペンデントなカルチャーの胎動と躍動…60年代後半~70年代、アングラ、ヒッピー、サブ・カルチャー、カウンター・カルチャーなど、既成の文化や業界に寄らない、自ら別の可能性をひらく生き方が若者のあいだに広がった。◆1969年~75年インディーズレーベルの先駆けURC(アンダーグラウンド・レコード・クラブ)◆謄写版印刷、リソグラフ、コピーなどを利用した「自己表現」など。

1976年 按田さん生まれる。

1980年 丸山さん 中野にカルマ開店。「僕たちの頃って、とにかく始めちゃおう、やってみて、ダメなら仲間どうし頭を突き合わせて工夫してみようみたいな雰囲気があったよね。それは決して料理に限らずだけどね」「ちょうどカルマを始めた年、玉村豊男さんの『料理の四面体』(鎌倉書房)という本が出たんですよ」

「つまり世界は広いけど、同じ人間だから、決してまったく違ったものを食べるわけじゃないんだよね」「結局、系統立てて料理の勉強なんかしたわけじゃないメンバーが集まって、自分ができる料理をそれぞれ「これだぁ」って作ってメニューにしていくわけだよね」「僕の中には家庭料理というのが根本にある気がする」「料理を通してその日の一日の何かが交わされるっていうようなのが基本なのかなあ」(「新しい食堂」より)

◆「無国籍料理」が知られていく…カルマのほかにも渋谷のスンダなど。既成の「和洋中」の概念から自由な、型にはまらない。「第三世界の」あるいは「第三世界的」料理。84年、エスニック料理ブームはこの一冊から始まったといわれる、『東京エスニック料理読本』(冬樹社)刊行。美術家集団「キュール」のケータリングなど、とくに料理について体系だった修業をしてない「素人」による料理の営業が活発になる。カルマでは、のちの料理研究家、高山なおみと枝元なほみなど。「無国籍料理」つまり「国籍」より「人間」の視点からの料理。

◆すでに昭和の初期に、このようなことを言っていた日本料理人がいたのだが→「どこの材料を用いて誰がつくらうと、日本国内で成す料理はみんな日本料理となり、もう一段進むと、日本料理も支那料理も西洋料理も無く、そこには人間の料理があるばかりとなります。」(『日本料理通』楽満斎太郎、四六書院・昭和五年(1930)刊、「料理概念の巻」の「(一)料理にも国境が必要か?」)

◆80年代~90年代、消費主義の繁栄の一方で、自らつくりだすインディーズ・カルチャーの広がり。DIYやシェア、普通化するエスニック料理など。
◆21世紀の幕開け、2001年頃…「手づくり(DIY)ブーム」、シロートの台頭、月刊誌『MUTTS』(マガジンハウス)。ウマイ/マズイではなく、自分の好みを自由に料理で表現する。餃子が家庭料理の人気、定番化。「カンブツ・キュイジーヌ」「カフェごはん」などの動き。東京の新進人気カフェの担い手が語る…森田大剛(1973年生まれ。吉祥寺「FLOOR!」店長)「今カフェといわれるものは、大企業や大資本がつくり出したものじゃなくて、個人が本当に好きなことをやっているだけですよ」「ブームっていったって、普通のことを当たり前にやっているだけなんだけど」
◆2008年、リーマンショック。大阪から「間借り営業」の飲食店が広がる。「間借りカレー店」が急増、スパイスカレーブーム第三世代を担う。「ここ、20~30年の料理は自己表現の時代だと思います。5千円以上の世界だったのが、カレーなら千円前後で表現できる時代に」(定食堂金剛石、ミーツ・リージョナル2018年9月号「大阪スパイスカレー」特集)

 

2011年3月、東日本大震災と東電福島原発事故。

同年4月 中原さん、鎌倉に「ヒグラシ文庫」開店。のち大船にも出店。
同年8月 按田さん、『冷蔵庫いらずのレシピ』(ワニブックス)出版。写真を担当した鈴木陽介さんと、2012年「按田餃子」を代々木上原に開店。のち二子玉川にも出店。

 

(休憩を10分はさんで、後半)

「場」や「場所」と料理や食事をめぐって。

鈴木「放っておいてくれる関係がよい」「僕は普段の生活をしていく上でも無理をせず、自分たちが今できることをやればいいんじゃないかと思っているんで。無理をしている人は格好悪いというか大変そうだなぁ」「大事なことは吉野家で学んだ」

