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2019/10/31

10月が終わる。アレコレ「遠くにつながる」。

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明日から11月。もう忘年会の予定が入っているし、11月12月は年末の束になって怒涛のごとく過ぎてゆくのだろう。何度も強調しているが、誰も気にかけてくれない、おれはもう後期高齢者なんだから、あまり巻き込まれたくないのだが、もう巻き込まれつつある。

それはそうと、10月も終わりで、ブログも書かない日のほうが多かったから、主な「お出かけ」だけメモしておこう。

10月14日は月曜日だけど休日で、吉祥寺のキチムで開催されていたスソアキコさんの「縄文のうた」展のトークがあったので行った。

吉祥寺の井之頭池周辺は遺跡だらけであり、スソさんは、お得意の詳細な地図とイラストにまとめて展示していた。あいかわらず、すごく詳細だ。前日13日は、参加者を募って、井の頭公園やその周辺を歩いて古代の気配を探すこともやったそうだ。

トークは18時半からで、なんと、原田郁子さんとなのだ。齋藤圭吾さんが「音響係」。

H岡さんとS木さんとは会場で待ち合わせをしたが、マリリンと川ちゃんも来ていた。そういえば、今年、キムチは二回目で、前回は川ちゃんのトークだったのだ。こんな「アートな」ことでもないと、吉祥寺なんか縁がない。

トーク、すごく面白かった。とにかく、スソさんは古墳部をこえて、弥生、縄文、この日は旧石器までさかのぼっていた。学術的なことではなく、自分の感覚を働かせ「古代の気配を探す」、というスタンスが楽しくていい。

井之頭池周辺は、住宅やビルで埋めつくされているけど、地表から50~70センチのところには、縄文人が生活していた地面がある。年表で見ると縄文は遠い昔だけど、じつは、すぐ足元にあるのだ。

原田郁子さんは初めてだったが、ぶっとんでいて、なかなか面白い人だった。もちろん、歌もあって、そうそう、園山俊二のギャートルズから「やつらの足音のバラード」をみんなで歌った。ほんと楽しかった。

21時半頃に終わって、H岡さんとS木さんとマリリンと、清龍で一杯やって帰って来た。

17日の木曜日は、湯島の「シンスケ」で、打ち合わせというか、ようするにご馳走になった。11月発売というけど、まだ発売日のアナウンスがないから書けないが、本の帯文を頼まれたのだ。もう一人、帯文を書く方がいて、その方と著者と出版社の方と飲んだのだな。いやあ、アンダーグラウンドやらエロやら、面白い話が飛び交い、愉快な酒だった。そのことは、本が発売になってから書こう。

翌日の18日金曜日は、雑司ヶ谷鬼子母神の御会式万灯の練り歩きの最終日だった。例年のように、わめぞ一味から誘いがあり、薬局のガレージに集まった。酒やツマミなどを買い、少し遅れて19時半ごろになったが、万灯の通過には間に合った。あいにくの雨模様だったが、例年と変わりなく盛り上がった。

万灯もわめぞも、オープンでいい。ムトウに、久しぶりにあった。今年初めてだろう。しばらく姿を見せなかったのは、何かヘソをまげるようなことでもあったのか。ま、ナニゴトもギクシャクしながらだ。

そうそう、酔っぱらって帰ろうとしたとき、山田参助さんが来ているのに気がついた。ちょうど前日、もう何度目か『あれよ星屑』を読み終えたところだった。ということを参助さんにクドクド言って、握った手を放さず、てな、ほんとジジイのクドイ酔っ払いをやり、最後は、以前参助さんが書きたいといっていた「69年」を期待していますとか言って、みんなと別れた。

14日からの週は、都内へ3回も行ったから、くたびれた。

26日土曜日は、鎌倉のヒグラシ文庫へ行った。

春のトークでお世話になり、さらにそのトークをテープ起こしてまとめ、ネットに掲載し、さらに要約し『そのヒグラシ』というヒグラシ文庫の客たちがつくる雑誌の編集をやり中原蒼二追悼号「特集 あの男」にまとめるなど、大奮闘してくださっている干場さんをねぎらいながら、かつ中原蒼二さんのよい思い出わるい思い出をサカナにしながら飲むためだった。

