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2019/12/30

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」86回目、上野・カレー専門店クラウンエース上野店。

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今年もドン詰まり。この連載、12月まで終わっているが、ここでの紹介は、やっと11月15日の分だ。すでに東京新聞のWEBサイトでご覧いただける。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2019111502000176.html

これまで、WEBサイト版には外観の画像がなかったのだが、この回から載るようになった。大衆食堂は外観の個性も味わいのうちだと思うので、よかった。

この店は、上野駅中央改札口前広場の前、見えるところにある。アメ横は京浜東北線と山手線の高架下だが、こちらは上野東京ラインの高架下だ。

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少し前、フェイスブックに、いまはない上野百貨店とテナントだった聚楽台の画像を載せたところ、高知の友達が懐かしがり、上京したばかりの学生には聚楽台はチョイと高そうなので、「アメ横の財布に優しいカレー屋に行ってました」とコメントがあった。「名前を忘れましたが、学生や肉体労働風の外国人の方で賑わっていました」とも。

それならおれもよく利用してきたここしかないだろうと思い、コメントで画像を返信したら、やっぱりそうだった。

今年の春にもここでカツカレーを食べたのだが、その後、夏に店内の大改装が行われた。それまでの変則コの字型のカウンターだけの営業から、真ん中にデーンと立ち食いテーブルが置かれ、片側の壁際に腰かけ付きのカウンター、片隅に4人掛けのテーブル席といったアンバイになり、セルフサービスとなった。

競争は激しいし家賃は安くない場所での営業だから、仕方のない成り行きだろう。

カレーのメニューと味に変わりはない。

資本力にものをいわせ、新メニューを開発しながら付加価値を付けて利益を稼ぎ回転させる店もあれば、この店のように味と量と値段をできるだけ維持しながら、地味に長く愛される店もある。前者は「資本と産業貢献型飲食店」といえそうだし、後者は「生活貢献型飲食店」といえそうだ。前者にも生活貢献はあるが、あくまでも手段としてだろう。

壁には昔の上野駅の外観やホームの写真が飾ってあって、「上野愛」を感じた。

上野の「街の味わい」には、こういう小規模店が欠かせない。先日発売の五十嵐泰正さんの『上野新論』を読んで、あらためてそう思った。

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2019/12/24

五十嵐泰正さんの『上野新論 変わりゆく街、受け継がれる気質』(せりか書房)に帯文を書いた。

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すでに書店に並んでいるようだけど、明日25日発行。

著者の五十嵐泰正さんというと、『みんなで決めた「安心」のかたち ポスト3・11の「地産地消」をさがした柏の一年』(亜紀書房2012年)『常磐線中心主義(ジョーバンセントリズム)』(河出書房新社2015年)『原発事故と「食」』(中公新書2018年)などのイメージだろうけど、本職?は、筑波大学大学院人文社会科学研究科准教授という肩書の人で、専門は「都市社会学」であり、長い年月「上野」と関わり「上野の研究」をしていたのだ。

おれが五十嵐さんと初めて会ったのは2005年3月24日だった。上野に関係することで、上野で会ったのだ。

そのときすでに五十嵐さんは「グローバル化時代における上野を中心とした「下町」地域のまちづくりについて」の研究に取り組んでいて、本書にも加筆修正収録されている「グローバル化の中の「下町」」や「池波正太郎の「下町」」などを発表されていた。

その後も、『戦後日本スタディーズ③「80・90」年代』(紀伊国屋書店2008年)『多文化社会の〈文化〉を問う 共生/コミュニティ/メディア』(青弓社2010年)などに、本書にも加筆修正収録されている論文が発表された。

それらを、五十嵐さんに頂戴したり自分で買ったりして読んでいた。このブログに感想も書いている。これが、「論文」とはいえ、すごく面白い。はやく一冊の本にならないかな~と、待ちに待った。そして、やっと、できた。

