薄気味悪い「距離感」と「大人」。
なにかというと「大人」をつけたがる傾向は、あいかわらずのようだ。このあいだ上野駅で時間つぶしに本屋に入って見たら、本のタイトルにも雑誌の見出しにも、「大人のナントカ」とあるのが、簡単にいくつも目にとまった。
「大人のナントカ」という言い方が、プラスイメージで流行るようになったのは、いつごろからだったか、チョイと遡って調べてみた。といっても、そんなに真剣に調べてみたわけではないのだが、1995年発行の拙著『大衆食堂の研究』では、「自立編※食堂利用の心得の条 オトナの道」という章をたて、けっこう書いている。そこに「オトナ」とカタカナにしたのは、当時、すでに「大人」が流行っていて、それがけっこうオカシイものだったので、「大人」に揶揄をこめて「オトナ」にしたのだった。
おれの記憶では、「大人」が流行り始めたのはバブル後期のような気がするので、その頃を調べている。
いまのところ「ここからだ」という感じのことは見つかってない。
ただ、1990年に、永谷園の「おとなのふりかけ」がヒットしている。
あてにならないウィキペディアによると、1989年10月に販売されたもので、「当時のふりかけ消費者が12歳を境に急激に減少するというデータをヒントとして、大人にも満足できるふりかけをというコンセプトのもとに開発された商品」だそうで、「1991年(平成3年)には日本食糧新聞社が主催する「食品ヒット大賞」の優秀ヒット賞を受賞」するなどして、ロングセラー商品となった。
この「おとな」は、ちゃんと「こども」に対してのもので、「おとなのおもちゃ」という表現と同種のものだから、それほどおかしなものじゃない。
ただ、何かヒットすると、われもわれもと群がる子供っぽい大人が多いのも事実で、これが流行をプッシュした可能性がある。
おれの記憶にある、おかしな「大人」のブームは、そんなの何もわざわざ「大人」を強調することではなく「大人」のことだろ、というものにわざわざ「大人」をつけ、こういうことをやるのが大人だ、こういうものをもつのが大人だ、こういうよさがわかるのが大人だ、という感じで、たとえば「大人のワイン」とか、バブルで盛り上がった、とてもスノッブな傾向に「大人」をつけた感じだった。
いずれにしても、それらは「大人感」のある消費のことで、たいがい「高級」や「高感度」といったイメージの消費につながっていた。それまでは儲からないといわれていた、文化や芸術などが、その重要なアイテムになった。つまり、スノッブな文化や芸術の香りと高級感を手にすることが、「大人感」だったといえる。
「大人の自立」とは何も関係なく、かえって、これを持っているから大人、こんなことをしているから大人といった、幼稚な権威主義が見られるだけだった。いろいろなモノやコトが、「大人」がつくことで、大人ブランド化した。
そこで、おれは、1980年代以後の消費社会の消費に溺れ、自立を忘れた大人に向かって、「自立編※食堂利用の心得の条 オトナの道」では、自立のための「オトナへの三段階」を書いたのだった。
しかし、ますます、幼稚な大人がはびこった。幼稚な大人がはびこりやすい社会になったというべきか。業的能力と消費能力だけが評価されるようになり、自立の理論や思想や方法などは、どうでもよくなった。
そして、ついに、自立をリードする立場のはずの、政界から報道界から言論文学界からあらゆる分野、その中心は、大人げない幼稚なふるまいと言動ばかりしている人たちがあふれるようになったのだった。いいトシこいた大人が、もう、目も当てられないが、これがもたらしたカオスとアナーキーな状況は、おれは嫌いじゃない。
とはいえ、これはまあ、大人の自立として公共性を担保する能力が問われなくなった社会の、「現代の大人の怪談」ですな。
その怪談が、ますます気味悪く面白くなってきたのは、「大人の距離感」なーんていう言い方が、なんの疑問符もつかないまま、大人の皆さまの世界で普通に使われていることだ。そう、彼ら大人は、いまや、これが大人の距離感というものだよね、うんうんとうなずきあい大人ごっこをしている。距離感というけど仲間内ではベタベタの、「なかよし」だけに通じる、とても微笑ましい大人の関係だ。
それで近頃気になる「距離感」という言葉の使い方や、その態度あるいは思想?のことを書きたかったのだが、用ができたので、またの機会にする。
公共性を担保することを考えない大人たちの「距離感」とは、なんなのだあ。
これは、いうまでもなく、めしの食い方に関係するのだ。
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