『そのヒグラシ』は、ヒグラシ文庫まわりだけの超ローカル誌だけど、ほんとうによくできている。あらためてこのブログで紹介するつもりだが、こういういい雑誌で、「特集 あの男」を組んでもらった中原さんは、いろいろアレコレややこしいこともあったが、果報者だ。

ヒグラシ文庫から、有高夫妻が金・土・日だけ間借り営業でやっている「立ち呑み とむず」にハシゴし、ようするに15時ごろから20時ごろまで?飲んで、しかも立ち飲みで、泥酔帰宅した。

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2019/10/29

画家のノート『四月と十月』41号、「理解フノー」連載22回目。

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紹介が遅れたが、発行人・牧野伊三夫の画家のノート『四月と十月』41号が発売になっている。

前号は、40号(創刊20年)であり、記念特集として「同人たちのアトリエ訪問記」を組んだ変則的な編集だった。おれは同人の加藤休ミさんと松本将治さんを取材し、「理解フノー」の連載は休載。

というわけで、一年ぶりに、もとの編集になった。同人のみなさんの「アトリエから」も一年ぶりだから、それを読んでいるとなんだか懐かしい。一年のあいだには、いろいろあるなあと思う。

子供が一人から二人になった人、子供が成長し育児や年寄りの世話に追われる人、家族の一人がケガをしたため家業に時間を奪われる人など、時間的な制約が大きくなる中で「制作」のある生活を模索する姿があるかと思えば、倉敷や奄美大島に移住し新しい生活を楽しんでいる様子もある。

平均的にみると、以前より安定度が増加した感じで、それはよいことなんだろうけど、おれにとっては刺激が弱くなった感じがしないでもない。

という中で、表紙の絵を担当した靴職人の高橋収さんが「どうやら最近パンクが気になるらしい」とか、福田紀子さんが「自分が世界をどんなふうに感じて、捉えていて、それがまたどんな世界を創っているかを、また感じて、捉えて……をくりかえす」といったことを書いて、そんな感じの絵があって、ふーん、いいじゃないかと思うのだった。

そうそう作村裕介さんは、左官の親方業をやりながら、あいかわらずモンモンとしているようで、おもしろい。

この一年間で、大きなジケンといえば、昨年の39号で「包丁論」の連載が始まり40号が2回目だった中原蒼二さんが、40号発行のあとの6月20日に亡くなったことだ。今号の「雑報」で、中原さんと35年間の親交があった牧野さんが「さようなら、中原蒼二さん」を書いている。

「生活」つまり「生きる」と、その結果としての「死ぬ」が、やけに生々しく感じられる号だ。

中原蒼二さんの死を伝える水族館劇場のフェイスブックのページには、「存在するものは儚く、みえないものは生きのびる」という文言あった。

おれの連載「理解フノー」は、22回目で「二〇年」のタイトルで書いた。この20年のあいだに、食をめぐる動向とくに「食文化」の動向は、これまでになかった大きな転換期にあると感じていたのだが、自分のまわりでそれを象徴的に実感することがあったので、それについて書いた。

当ブログ関連
2019/07/01
中原蒼二さんが亡くなった。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2019/07/post-0006a0.html
2019/05/09
画家のノート『四月と十月』40号、「理解フノー」連載は特集記事に変更。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2019/05/post-e515c5.html

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2019/10/23

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」84回目、駒込・伏見家。

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またもや遅れてしまったが、先月20日朝刊に掲載のものだ。すでに東京新聞のサイトでご覧いただける。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2019092002000218.html

染井銀座商店街の伏見家への最寄り駅は3つある。地下鉄南北線西ヶ原駅とJR京浜東北線上中里駅とJR山手線駒込駅だ。

おれは、さいたま市に住んでいるので、所要時間の少ない上中里駅を利用することが多い。駅から平塚神社の境内をぬけ、本郷通りを渡り、古河庭園の裏側の細い道を下る。木立の多い人通りが少ない静かな道をフラフラ行くのだが、このコースのよいところは、地形がわかることだ。平塚神社は武蔵野台地の突端にあるし、古河庭園も台地の上で、その裏の道はゆるい下り坂になっている。その坂を下り終えるあたりに、染井銀座商店街があり伏見家があるというわけだ。