うれしい~。

あまりによろこんで舞い上がり、五十嵐さんから帯文を書いてほしいとの依頼があったとき、よく考えもせず引き受けてしまった。

あとでよく考えたら、五十嵐さんのまわりには、もっとすごい人たちがたくさんいるのだ。一緒に帯文を書いている本橋信宏さんのように話題の有名人もいる。なのに。

ただのフリーライターで門外漢のド素人でネームバリューもないおれが帯文を書くなんて恐れ多い。と、ちょっとだけ思ったが、おれのようなものに帯文を頼むなんて五十嵐さんらしくてよいかなと思い、グイッと書いた。入れ込みすぎてリクツっぽく長くなってしまった。

おれたちは、世間に広く通用している「紋切り型」にはまりやすい。自分だけはそうじゃないと思いながらはまっている。五十嵐さんの著作は、そのあたりを事実を積み上げながらやわらかく壊して、異なる人たちが共に考える方向を示してくれる。そこが魅力だと思う。

その魅力の核心部分を一つあげれば、「いい加減を鍛える」だ。

上野や街や東京や都市や、あるいは池波正太郎や「下町」などに関する「紋切り型」は、「食」に関する「紋切り型」とも地続きなのだ。ということに気付く。

この本を読んで、分断を促進する「紋切り型」を捨て、いい加減を鍛えよう。社会とは好きでもないやつと暮らすところなのだから。

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2019/12/21

本の原稿を書く準備にかかる年末。

今月の6日(金)は、四月と十月の大洋印刷感謝祭だった、19日(木)はわめぞの忘年会、20日(金)は昨日か、表参道HBギャラリーでの牧野伊三夫個展のオープニングとパーティーと2次会だった。毎年恒例の年末行事だが、昨年は大洋印刷感謝祭と牧野伊三夫個展は都合が悪く出席できなかった。これ以外、忘年会のお誘いもないし、自分で声をかけることもなくなったが、これで十分でもある。

と、穏やかに新年を迎える動きにあったが、今週になって、某出版社の編集の方から本の企画が通ったので、構成案をかため、どんどん書き進めてほしいとの連絡があった。

いやあ、驚きの展開だった。

初めて会ったのが6月だっと思う。そのとき、おれの本を出したいといわれ、おれはもう本を書くことはないだろうと思っていたので、なんとなくムニャムニャはっきりした返事もせず、そのままに過ぎていた。

いまどきおれの本を出したいなんて、ありがたい話しだが、書く熱は冷えていたので、なかなかソノ気にならず、成り行きにまかせていた。

若い熱心な編集さんで、11月になって連絡があり、会って飲んだ。そのとき、チョイとしたアイデアをいただき、それでおれは種火を付けられた感じだった。考えてみると、なかなか面白い。コーフンしてきたので、手近の資料に目を通して、大雑把な構成を考えてみた。

それをメールで送ると、編集さんが手を加えたものを送り返してくれた。ますますコーフンした。こうして編集さんに火をつけられた。

ここ2、3年は、しだいに「日本の中心」東京からも遠ざかるようにし、世間から消えていく流れにしていたのだが、また本を出すことになって、「始まり感」の強い年末になっている。

 

 

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2019/12/16

最近の「入谷コピー文庫」と堀内さんのこと。

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知る人ぞ知る「入谷コピー文庫」、創刊はいつだったかなあ、2005年のようだ。ブログの2005/09/15「入谷コピー文庫と谷よしのと女中のウダウダ」に、こう書いている。

https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2005/09/post_3212.html
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入谷コピー文庫、聞いたことないだろう。編集発行、堀内家内工業、知らんだろう。

テーマは筆者の自由で、A4サイズ10枚以上30枚以下で原稿を仕上げ、堀内家内工業に渡すと、それを15部だったか17部だったかコピー製本して配布するという仕組みだ。「30枚以下」と決めてあるのは、それ以上だと「ホッチキスの針が通りませんので」ということなのだな。

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できあがった10数部は、発行人の堀内家内工業に選ばれたものたちの手元に届く。もちろん郵送料も含め、無料だ。おれも何度か書いているし、『大衆めし 激動の戦後史』に収録の「生活料理と「野菜炒め」考」は、入谷コピー文庫が初出で、その時のタイトルは「現代日本料理●「野菜炒め」考」だ。

