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2019/06/22

昨日は間違っていた。

昨夜は寝床に入ってから、掛け算では間違っていると気がついた。割り算でなくては、剰余がでないのだ。

そこが気になって、うつらうつらしながら考えるものだから、よく眠れなかった。

うつらうつらしながら考えたことは、まず、元の方程式「事件÷推理=解決+剰余」に素直に従ってみると、「事件を推理によって解く」となる。これを料理と味覚に置き換えれば、「料理を味覚によって解く」になるから、ひとまず「料理÷味覚=解決+剰余」となる。しかし「解決」に替わる言葉が思いつかない。

とりあえず、「解決」を「味」にしてみると、「料理÷味覚=味+剰余」になる。「生活的」には、これでもよいかな、という感じではあるから、いまは、こうしておこうと思った。

生活度よりグルメ度(趣味度)が高くなるほど、管理や抑圧が強く働き、「剰余」が無くなり、「料理÷味覚=味」の世界になっていく。

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2019/06/21

料理と味覚の楽しみにおける「剰余価値説」を考えてみた。

植草甚一の『こんなコラムばかり新聞や雑誌に書いていた』(ちくま文庫」を読んでいると、ついつい料理や味覚のことに関連させて考えてしまうことが多い。

本を味わうには学習をつんで読解力がいるように、料理を味わうにも学習をつんで「味読力」のようなものが必要だ。植草甚一の読解力の核には「論理」があって、これが「味読力」にも応用ができそうな気がして、ついつい考え込んでしまうのだ。

って、この文章の調子も、植草甚一に似てきちゃいそうだが、いま気になっているのは、「事件÷推理=解決+剰余」という方程式だ。

この方程式は、「ラウトリーという偉い牧師も推理小説を読みながら、悪の問題と直面している」という長い見出しで、エリック・ラウトリー『探偵小説のピュリタン的な楽しみ』と権田萬治『宿命の美学』を評しているなかにある。植草甚一の考案ではなく、権田萬治の考案なのだ。

『宿命の美学』は十三年間にわたる評論の集大成であり、その間に権田萬治が「推理小説を楽しむための個人的鉄則として、一つの方程式つくった」、それが、これなのだ。

「この方程式にある<剰余>が問題になってくるのであるが」と植草甚一は、<剰余>が作品の魅力になっている長編推理小説を12編あげている。権田萬治が選べば、その方程式に従って、たんぶこうなるだろうということなのだ。この試みも楽しく面白い。

「ところで」と植草甚一は、「<剰余>がなくなって(事件÷推理=解決)という方程式をつくったのは土屋隆夫なのであるが、よく出来上がった本格派の推理小説を規定したものとして、なまじっかな定義により遙かに明確なので気持ちがいい」と。

そして、「エリック・ラウトリーはどうかというと、<剰余>なしの本格物がすきな人である。すぐれた本格物は読み終わったときカタルシス作用を起こさせるものだ。そのためにまたカタルシス作用を起こさせるような作品が読みたくなってくる」

カンジンなのは、ここからだ。

「ところが<剰余>がある推理小説の場合はカタルシス作用をおこさせないことが多い。割り切った結末がないからだ」

と、このまま引用を終わっては、植草甚一にも権田萬治にも失礼だ。

とにかく権田萬治は、日本の作家と翻訳された推理小説は全部読んでしまった、「一か月に五十冊も読まないとカタがつかないことがあったそうだが、そんなとき推理小説の<剰余>的要素がどんなに面白いものかを繰り返し感じとったにちがいないのだ」

で、おれは、大衆食堂や家庭の料理というのは、割り切った結末がない。特定の管理や抑圧から比較的自由であり、台所を担当する者の意思や気分が働きやすい、きのうの続きであり明日に続く日々の繰り返しだ、そこに<剰余>があるのか生まれるのか、その<剰余>を楽しむものではないかと思った。

「本格的」な専門料理ほど、<剰余>はなく、事件÷推理=解決の方程式にはまる。完結する方程式のうえに成り立っている料理だ。興奮または大興奮するほどのカタルシス作用がある。でなければ、高いカネを払って食べに行かない。