染井銀座は、かつては台地の谷底の川だったところにあるのだ。「川の東京学」的には、荒川水系一級河川石神井川の下流域に位置する谷田川ということになるようで、昭和の初めごろ暗渠になり、街が形成された。ということらしい。

谷田川の暗渠は、染井銀座と隣接する霜降銀座をのせ、駒込駅近くを通り、田端銀座商店街へつながる。田端銀座をぬけると、動坂下の動坂食堂の近くを通り、千駄木谷中界隈にいたる。

台地側では豪邸や神社などは台地の上にあり、いわゆる「庶民的」な街と商店街は谷底にあり、いい大衆食堂は台地の中腹から谷底に残っている。という川の東京学的仮説は、それなりに根拠がありそうだ。

とにかく、染井銀座も霜降銀座も田端銀座も、生活感あふれる、いい商店街だ。いわゆる「ファッション性」は低めだし地味ではあるけど、消費力より生活力が感じられる。

「伏見家でめしを食べよう」というときは、あえて駒込駅から霜降銀座を抜け染井銀座に入る。この二つの商店街はつながっていて、そこに漂う、音や匂いや気配などを肉体で感じるのは、食欲のためにもいい。

霜降銀座は、昔の建物まま営業している店が多い。青果、精肉、鮮魚、日用品などが中心だ。染井銀座も同じような店が並んでいるけど、3階か4階の建物が増えている感じだ。イマ風の店もポツポツできている。でも、昔ながらの時計店が複数あるのは珍しいのではないだろうか。

伏見家の隣も時計店だ。「銘技堂」という、どんな時計も修理してくれる「時計職人」という言葉が生きていそうな店名だ。

伏見家は、サクッとした簡素な佇まいだ。見たままの、いい食堂だ。

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偶然だが、ちょうど10年前、2009年10月に撮影の画像があった。外に貼ってあるメニューを見比べてみよう。

10年前→肉野菜炒め定食620円、あじフライ定食620円、さば塩焼定食650円、さんまあみ焼定食700円、白身魚フライ定食720円、チキンかつ定食720円、盛り合わせ定食750円、茄子とひき肉の味噌炒め定食750円、しょうが焼定食770円、焼肉定食770円、メンチかつ定食770円、ハンバーグ定食800円、ロースかつ定食850円。

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今回→野菜炒め定食640円、あじフライ定食640円、鮭塩焼定食670円、さば塩焼定食670円、ハムエッグ定食670円、チキンかつ定食740円、クリームコロッケ定食750円、スタミナ定食770円、白身魚フライ定食、茄子と豚肉しょうが焼定食770円、焼肉定食790円、ロース肉しょうが焼定食790円、メンチかつ定食790円、デミグラ・ハンバーグ定食(片目焼付)820円、ミックスフライ定食850円、ロースかつ定食870円

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20円の値上がりは、2014年4月から消費税8%の影響か。今回は、10月1日から10%の前なので、どうなっているかわからない。8%のとき、こきざみに10%にしようという政府の悪い魂胆を読み込んで値段を変えたところもあった。

暑さが厳しい日だった。おれは店内のメニューにあった、照り焼きおろしハンバーグ定食820円にした。ボリュームだけでなく、ソースの味と照り焼きの加減もよかった。外観からは、そういう感じではないが、いい味わいだった。

10年前にはなかったメニューにビーフカレー750円がある。それに、10年前には、ただの「ハンバーグ定食」だったが、今回は「デミグラ・ハンバーグ定食」だ。

「牛」の充実は輸入牛の影響か、商店街の客筋が若返っている感じもあるし、それとも料理をする大将の関心や好みのあらわれか。10年前と比べ、メニュー全体も脂系が強調されている感じだ。

