「つくる」と「できる」のあいだ。
ある著者の300ページほどの本の帯文を書くために、PDFの一校を読んだ。そこで思いついたのが、「つくる」と「できる」のあいだのことだ。
「まちづくり」という言葉があって、「まちはつくる」ものであるかのような言い方がされるけど、歴史や社会や自然などのしがらみのなかで「できる」側面も大きい。実際には、「つくる」と「できる」が絡み合って存在しているようだ。
だから、「まちづくり」といった場合、「つくる」ことばかり考えるのではなく、「つくる」と「できる」が絡み合っているところを見落とさないようにしなくてはならない。
てなこと考えていたら、料理の味についても、同じようなことがいえるなあ、いやいや、人間の所業の多くが「つくる」と「できる」のあいだにあるように思えてきた。
味については、「つくる」と「できる」がある。「できる」は「できちゃった」ということでもある。
「子づくり」「できちゃった婚」なんて言い方があるが、アレだ。ま、子供のばあいは、やらなきゃ「つくる」も「できる」もないから、「やった」「やる」であって、それを自分の都合で「つくった」とか「できちゃった」にしちゃうわけだけど。
料理の味も「つくる」のだけど、「できる」をうまく利用している。いまハヤリの発酵なんかのように、「できる」力に、「つくる」力を添える感じのものもある。
まちの場合も、「つくる」にしても、「できる」をうまく組み込めるかだろう。
「つくる」と「できる」、どっちか、ということでもない。絡み合っているところを、分解して編み直す、という考えが必要なのだな。
すると「いい意味でいい加減」がよいという方法に到達する。
そういう考えで料理をしている人もいるのだが、いま圧倒的な勢力を持っている「料理をつくる」は、とにかく「つくる」方向しか考えていないから、「いいものつくる」には微に入り細に入りキチンとやることが「正しい」になる。「究極」ってやつを目標にしている。そういう言説がヒジョーに多い。
「職人技」なんていうのは、たいがいそういうもののようだ。
そのために「できる」パワーが、潰されてしまっているということがあるようだ。
ある「いい意味でいい加減」の料理で有名になった料理人がいて、その人がやっている店に「あこがれ」で入ってくる若い人がいる。だけど、世間に流布されている「キチンといいものをつくる」という思想にかぶれているから、「いい意味でいい加減」を理解できない。「できる」パワーが生きない、潰されそうになる。
そんなことがありますね。
「つくる」と「できる」のあいだを、どうコントロールするか。
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