マニュアル化されたチェーン店の場合は、管理と抑圧に従っているから<余剰>は生まれない。想像通りのものを想像通りに食べて終わる。

とまでは考えてみたのだが、事件÷推理=解決の、「事件」や「推理」や「解決」に相当するものは料理の場合どうなるだろうというあたりが解決しない。

「事件」は、「素材」あるいは「食材」でよさそうだ。「推理」を「調理」にした場合、「÷」が、どうもしっくりこない、「×」ならよいかもしれない。「解決」は「料理」では、単純すぎる、「食卓」のほうが「解決」に近いのではないか。

とかとか考えてみると、なかなか面白くて、とまらない。

これを料理と味覚の「剰余価値説」として追求してみよう。「剰余価値説」といえばマルクス経済学だが。「いづみやの煮込みのルサンチマン的な楽しみ」についても、また考えてみたくなった。ああ<剰余>。

当ブログ関連
2007/11/18
大宮いづみやで「ルサンチマンの味」を知る
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2007/11/post_0bf4.html
2016/02/01
開高健『鯨の舌』から、味の言葉。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2016/02/post-3fda.html

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2019/06/19

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」80回目、高円寺・富士川食堂。

20190517

先月5月17日に掲載のものだ。すでに東京新聞のサイトでご覧いただける。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2019051702000180.html

高円寺は安い大衆的な飲食店が多い街だ。飲食店に限らず、小さな店が共存共栄としのぎの削りあいを生きているようで、いろいろ安く、若い人が暮しやすいとも言われている。だけど、この連載で高円寺の大衆食堂を紹介するのは初めてだ。

昨年、座・高円寺が発行するフリーマガジン「座・高円寺」19号の特集「高円寺定食物語」で文を担当した。取材する食堂の選択やロケハンから関わった。そのときは、富士川食堂は、候補に入っていながら、最終的にはほかの7店が選ばれた。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2018/03/19-cf7a.html

そのあたりはメディアの公共性と個性の打ち出し方のかねあいがある。

Dscn0379 この連載の視点である、「食生活の視点」からすれば、富士川食堂は、はずせない。高円寺駅周辺には、ほかにもはずせない食堂があるが、まずは、ここかなという感じだ。すでにメディア露出も多い。

高円寺へ行ったときには、中休みがないという利便性もあって、けっこう利用している。

今回、初めて「盛合わせ天ぷら定食」を食べた。皿に盛られた天ぷらの、上からは見えないが、一番下にサツマイモの天ぷらがあった。偶然一番下になったのかもしれないが、これが、ポテトチップのように薄い、見事な薄さで、しかも、もちろん、ちゃんとサツマイモの味がするわけで、これがあるかないかで「盛合わせの印象」は、ずいぶん変わるような気がした。

それと、ふた切れのキュウリの糠漬けが、いい味だった。

どちらも「小さい」が定食の中に占める役割は、小さくはないと思い、「けっこう薄い小さい「小役」も力を発揮するものだ」と書いた。ところが、新聞社のほうとしては、「小役」は表記にはなく「子役」になるということで、「子役」に変えられた。「子役」じゃなくて「小役」であるところに意味があるのになあと、担当デスクの方とも話したのだが、ま、おれはナニゴトにもこだわらないほうなので、「子役」でヨシとした。

とにかく、とかく、盛合わせ天ぷらのエビやキスあるいはカボチャやナスのような「大物」が耳目を集めやすいが、「盛合わせ」の豊かさは、それだけで語られるものではない。なんだか「社会」や「コミュニティ」と似ている。小さな商店が集まった高円寺の魅力も、似たようなことがいえる。社会は盛合わせなのだ。  

この日は、暑くて、食堂のおやじは今日は天ぷらがよく出ると言っていた。おれの隣では、若い、髪の毛のスタイルをなんて呼ぶのか、細かく分けて編んでピンでとめた若者が、ビシッと背筋をのばして食事をしていた。その向こうでは、高齢のおやじがカウンターに両肘をついてだらしなく食っていた。しばらくして若い夫妻が入ってきた。みな馴染み客のようで、食堂のおやじの愛想がよかった。おやじは、腰を痛めていて(この商売の職業病みたいなものだが)、それをかばうように動いていた。