そうそう、この連載は、この84回で、7年を経過した。

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2019/10/16

「つくる」と「できる」のあいだ。

ある著者の300ページほどの本の帯文を書くために、PDFの一校を読んだ。そこで思いついたのが、「つくる」と「できる」のあいだのことだ。

「まちづくり」という言葉があって、「まちはつくる」ものであるかのような言い方がされるけど、歴史や社会や自然などのしがらみのなかで「できる」側面も大きい。実際には、「つくる」と「できる」が絡み合って存在しているようだ。

だから、「まちづくり」といった場合、「つくる」ことばかり考えるのではなく、「つくる」と「できる」が絡み合っているところを見落とさないようにしなくてはならない。

てなこと考えていたら、料理の味についても、同じようなことがいえるなあ、いやいや、人間の所業の多くが「つくる」と「できる」のあいだにあるように思えてきた。

味については、「つくる」と「できる」がある。「できる」は「できちゃった」ということでもある。

「子づくり」「できちゃった婚」なんて言い方があるが、アレだ。ま、子供のばあいは、やらなきゃ「つくる」も「できる」もないから、「やった」「やる」であって、それを自分の都合で「つくった」とか「できちゃった」にしちゃうわけだけど。

料理の味も「つくる」のだけど、「できる」をうまく利用している。いまハヤリの発酵なんかのように、「できる」力に、「つくる」力を添える感じのものもある。

まちの場合も、「つくる」にしても、「できる」をうまく組み込めるかだろう。

「つくる」と「できる」、どっちか、ということでもない。絡み合っているところを、分解して編み直す、という考えが必要なのだな。

すると「いい意味でいい加減」がよいという方法に到達する。

そういう考えで料理をしている人もいるのだが、いま圧倒的な勢力を持っている「料理をつくる」は、とにかく「つくる」方向しか考えていないから、「いいものつくる」には微に入り細に入りキチンとやることが「正しい」になる。「究極」ってやつを目標にしている。そういう言説がヒジョーに多い。

「職人技」なんていうのは、たいがいそういうもののようだ。

そのために「できる」パワーが、潰されてしまっているということがあるようだ。

ある「いい意味でいい加減」の料理で有名になった料理人がいて、その人がやっている店に「あこがれ」で入ってくる若い人がいる。だけど、世間に流布されている「キチンといいものをつくる」という思想にかぶれているから、「いい意味でいい加減」を理解できない。「できる」パワーが生きない、潰されそうになる。

そんなことがありますね。

「つくる」と「できる」のあいだを、どうコントロールするか。

 

 

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2019/10/05

読書と食事は似ているようだ。

今年は新年早々に入れ歯を壊してしまい、前歯の上下それぞれ数本だけになった。新たに入れ歯をつくるには、金がかかるが、もう「後期高齢者」といわれるトシであり、そういう新たな投資をするだけの肉体的な価値がないような気がしてそのままにしている。ほんとうのところは、金がないだけだけど。

したがって、入れ歯にせよ奥歯がない状態にかなり慣れてはきたが、前歯だけでは、「噛む」のはなんとかなっても、「咀嚼」はかなりぐあいが悪い。時間がかかるし、時間をかけても前歯だけでは咀嚼は不十分のままで、面倒だから飲み込んでしまう。

身体の仕組みのことは、よく知らないのだが、現象として、大便の回数が増えた。つまり、よく咀嚼しないと、消化吸収も短時間に不十分のまま、肛門に至るらしいのだ。うんこがゆるいわけじゃないが、食べ物が、さっさと身体の中を通過してしまい、血肉になる割合が少なくなっている感じだ。