身銭をきってのこの堀内家の所業、堀内さんがリッチな人なら道楽にすぎないのだろうが、どうだろうか。堀内さんはおれのことを「ビンボーを背中にしょった不器用さ」というけど、彼のビンボーもおれといい勝負なのであり、いや、おれは彼の方がビンボーで不器用と思っているが(なにしろ彼は、おれよりかなり若いのに手紙と固定電話以外の通信手段がない。ブログなどは図書館のインタネットを利用して見ているようだ)、とはいえ、どっちがよりビンボーかを争ってもツマラナイのであり、ようするに二人とも不器用なビンボーであり、おれはただの貧乏人だが、こんな所業を続けている堀内さんは「編集者の鏡」であり「出版人の鏡」なのだ。いや、そういう「職業的」な存在以上に、「人間の鏡」だろう。こういう人こそ「人間の鏡」とよんでいい。

この「入谷コピー文庫」、「知る人ぞ知る」と書いたが、おれは有名人をあげて権威づけるようなことは嫌いなのであげないし、そういう不器用者であるのだが、こんなのたかがコピーをホッチキスでとめた貧乏くさい冊子じゃねえかという姿からは想像できないだろう、とんでもなく有名人のファンがいる。だから、おれのような有名人でも、たまーにしか届かない。

最近届いた2019年10月1日発行の『勝手に忌野清志郎語録』は通刊119号であり、2019年12月3日発行の『みーんなの言葉』は通刊123号だ。つまり10月1日から12月3日のあいだに、4冊も発行していて、おれが頂戴できたのは2冊。

忌野清志郎。おれは、あまり自分の好みや正しさや趣味のよさを吹聴する方ではなく、そういう不器用者であるのだが、忌野清志郎は、けっこう好きであり、ブログにもたまーにそっと静かに清志郎のことを書いていた。だから堀内さんは、これを送ってくれたのだろう。

ロックもパンクもわからねえが、忌野清志郎の言葉は響く。ついでが、清志郎とどっちこっち言えないほど好きなのが峯田和伸だ。カラオケじゃ清志郎の歌はうたったことがないが、「銀杏BOYZの青春時代」は、よくうたったね。もうトシだから、カラオケには行かないけど。

そうそう、それで、最新の123号『みーんなの言葉』は、第一章「生まれけむ」、第二章「生き切るには」、第三章「生きてこそ」であり、この章立てからも、堀内さんの優れた才能がわかるだろう。

この第二章に、おれのオコトバが選ばれていて、だから送られてきたものらしい。そのオコトバは、こうだ。

「政治に限らない、「世のため人のため」を笠に、何かの中心に立ちたい、注目されたい、自分の名や生きた証を残したいなんて野心は、ろくでもないことを残す」

これ、どこに書いたか覚えがなく、ブログを検索してみたが見つからない。もしかしたら四月と十月文庫『理解フノー』かなと思うのだが、もうトシだから、と、なんでもトシのせいにして覚えていない。とにかく、いつも思っていることには違いない。ま、何かの中心に立つことも、注目されることもないのだが、その気もない。

「身を立てる」だの、「世に出る」だのなんて、とくに明治政府が鼓舞して続いている立身出世の封建思想であり、いまどきの「新自由主義」とは相性がよいようで、「自己責任論」と共に大通りで大手をふっているが、そういう思想は、ろくでもないことを残すことは、事例がありすぎて、目も当てられない。

ところで、同じ第二章に、車谷長吉の「小説を一篇書くことは人一人を殺すぐらいの気力がいる」という言葉があって、車谷長吉ならそうであろうと思って、笑って納得した。

「いい仕事のためにイノチをかける」ような言い方は腐るほどあって、腐っているが、「人一人を殺すぐらいの気力」で仕事をする人は、そうはいないだろうし、こういう言い方は車谷長吉のことだから真実味がある。

『勝手に忌野清志郎語録』の奥付に訃報の「ご挨拶」が載っていた。「8月8日に、母、堀内一子が他界しました。88歳でした。この号が堀内家内工業3人で作った最後の号となりました」とある。お悔やみ申し上げます。

