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2019/06/21

料理と味覚の楽しみにおける「剰余価値説」を考えてみた。

植草甚一の『こんなコラムばかり新聞や雑誌に書いていた』(ちくま文庫」を読んでいると、ついつい料理や味覚のことに関連させて考えてしまうことが多い。

本を味わうには学習をつんで読解力がいるように、料理を味わうにも学習をつんで「味読力」のようなものが必要だ。植草甚一の読解力の核には「論理」があって、これが「味読力」にも応用ができそうな気がして、ついつい考え込んでしまうのだ。

って、この文章の調子も、植草甚一に似てきちゃいそうだが、いま気になっているのは、「事件÷推理=解決+剰余」という方程式だ。

この方程式は、「ラウトリーという偉い牧師も推理小説を読みながら、悪の問題と直面している」という長い見出しで、エリック・ラウトリー『探偵小説のピュリタン的な楽しみ』と権田萬治『宿命の美学』を評しているなかにある。植草甚一の考案ではなく、権田萬治の考案なのだ。

『宿命の美学』は十三年間にわたる評論の集大成であり、その間に権田萬治が「推理小説を楽しむための個人的鉄則として、一つの方程式つくった」、それが、これなのだ。

「この方程式にある<剰余>が問題になってくるのであるが」と植草甚一は、<剰余>が作品の魅力になっている長編推理小説を12編あげている。権田萬治が選べば、その方程式に従って、たんぶこうなるだろうということなのだ。この試みも楽しく面白い。

「ところで」と植草甚一は、「<剰余>がなくなって(事件÷推理=解決)という方程式をつくったのは土屋隆夫なのであるが、よく出来上がった本格派の推理小説を規定したものとして、なまじっかな定義により遙かに明確なので気持ちがいい」と。

そして、「エリック・ラウトリーはどうかというと、<剰余>なしの本格物がすきな人である。すぐれた本格物は読み終わったときカタルシス作用を起こさせるものだ。そのためにまたカタルシス作用を起こさせるような作品が読みたくなってくる」

カンジンなのは、ここからだ。

「ところが<剰余>がある推理小説の場合はカタルシス作用をおこさせないことが多い。割り切った結末がないからだ」

と、このまま引用を終わっては、植草甚一にも権田萬治にも失礼だ。

とにかく権田萬治は、日本の作家と翻訳された推理小説は全部読んでしまった、「一か月に五十冊も読まないとカタがつかないことがあったそうだが、そんなとき推理小説の<剰余>的要素がどんなに面白いものかを繰り返し感じとったにちがいないのだ」

で、おれは、大衆食堂や家庭の料理というのは、割り切った結末がない。特定の管理や抑圧から比較的自由であり、台所を担当する者の意思や気分が働きやすい、きのうの続きであり明日に続く日々の繰り返しだ、そこに<剰余>があるのか生まれるのか、その<剰余>を楽しむものではないかと思った。

「本格的」な専門料理ほど、<剰余>はなく、事件÷推理=解決の方程式にはまる。完結する方程式のうえに成り立っている料理だ。興奮または大興奮するほどのカタルシス作用がある。でなければ、高いカネを払って食べに行かない。

マニュアル化されたチェーン店の場合は、管理と抑圧に従っているから<余剰>は生まれない。想像通りのものを想像通りに食べて終わる。

とまでは考えてみたのだが、事件÷推理=解決の、「事件」や「推理」や「解決」に相当するものは料理の場合どうなるだろうというあたりが解決しない。

「事件」は、「素材」あるいは「食材」でよさそうだ。「推理」を「調理」にした場合、「÷」が、どうもしっくりこない、「×」ならよいかもしれない。「解決」は「料理」では、単純すぎる、「食卓」のほうが「解決」に近いのではないか。

とかとか考えてみると、なかなか面白くて、とまらない。

これを料理と味覚の「剰余価値説」として追求してみよう。「剰余価値説」といえばマルクス経済学だが。「いづみやの煮込みのルサンチマン的な楽しみ」についても、また考えてみたくなった。ああ<剰余>。

当ブログ関連
2007/11/18
大宮いづみやで「ルサンチマンの味」を知る
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2007/11/post_0bf4.html
2016/02/01
開高健『鯨の舌』から、味の言葉。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2016/02/post-3fda.html

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