それから、米よりパンや麺類の小麦食品を食べる割合が増えている感じがする。記録はとってないが。自然に食べやすいものを選ぶようになっているのかもしれない。

そんなことを気にしていたら、読書と食事は似ているような気がした。

食べたものが食べ物であれ知識であれ、咀嚼が大事だということだ。咀嚼が悪いと消化吸収も悪くなるし、食べやすいものばかりを食べていると、偏りが生じる。

たくさん本を読んでいる人が、その内容をよく把握あるいは理解しているかというと必ずしもそうではない。これは咀嚼が不十分だな~と思われるものが、書評として載っているのを、けっこう見かける。書評などを商売にしているひとは、急いでたくさん読まなくてはならないのだろうか。自分の咀嚼や消化の能力をこえて読むということもありうる。表現だけは巧みでも、まるで下痢便のようなレヴューが、インターネットや新聞雑誌などに載る。ま、インターネットの素人の投稿に下痢便のようなものが増えるのは、全体の投稿数からみれば自然のことだろうが。新聞雑誌の場合は、イチオウ編集者もいるわけだし、どういうことなのかわからない。

これも統計はないのだが、全体的に読解力のレベルが下がっているのではないだろうかと思うことがある。それは咀嚼力の問題でもあるだろう。

食べ物の場合の咀嚼力は、奥歯が決定的に大事だと、奥歯の入れ歯が無くなって気がついた。読書の場合の奥歯に相当するものはなんだろう。

少なくとも読解力の向上をリードするような作家や書評家は、少ないような気がする。亡くなった、あのひとやあのひとやあのひと…のような書評は見かけない。出版界のメインストリームも言論界のメインストリームも貧弱だ。編集者は、どう考えているのだろうと思うが、いまどきの出版社は人材を育てる余裕はないだろうしなあ。とにかく売りやすい食べられやすいものへと傾くのも仕方ないか。

知識は豊富でも、なんだか論理が稚拙で短絡しているのだな。無邪気ともいえるし、乳離れしてない。オッパイの飲みすぎか、離乳食の食べすぎか。

というわけで、おれは食べ物は食べやすいものを食べていても、読書のほうは離乳食は避け、食べ応え噛み応えのあるものをジックリ咀嚼しながら読むよう心掛けている。

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2019/10/04

おれも見沼田んぼのほとりで考えている。

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猪瀬浩平さんの著書『分解者たち 見沼たんぼのほとりを生きる』(生活書院、2019年3月)には、以前このブログにも書いたし四月と十月文庫『理解フノー』にも登場する「ダンゴムシ論」の根っこになることが書かれている。

「理解フノー」に書いたころは「ダンゴムシ=分解者」について十分に理解してなかった。そこのところが見えてきて、興味深いのだけど、なかなか重い内容が含まれているから、おれのような雑な人間には十分受け止めきれた自信がない。とりあえず5月2日に、概要だけ、ツイッターで紹介した。…と、2019/07/18「スリリングな読書と分解脳。」に書いてから日にちが過ぎた。

まだ十分受け止めきれた自信はないのだけど、書くことによって理解がすすむということもあるから、書き始めることにした。

見沼たんぼは、埼玉県の川口市から、面積の大部分はさいたま市に広がる農的緑地空間で、「東京の豊島区とほぼ同面積である」。

おれは、さいたま市の北のはずれ東大宮、見沼たんぼの北限域のすぐ近くに10年前に引っ越してきた。よく利用するスーパーの行きかえりには、そのほとりを歩いている。毎日のように見沼たんぼのほとりで考えているのだ。

そこに見えている芝川や見沼代用水西縁に沿って見沼たんぼを歩いて下ると、実際に歩いたことがあるが、1時間半弱ぐらいで、猪瀬さんが事務局長をしている「見沼田んぼ福祉農園」に着く。おれが猪瀬さんと初めて会ったのは、2013年11月25日、この農園でだった。

猪瀬さんは、明治学院大学の教員をやりながら、福祉農園のほかにも、NPO法人のらんど代表理事、見沼・風の学校事務局長などをしている。

猪瀬さんが、そのように見沼たんぼと深い関りをもち、「見沼たんぼのほとりを生きる」ようになったのは、猪瀬さんの6歳上のお兄さんが自閉症だったことに関係する。

この本は、自閉症のお兄さんと家族のことが芯になっているけど、「障害者と家族の物語」と「見沼たんぼの物語」がからみあいながら、「これまで」と「これから」を分解し紡ぎ直しているところに特徴がある。

