慣れ切った、自分の視角や視点を疑う。
そこへ行けば、それがある、それは調べようもあるし、調べればわかる。ところが、わかっても行くにはハードルが高い。だから「いくつ征服したか」が勝負になる。そういう類の、あそことか、あそことか、行きました。ってのは、まあ、耳目を引くが、カネとヒマがあれば、誰でもあるていどはやれる。
その場合、ネタのよしあしや、対象の希少性や数がポイントになるのがほとんどだが、視角や視点はステレオタイプでウケのよい惰性的なものが多い。たいがいの「飲食ネタ」は、そういうものだ。
旧来メディアもちろん、ツイッターも、インスタも、フェイスブックも、「キャッチー」な飲食ネタであふれている。いくらメディアが増えても、目先の表現を変えたていどのもの。「丁寧」とか「鋭い」とか「まっすぐ」とか「淡々」とか…。
別に、そういうことに意義をとなえるつもりはない。大いに楽しみ競うがいいだろう。
が、創造性をめざすなら、たとえば、この画像のような「裏景色萌え」を画像におさめるのは、けっこう創造的で難儀なことだと思う。
ここに都市の一つの真実がある。と見ることもできる。
ある種の「考現学」ともいえるか。その派生といえる「路上観察学」なるものもあるが、たかだか「路上」やその延長の視角や視点にすぎない。
そこへいくと、たとえば、こういうのは、どうだろう。というのが、この画像だ。
新宿の某ビルの便所から撮った。
おれはやる気はないが、これからの可能性には、こういう視角や視点が必要なのではないか。
慣れ切った、自分の視角や視点を疑うこと。

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