「肛門都市東京」「生活と分解」。
猪瀬浩平さんの近著『分解者たち 見沼たんぼのほとりを生きる』(写真=森田友希、生活書院2019年3月)と藤原辰史さんの近著『分解の哲学 腐敗と発酵をめぐる思考』(青土社2019年7月)を、とっかえひっかえしながらピンポンのように読んでいて、まもなく読了なのだが(『分解者たち』の方は、一度通読している)、おれのように学知のないものには、なかなか難解のところがありながらも、勝手に解読していると「分解」と「分解者」については興味はつきず、頭の中が分解し発酵かつ腐敗が進行し熱を持っている。
とりあえず、「肛門都市東京」と「生活と分解」というワードを思いついたので、忘れないうちにメモしておく。
東京は排泄するだけの都市なので、「排泄都市東京」でもよいのだが、あまり面白みがない。それに、機能的には「肛門」になるだろう。
でも、「東京者」は、肛門だなんて思っていない、美味しいものを食べるスマートで美しい口だと思っている。そこがまた、いかにも肛門的なのだ。口と肛門は直結しているが、東京は、それを感じさせない。美しい食べ方、美しい言葉、美しい呼吸の、美しい口があるところ。大衆食堂やゲロめしは、そのことを思い出させる。
「生活」というのは、わかったようでわからない言葉であり概念だ。衣食住のなかでも「食生活」は、わかりにくい。そこで、「生活は分解である」と考えてみると、たしかに、かつてはそうだったのだ。いまは、どうなのだろう、「生活と分解」の関係が気になるのだった。
ほかにも、「肛門メディア」という言葉も思い浮かんだし、「肛門ライター」という言葉も思い浮かんだ。「肛門都市東京」に不可欠な権威のための、言葉やイメージや情報などの排泄を担う存在。
とにかく、『分解者たち』と『分解の哲学』のおかげで、糞まみれになっている。おれはフンコロガシ・ライターへ変態しつつあるのだろうか。
当ブログ関連
2019/07/18
スリリングな読書と分解脳。
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