その紡ぎだされたものが、序章「東京の<果て>で」の見出しに、「「とるに足らない」とされたものたちの思想にむけて」とある「思想」なのだ。

「私たちが、如何に雑多な存在と共に生きていけるのか、そのための思想を素描するのが、この本の目的である」

「「首都圏の底<見沼田んぼ>」は、1960年代あたりを境に、膨張する「「東京」の侵略」(©アクロス選書1987)によって「「とるに足らない」とされたものたち」の吹き溜まりになっていく。

その「ものたち」とは、「障害者」のような「者」でもあり「在日」といわれるような「者」でもあったり、廃棄物のような「物」や微生物のような「物」でもあるのだけど、猪瀬さんは、その者/物たちが見沼たんぼのほとりを生きる姿を描き、そこに「分解」と「分解者」をみる。

この「分解」という言葉と概念が、一般的な生活の中では、あまりなじみがないもので、おれの脳ミソでは咀嚼と消化に時間がかかっている。その「咀嚼」と「消化」も、分解の過程ではあるのだが。

「生きる」いとなみである、生産―流通―消費―分解―生産…というつながりの中の「生産―流通―消費」については、よく語られてきた。その中心には、いつの間にか、産業の思想がはびこり、そのもとで暮らすことに違和感を感じなくなっている。産業の思想は、より優れた(豊かな?)生産―流通―消費を基準に、さまざまな「とるに足らない」ものを排出した。そうして、「分解」も「分解者」も語られることなく、忘れ去られてきた。

JR東大宮駅の開業は、オリンピックがあった1964年の3月なのだが、その頃から、おれがいま毎日見ている見沼たんぼは、農村共同体的な風景から「東京の<果て>」へと姿を変えていったことになる。

猪瀬さんは、「私が見沼たんぼに惹きつけられるのは、首都圏/東京という歪に肥大化した身体の肛門から排出されたものたち」の存在があるからだと書く。「排出されたものたちが、思わぬ形で出会い、ぶつかり、交わる、すれ違う。そこでものとものとが交わり、熱が生まれる」

猪瀬さんがこの本で語る「分解」と「分解者」というのは、このことなのだ。

障害者たちは、見沼たんぼに引きこもっているのではなく、どんどん出かける。猪瀬さんもお兄さんと出歩く。「共に生きる」ためだ。いや、「共に生きる」ことを拒否し排出するものたちに向かって、「共に生きる」ことを理解させるためでもある。そういうときに、まわりの、自分たちを見る目や自分たちを見て話す言葉によって、「障害者」の兄といることを感じる。障害者は歪に肥大化した東京が広がる過程で「障害者」にされたのだ。

排出する側は、「とるに足らない」ものたちを「邪魔」や「障害」とする、排除の思想を持っている。そこにトラブルが生まれる。近頃、とくに排出された存在ではないはずの、子供をバギーカーに乗せて電車に乗ると、「邪魔」や「障害」とする排除の思想が働きトラブルになるニュースを目にすることがある。

子育てが、トラブルを起こす「闘争」の側面を持つようになったのは、子育てする人たちの問題ではない。「マナーがー」という見当違いの叩き方をする人たちもいるが、とにかく、そこにトラブルつまり闘争が発生する。

いま「トラブル」「闘争」と書いたが、それは片側からだけの見方なのであり、本書の第二部の「地域と闘争」の「闘争」には「ふれあい」というルビがあり、その扉には、横田弘『障害者殺しの思想』から「障害者と健全者の関わり合い、それは、絶えることのない日常的な闘争によって、初めて前進することができるのではないだろうか」という言葉が引用されているが、その「闘争」に「ふれあい」というルビがふられている。

この「闘争」つまり「ふれあい」も、「分解」なのだ。

ちょっとのはみ出しも許さないカタイ構造や、カタイ被膜で分断された構造を、分解し、「共に生きる」関係をつくりあげていくのは、容易なことではない。難儀なことだ。それを引き受けられるか、どう引き受けたらよいのか。とくに身近に障害者がいない身としては、考え込まざるを得ない。