按田「(吉野家でのアルバイトから)お客さんと店員さんとの距離もそんなに縮まらないところも良いんです。その感じが銭湯にも似ていて、そこが自分の性に合っていたと思います。必要だから、そこに来ている感じというか。私たち按田餃子も、お客さんのお腹を満たすためにやっている。そこは似ていると思います」

鈴木「人間一番淋しい時って、居場所がない時じゃないですかね」「誰のものでもないし、特別な場所でもありません。たかが餃子屋ですが、どんな方にもご飯の時間と場所を提供したい。それが『助けたい包みた按田餃子でございます』ということになります。だから、ひとりでも、誰かとでも、今日はもう面倒だから按田餃子でいいか。そうだな、それでいいか。という時に、お店に来てもらえたらとっても嬉しいです」(「新しい食堂」より)

按田「ふだんの食事はしびれ旨くなくていい」「『ふつうの味』を作りたい」「だいたいの人の実家は頓珍漢でカオスに違いないと思っています」「鈴木さんも『家っぽく』『生活の邪魔をしないように』と思っていたのでした」「気取らず食事ができるように」(『たすかる料理』リトルモア、より)

中原「家と仕事先だけではなく、もう一つの『場所』が必要だ。それを自分で作ろう、と思った」「店はせまい、でも遠くへつながっている」「メインのスタッフも、誰ひとり包丁修行などをした経験者はいない」「メインスタッフが代わるたびに肴も変わる。しかし、時間が経って「名物」とでも呼びたいものが出てくる」(『わが日常茶飯』(星羊社)より)

丸山「いろいろ日々混じりあっている」「八十年代にはフュージョン(融合)って言葉が流行ったでしょう?」「食堂って場だと思うから、美味しいものを出すのも大切だろうけど、やっぱり楽しいところじゃないと、というのがあるよね」(「新しい食堂」より)

 

飲食店→産業や業界に位置づくためにがんばったり無理をするのではなく、大きな力のヒエラルキーの外側で地域に位置づくことで自由にやれる余地がある。→本当の自己責任。

 

20分ほど質疑応答のち終了。

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2019/04/16

充実泥酔。ありがとうございました、ヒグラシ文庫8周年トーク。

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去る13日の鎌倉「まちの社員食堂」での、ヒグラシ文庫8周年トーク、ありがとうございました。

定員以上の集まりで、立ち見も出てしまいましたが、トークのあとの蕎麦屋での懇親会、そのあとヒグラシ文庫へ移動しての懇親会まで、たくさんの方にお付き合いいただきました。

人前で話すのは今回が最後になると言っていたヒグラシ文庫主宰の中原蒼二さんも、元気そうな姿を見せてくれてうれしかった。

按田さんとは、ずいぶんひさしぶりだった。彼女が7年前に按田餃子を出すことなど空想にもなかったころ、中野で数十秒ぐらい言葉を交わした以来だったが、二人とも覚えていた。「こういうところでお会いすることになるとは、想像もしてなかったですねえ」と、お互いに。

丸山さんは、中野にあったカルマに1990年前後だったか、入って食べたときチラッと見かけた以来だった。

なんだか、ここで会うのは必然のようでいて、やっぱりスペクテイター42号「新しい食堂」がもたらした偶然なのだ。

トークは、13時半開場で14時スタートだったが、スタッフのみなさんは10時に集合し準備をしてくださった。

登壇者のみなさんも12時に集合だった。みなさん、懇親会まで、長時間お疲れさまでした。

おれは司会だったけど、もともと起承転結が苦手のいい加減な人間なのでキッチリしたことはできない。登壇者の方と茶のみ話をしているところを見てもらう感じでということで始めた。

それに、じつは、東大宮を10時ごろ発ち、鎌倉までの2時間ほどのあいだ飲み続けで、会場に着いて打ち合わせの時も、みなさんはコーヒーなどだったが、おれだけ酒だった。すみません、アル中なもので。

このトークは、とくにこれから飲食店をやりたいと思っている方に聞いてほしいという企画だったから、最初に「飲食店をやりたいと思っている人」に手を挙げてもらったら、半数近くいたので、正直おどろいたし、うれしくて調子にのった。