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2019/06/08

『暮しの手帖』100号、「家庭料理ってどういうもの?」。

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慣れない重い仕事にエネルギーを吸い取られていた。同時にエネルギーを補給されたようでもある。ようするに学習して何か力がついたような感じかな。ま、だからといって何がどうなるわけでもないのだが。

この間、去る5月25日に『暮しの手帖』6-7月号、「第4世紀100号記念」というのが発売になった。資料として必要がないかぎり買ったことがない、おれのように下世話な者には縁がない、書棚には4冊しかない雑誌だ。瀬尾幸子さんが「瀬尾新聞」という連載ページを持っていたのも知らなかった。

で、その瀬尾新聞で、大衆食堂の料理を取り上げて紹介しながら、瀬尾さんとおれとで「家庭料理ってどういうもの?」っていう対談をできないかという相談があった。「どういうもの?」ということで、もっと「家庭料理」について考えてもらえるようなことをまとめたいという趣旨だった。

ってわけで、一度企画の相談で会い、企画の内容に即していて取り上げるによい食堂を二軒取材した。

江東区深川の「はやふね食堂」と文京区動坂下の「動坂食堂」だ。どちらも、東京新聞の連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」と、ダンチューに書かせてもらったことがある。

この二軒は立地の違いに特徴があるうえ、両店のメニューをあわせると、近代の(中には江戸期までさかのぼれるものもあるが)、いわゆる「家庭料理」のスタンダードを見渡せる。「家庭料理ってどういうもの?」を考えるには、都合がよいのだ。

打ち合わせと、食堂2軒、計三日三回、どんどん飲みながら瀬尾さんと話した。かなりとっちらかった話をした。

担当の編集さんが記事にまとめたものを見て、びっくりした。さすがだ。「家庭料理論」としてはもちろん、「料理論」としても、その本質的なところが、うまく簡潔にまとまっているのだ。自分で書こうとしたら、こうはうまくいかない。これは、これからの議論のベースになりうるだろう。

ということに、どれぐらいの人が気が付いてくれるかどうかわからないが、これから「料理論」なるものへの関心は高まるだろう気配がある。そのとき、大いに参考になるはずだ。

注目点は、大衆食堂のメニューに多い、特定の名がない、名もなき料理だ。つまり、「〇〇煮」や「××焼」というぐあいに、素材に+煮る/焼く/炒める/蒸すなどの料理法がついてるだけの料理。野菜炒めなんかも、そうだ。これが、家庭でも、ありふれているし、名もないだけに、たいして話題にもならないが、太古の昔からある、料理の入り口なのだ。

ここでは、「個」という言葉を使っていないが、肝心なことは「個」と「料理」と「抑圧」の関係だ。

「個」と「料理」に対しては、さまざまな抑圧がある。そんなものは料理じゃないとか、ただ煮ただけじゃないか/焼いただけじゃないか/チンしただけじゃないか、「手抜き」だとか、健康のためとか、とくに「いい物うまい物」話が盛んで、どこそこのナントカ料理カントカ料理が次から次へと耳目を集め、それはたかだか「いい消費」ぐらいのことなのに、とても派手で華やかで美しく、日々の生活の料理は地味な後ろめたい気分に追い込まれてしまう。人目を気にしたり、自分の料理はこれでいいのだろうか思ってしまったり、とにかく、料理する「個」の気分はなかなか自由に解放されない。

「家庭料理」という言葉も、「家庭」という抑圧があって、あまりよい表現だとは思わないのだが、「管理」や「抑圧」がない、それが普通である料理について、その入り口の話をしている。

入り口を間違えると、「料理」という家に入るにも、とんでもないことになる。すでに、けっこうとんでもないことになっているから、「家庭料理ってどういうもの?」について考えてみてもよいのだ。

「個」と「自立」と「料理」の関係、そこなのだな、問題は。

ってことで、ごく気楽な対談をしている。

写真撮影は、長野陽一さん。これまで、何度か飲み会で顔をあわせているが、一緒の仕事は初めてだ。食堂の料理を紹介する写真が、誌面の関係で小さいし、被写体は地味なんだけど、いい個性を出している。

最後の見開きは、瀬尾さんの手による「名もないおかず」。

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