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2019/07/01

中原蒼二さんが亡くなった。

今日から今年の後半だ。ま、毎日が一年の終わりであり始まりではあるのだが。

ブログをサボっているあいだに、いろいろなことがあった。まず、鎌倉のヒグラシ文庫の主宰者、中原蒼二さんが亡くなったことを書いておこう。

26日朝、メールを開くと、中原さんが20日に亡くなり、誰にも知らせるなという本人の遺志で、すでに葬儀も終わった旨の連絡があった。あとでわかったのだが、荼毘に付されたのは25日のことで、そのあと身近な関係者に知らされたようだ。

おれは、4月13日のヒグラシ文庫8周年記念トークで司会をやることになり、事前にヒグラシ文庫の方と打ち合わせのとき、中原さんは当日欠席になる可能性もあるといわれていた。中原さんは、フェイスブックで、これが人前で話す最後になるだろうと言っていた。

短期の治療のための入退院を繰り返し、だいぶ具合は悪いようだったが、一年も前から「死ぬ、死ぬ」と言っていて、まわりのものには「死ぬ死ぬ詐欺だ」なーんて冗談をいわれていたから、実際のところはどうだろうと思いながら、4月13日は鎌倉の会場へ行った。

中原さんは、やつれた感じはなく、元気そうな姿をあらわした。おれと二人だけになると、「医者に言われた余命が、あと80日になった。もう通院もだめで往診ということになった」と言った。近くで見ると、やつれてはいないが、皮膚は血色はなく蝋色をおびていた。「いよいよか」と思った。

トークの司会は、けっこううまくいって、中原さんにも満足してもらった。打ち上げでは隣に座って、禁止されている酒を飲み、いつものように怪気炎をあげ、とても死ぬ人には見えなかった。

だけど、これでお別れだなというつもりで、飲み、別れた。

中原さんと初めてあったのは、北九州市のPR誌『雲のうえ』5号食堂特集のロケハンのときだった。2007年7月17日から北九州を訪ねたのだが、18日だったと思う。中原さんは北九州市の参与であり、雲のうえの創刊プロデューサーで当時はまだ編集委員をしていた。「雲のうえの創刊プロデューサー」と書いたが、それは北九州市における中原さんプロデュースの一つの業務にすぎなかった。なんといったらよいか北九州市の「都市デザイン」に関わるようなものというか、そういう大きなプロジェクトに参与していたのだ。

それから何かと一緒に飲む機会がふえた。2008年には、彼は住まいを逗子に移し、北九州へは仕事のときだけ出かけるようになっていた。9月の始めに、おれは彼が北九州市で講師をつとめる「まちづくりプロデューサー養成講座」のゲストに招かれ、9月28日には逗子の自宅で中原さんの手料理で、おれの65歳の「高齢者入り」を祝ってもらった。

このブロクから中原さんと一緒だった日をピックアップしリンクを貼ろうとしたが、たくさんありすぎて無理だ。水族館劇場(中原さんはプロデューサー)の公演、北九州角打ち文化研究会関東支部(中原さんが支部長)などの飲み会、三軒茶屋や経堂、とにかく、いろいろなところでよく飲んだ。

しかし、かれのことを書くのは非常に難しい。全貌がつかみにくいこともある。

深夜食堂のオープニング曲は、鈴木常吉さんの「思ひで」であり、彼のセカンドアルバム「望郷」には、中原さん作詞の「さびしい時には」が収まっている。

この曲と詞の出あいは劇的だった。あのころ、常さんと中原さんとおれは、お互いのブログを覗き歩いていた。おれが中原さんのブログを見ているとき、中原さんが「さびしい時には」の詞をブログにあげた。するとそれを見ていたらしい常さんが、すぐに「曲があります」とか「曲ができました」とか、そのようなコメントをしたのだ。おれが見ている前で、一瞬、という感じだった。

あとで、常さんに、あれは中原さんの詞に、あとで曲をつけたという感じではなくできたように見えたけど、どういうことなのだときいた。すると、あのとき、詞は見ないうちに曲ができあがっていたのだと常さんはいうのだった。常さんの頭の中には、言葉だけじゃなく曲がすんでいるらしい、さすがミュージシャンだとおれは思ったのだった。

中原さんが残した一冊だけの著書、『わが日常茶飯 立ち飲み屋「ヒグラシ文庫」店主の馳走帳』は、去年の6月の発行だった。ほんとうは、ほかのテーマでも、たくさん書けるものを持っていた人だったし、いくつか出版の話があったようだが、実現しなかった。そして、たった一冊だけ残した。それだけに、この本には、中原さんの忸怩と矜持が、たっぷりつまっている。

こうしてデレデレ書いていると切りがない。終わりにしよう。

中原さんは、4月13日のトークのチラシに載っているプロフィールに、このように書いていた。

「ごく若い頃、酒場のカウンターで、隣りあわせになった老人から、名刺を頂戴したことがあった。ずらりと並ぶ誇らしげな肩書には、すべて「元」が付いていた。それで貴方は、と言いかけると、老人の姿は忽然と消えていた」

牧野伊三夫さんが発行人の美術同人誌「四月と十月」に、中原さんは「包丁論」という連載を持っていた。昨年の10月号から始まった連載で、今年の4月号が2回目だった、そのプロフィールにも同じ文があった。

あ~、中原さんらしい、別れの挨拶というか、モノローグというか、これもまた忸怩と矜持のあらわれともいえる。子供のように単純で、複雑な人だった。享年69。

当ブロク関連
ヒグラシ文庫8周年トーク・イベント
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2019/04/index.html

 

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