懇親会のヒグラシ文庫の途中から泥酔意識喪失、その状態で2時間ほど電車に乗って東大宮の自宅まで帰った。どうやって帰ったのかわからないが、とにかく無事に帰っていた。

いい集まりだった。

おれは、司会のために、イチオウいろいろ読み返し準備をしたのだが、だんだん面白くなってメモにした。それを簡単にまとめたものを50部ほどコピーし会場で配った。

1ページ目だけを、ここに載せる。これは、トークの最初の出だしで、登壇者の方々を紹介するためのメモだ。

このあと4ページほどあるのだが、トークの内容に関係することで、これがけっこう面白い、と自分では思っているので、もしかすると明日以降に、ここに載せるかもしれない。

とくに丸山さんが関わっていた1960年代中ごろからのインディーズ・カルチャーの台頭と、当初は「無国籍料理」などと自称したり他称されたりした食文化の動向は、おれも意識していなかったが、もっと検討されてよい。カルマのスタッフだった高山なおみさんなど、按田さんの料理もそうだし、この流れは脈々と存在する。

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2019年4月13日(土)ヒグラシ文庫8周年トーク 司会資料(エンテツ作成)
「飲食店ラプソディ——何の飲食哲学の欠片もなく」

スペクテイター42号「新しい食堂」が縁になってのトーク。「新しい食堂」「これからの食堂」を始めたい人のために。トークを参考に、自分がやりたい食堂を自分なりにイメージしてもらえたらいい。

丸山伊太朗さん(ウナ・カメラ・リーベラ)
 1950年生まれ。1980年、無国籍料理「カルマ」開店。2014年「カルマ」閉店のちシェアカフェ「ウナ・カ メラ・リーベラ(ウナカメ)」発足。
按田優子さん(按田食堂)
 1876年生まれ。2012年、「按田餃子」開店(写真家・鈴木陽介さんと共同経営)。代々木上原と二子玉川。
中原蒼二さん(ヒグラシ文庫)
 1949年生まれ。2011年、立ち飲み屋「ヒグラシ文庫」開店。鎌倉と大船。

三者三様
シェア、共同経営、ワンマン、性格や好みなどの違いによる料理と運営→丸山さん複合融合的、按田さんファンタジー的、中原さん私小説的。

だけど、共通点があるようだ。
◆「新しい」からよい「古い」からよいではない。◆ボヘミアン―旅人的—より自由、解放的かつ開放的。きちっとした生き方(「特定の業界」に位置づいていく)からの逸脱。出たとこ勝負に強い。◆素人からの開店(料理について系統立てた勉強や修業をしてない)◆それぞれの日々の生き方としての料理や食事…家庭料理、日常性、「ふつう」を基本にしている。

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トークのあとアンケートをお願いしたのだが、片づけでワサワサしているにも関わらず、多くの参加者のみなさんが熱心に書いてくださり、感動した。一部をここに紹介する。

・大学を卒業して、何をなりわいとして生きていくか悩んでいたところ、参加しました。食堂、飲食店に関わらず、人の集まる場づくりを、自分の地元、鎌倉で開業したいと思いました!
・食堂や場所つくりに興味があり参加しました。どうしても、お店をつくるというとなんとなく難しいコンセプトを考えつめなければいけないような気がしていたのですが、お三方のお話、特に丸山さんのお客さんの意見でお店をつくっていくという話に、大切にする部分を忘れないようにしながら、色んな意見をとりいれて、やっていけばいいのかと少し気が楽になりました。
・今、何かをはじめたいと思っているところです。(家以外の、ひらけた場所を使って皆が幸せになるところをつくりたいと思っている)皆の話をきいて、すぐ私でも始められると嬉しい気持ちになりました!
・ほったらかしの話がよかったです。暇でも大丈夫なのは能力なのだと思いました。私もようやくそうなってきました。
・生のお話が伺えてよかったです。多分語りつくせぬほどのご苦労があったと思うのですが、それを感じさせない内容が強い生き方だと思いました。
・司会の遠藤さんも含め、四人四様の面白さを楽しめました。
・皆さん個性的で楽しかったです。
・とても楽しかったです。またやってください。
・最後の苦労話のところが面白かったです。私は専ら客の側なので、居場所としている店がこういうふうにできている、的に聴いていました。
・自分の今に丁度良い内容でした。

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