東京で暮らしていた堀内恭さん夫妻が、病の父母がいる高知の実家へ介助や介護のために通うようになり、高知で過ごすことが多くなったのは、いつからだったか。もう10年以上たっているのではないか。

最初は、母の一子さんが病の床につき、付き添っていた父も病になり、そして父の方が先に逝かれた、と記憶している。なんにせよ大変な日常が続いていたのであり、堀内さんの身体の状態も悪くなり、その様子は『勝手に忌野清志郎語録』で堀内さんが書いている「はじめに 痛みと希望」からも、ひしひし伝わってくる。

なのに、このように入谷コピー文庫を発行し続けている。

「なのに」ではなく、「だから」かもしれないが。

どのみちおれのようなズボラな怠け者には、逆立ちしてもできないことだし、ちょっとでもやる気がしないことだ。ただ、「入谷コピー文庫」と堀内さんは、希望であることは間違いない。

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2019/12/12

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」85回目、谷在家・みたけ食堂。

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まだ10月18日の分もここに掲載しないうちに、今年のオワリが駆け足で近づいてくる。10月と12月、たった2か月のことなのに、この新聞が出た頃と今では、いろいろずいぶん違うような気がする。おれの生活は、あいかわずなのだが。

とにかく、慌てて急いで掲載しよう。

足立区谷在家のみたけ食堂だ。日暮里・舎人ライナーができるまでは、行きにくいところだった。いまでは、西日暮里から10分ぐらいで最寄り駅の西新井大師西に着いて、歩いて5分とかからない。しかも高所を走るモノレールに乗って、日頃見慣れない景色を見ながらであり、チョイと小旅気分。

なんだかすごく気持のよい食堂だった。旅先で、土地の大衆食堂とよい出合いがあるとうれしいものだが、そんな気分だった。といっても、特別のことはない、環状7号沿いにある普通の大衆食堂であり、そこでメンチカツとキンピラで丼めしを食べただけなのだが。

入口に「みたけ食堂からのご案内」というポスターがあって、利用の仕方が印刷されていた。「①カウンター左のおぼんを取って下さい。(ご飯の大きさは選べます)②お好みのおかずを取って下さい。③お会計は食後です」とあった。

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おお、セルフサービスのカフェテリア式を導入したのかと思ったが、会計が後払いであるから、好きなおかずを自分でとる食堂とあまり変わるところはない。レイアウトも、カフェテリアのように機械的=実務的ではないし、お茶も、気持ちのよいご主人が席まで持って来てくれる。

幹線道路沿いで、数台の駐車場があり、クルマの客が次々と出入りする。作業着姿のドライバーもいれば、営業マンらしい男たち、移動の途中らしい中年の夫妻、近所の親子など…。

ここは、都心から見れば、足立区の荒川の外側だ。いわゆる「下町」とも違う。埼玉県と隣接しているし、いまでは住宅が増えて「東京の侵略」が続いているが、かつては農村であり、のちに都心で疎まれたものを引き受ける土地になり、工場や倉庫が多かった。そのせいかどうか、人間がせかせかしたところがない。

ゆっくり自分のめしをかみしめながら食べた。うまい食事だった。「食べ物」の質だけではなく、「食事」の質について考えていると、いろいろ見えてくることがある。そうそう、年季の入ったブリキのようなアルマイトのようなお盆が渋く、どうしてもこれを写真のメインにしたくなるのだった。

すでに、東京新聞のサイトでご覧いただける。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2019101802000178.html

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2019/12/02

5年ぶりの北九州。

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あわただしい年末スケジュールのなか、元旦の新聞記事のため、北九州(福岡市ではなく北九州市)へ行ってきた。2007年7月と8月、2008年9月、そして2014年10月のあと5年ぶり。