「共生」「共食」「共考」といい、多様性を寛容を持って受け入れる、なーんていうが、実際はとても難しい。そもそも、「共」に、障害者や「とるに足らぬとされたものたち」は含まれているか、その顔が見えているか。

第三部「どこか遠くへ 今ここで」では、テーマはつながっているが、場所は見沼たんぼから離れる。

「やまゆり園で起きた凄惨な殺傷事件に、私は当惑した」と猪瀬さんは書く。

「容疑者は饒舌に語った。事件を解説する人、解釈する人も、饒舌に語った。(略)様々な言葉が、待っていたかのように溢れ出した」「私が当惑するのは、殺された人が語らない人であることにされている点だ(エンテツ注=「であることにされている」に傍点)。当然、殺された人は語ることができない。問題はそこではない。彼ら、彼女らは、殺される以前から「語ることができない人にされていた」」

そして「重度障害者の彼らには語るに足る人生があったと考えない空気が世間に存在していた」と指摘する。

この指摘は、おれのように「ライター」なんぞの肩書で、メディアがらみの仕事をしているものは、少なからぬ責任を持っていると思う。語るに足る、キャッチーな人や場所やモノなどばかりを、ネタにすることが多いからだ。それが、片方では、語るに足る人生がないかのような存在を生んだり、語らない人であることにされている人たちを生む、強い抑圧になっていることが少なくない。

かつて宮本常一は『忘れられた日本人』で、自ら語ることができない無字社会の日本人を発掘したわけだけど、猪瀬さんは本書で、別の意味で自らを語ることが難しい立場に排出され、忘れ去られようとしている人びとを描いているといえそうだ。

それだけじゃなく、「如何に雑多な存在と共に生きていけるのか」の思想を問うているし、読む者は問われている。

「分解」や「分解者」は、「食べる」と深い関係にあるのだけど、そのレベルのことになると、本書のあと7月に青土社から発行の藤原辰史『分解の哲学 腐敗と発酵をめぐる思考』を一緒に読んで、ますますおもしろくなっている。

藤原辰史さんは、3月に農文協から『食べるとはどういうことか 世界の見方が変わる三つの質問』という本を出していて、これが、食べることの入門書として画期的にすばらしい。分解と分解者の存在意義が一目でわかるイラストまであるのだ。それを見たとき、おお、そうか、分解の思想は、難しく考えずに、ここからスタートすればよいのだと思った。

三つの質問の中の一つが、「「食べる」とはどこまで「食べる」なのか?」だ。

イラストは、子供が食べ、糞尿をしている。子供のまわりを、糞尿が自然から生物へ、生物から食べ物になり、また食べ、という循環のイラストが囲んでいる。その、子供のお尻の下の糞尿のところに「スタート!!」の描き文字があるのだ。

食べるというと、例によって生産―流通―消費であり、排泄から先は「とるに足らない」あるいは見たくもない考える必要もないような生活をしているのだが、じつは、食べるのスタートは糞尿であり、その分解から食べるは始まる、という見方ができる。

肛門も膀胱もある人間として生きるなら、肛門や膀胱の「先」も考えるのは当然だろう。食べれば「出る」のだ。そして分解があるから、全体の「生きる」がまわっていく。もし分解がなかったら、糞尿に埋もれて死んでしまう。分解には、もちろん、分解者がいる。

おれたちは、「出す」ことを前提に、食べている。食べなければ死ぬように、出さなければ死ぬ。食べることが生きることなら、出すことも生きることなのだ。食べ物と糞尿は、等価。まさか、このことは、忘れてないよな。口が現在なら肛門は未来だ。排泄は、未来に連動している。その先に未来がある。未来は、遠くにあるわけじゃない。おれのケツの下にあるのだ。便所の便器の先。とるに足らないとされたものたちが存在するところ。

そんなことを、見沼たんぼのほとりで考えているのだが、「分解」と「分解者」の話は、まだまだ続く。今日は、ここまで。

当ブログ関連
2019/07/18
「スリリングな読書と分解脳。」

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