28日の朝、羽田を発ち北九州空港で27歳の男に拉致され19時過ぎに解放、一人になってまずは旦過市場の「赤壁」で角打ち、のち6月に亡くなったヒグラシ文庫の中原蒼二さんを偲びながら角打ちをしようと小倉駅北側の「井出商店」へ行ったが、井出商店があるはずと思っていた場所はコインパーキングに、というのは、おれが場所を間違えていたからと帰宅して調べてわかったことなのだが、なにしろスマホを持っていないからね、そのときは駐車場になってしまったのか残念だなあと暗い駐車場で佇み、南側に引き返し「無料案内所」の看板が多い一角、5年前は80歳だった女将がにぎる寿司屋へ行ったところが、10人ほどのカウンターだけの店内は満席、それならば「武蔵」で一杯やってから再度行けばよかろうと魚町銀天街へ、「武蔵」のカウンターで21時半ごろまで、いい加減に酔って寿司屋に戻ると女将が電気ストーブのそばでビール瓶とビールが入ったグラスを前に居眠りしている、おれのことをすぐには思い出せない模様、5年前に初めて行ったときは何人か一緒だった、彼女は「明日また一人でおいで」というから義理がたいおれは翌日一人で行ったが、80歳の女と71歳のおれとのあいだにはナニゴトもなかった、ちょっと寝ぼけていた女将は「換気扇がきれいだとほめた人だね、換気扇がきれいだとほめられたのは初めてだから覚えているよ」と目覚める、それからは話が止まらない、もうくたびれて何かつくるのは面倒だけど酒ならあるよってことでビールをさしつさされつってことになりまして、85歳の女と76歳の男の話ははずむ、24時近くなって彼女もときどき目をこするしおれも何しろ久しぶりに朝から動きっぱなしだったから眠くなり帰ろうとするが帰してくれない、ま、話も面白かったのであるが、けっきょく24時半ごろまで、帰り「丸和前ラーメン」の前を通ったのでラーメン食おうと思ったが、若い連中がドンチャカ満席、ホテルにもどってベッドに転がりこみ気が付いたら朝。

10時すぎにホテルをチェックアウト、5年前に午前3時ごろまで飲んだ「白頭山」がある一角へ、ここに残っている貴重な文化財「名画座」薔薇ピンク館は無事にあったし並びのストリップ劇場も無事だったが、立ち飲み屋などが並び小倉駅南口にぬける通路でもあった戦後的風情の大丸ビルは再開発され壁となり立ちはだかっていた、「白頭山」24時間営業だが11時から取材なので飲む時間がないガマン、5年前ここで飲んだときは確か3軒目だったかで深夜おれのほかは若い女ばかりだったと思う、その中にたまーに東京などで何度か飲む機会があった女が一人取材で来ていて一緒にいた、彼女は駅の北側のホテルおれは南側のホテルだからJRのガード下を北側へ抜ける午前3時ごろで人っ子一人いない通路を行く彼女と「バイバイ、また」と別れた、どうせまた飲む機会があるだろうと思っていたのだが次はなく彼女は急逝、ということを「白頭山」の前で思い出したりして、11時から取材、終わって飛行機の時間まで「平尾酒店」で角打ちをやりながらインタビュー攻めにあう、約1時間半もの角打ちは長すぎだが夕方まで客は来ないからという酒店の80歳のおばさんがイスを出してくれた。

羽田に着いたのが18時すぎ、品川に出て東京を南北に縦断し飛行機に乗っているのと同じぐらいの時間がかかって帰宅、一番疲れたのが羽田からだった、東京の過剰さの異常を身にしみて感じた。

北九州、人口流出にストップがかからないようだが、湯水のように金がかかる東京のようになりながら「発展」するのも考えもの、北九州なりの道はどこか、というあたりのことにも関係する今回の仕事だった。

行ったついでに2、3泊してウロウロしたかったが、余裕がなく帰って来た。短い滞在でも、産業と市場の支配が強い首都圏を離れ、「食べる」と街と人の生き方をいろいろ考えてみるいい機会になった。北九州は街も人も気取ってなくていい、一人の若い人が「北九の人は「雑」だけど、最近はそれがよいように思うようになった」というようなことを言った。一人ひとりが人間として活きている、味わい深い街の個性は、そこからたえず再生産されている。

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