この世にいるついでに、メシを食っている。
拙著『ぶっかけめしの悦楽』と『汁かけめし快食學』の表紙と本文扉のイラストを描いていただいている、東陽片岡さんの漫画は、おれの愛読書であり数少ない教養書だ。ときどき書棚からテキトーに取り出して読んでいる。
繰り返し読んでいると、以前は読み過ごしていた、なかなか含蓄のあるフレーズに気が付き、そこから想像が広がることがある。
たとえば、これだ。
「この世にいるついでに、メシを食っているような奴だからな」
これは、お東陽片岡先生6年ぶりの新刊『ワシらにも愛をくだせぇ~っ!!』(青林堂工藝舎2018年9月)の、「お茶漬けメイトのブルース」にある。
万年アルバイトの山下則夫の勤め先、しがない零細企業の小口製本の面々が、社長のおごりで生まれて初めてかもしれない一生に一度かもしれない特上カルビを食っている。(おれはまだ特上カルビというものを食べたことがないのだが。誰か、おごってくれ~)
その場に山下はいない。一人の男が「俺たち社員だけが、こうして特上カルビにありつけてだ。/さすらいのアルバイターの山下さんは、家でお茶漬けって訳ですよ」という。社長は「いやいや、彼も誘うと思ったんだけど、もう帰っちゃった後だったんだ」と。
女がいう「山下さん、料金滞納で電気止められてるらしいわよ。/毎日暗い部屋に一人で、かわいそうね」。社長「彼は酒もバクチもやらないし、経済的な人間なんだけどねぇ」男「まったくソープぐせさえなけりゃ、家の一軒も買えてるよ」と、あれやこれやの山下や貧乏をめぐる話の後、女が「山下さん、今頃暗い部屋でお茶漬けすすってるのかしらね?」というと、男が、こういうのだ。
「大丈夫だよあいつは。この世にいるついでに、メシを食ってるような奴だから」
月に一度のソープランド以外はお茶漬けとオナニーの毎日で、その「ブレのなさは、政治家も見習うべきだよな」というものだが、社長は「結局山下君はさ、山下君なりに幸せなんだね、きっと」
幸福感は相対的なものだという真理に到達する。「食べる」から得られる幸福感も、そういうものなのだ。「この世にいるついでに、めしを食っている」というのは、なかなか深い。
この世に生まれたついでに生き、生きているついでにメシを食う、というのは人生の基層をなすのではないか。
そして、そこにとどまる人もいれば、どうせ食うなら、自分で好きなものをつくろうとか、自分なりに楽しい何か工夫をしてみようとか、いろいろな展開につながる人もいるだろう。
だけど、あくまでも、どうせ生まれたついで、「この世にいるついで」なのだ。それぐらいがよい。しかし、それが、さまざまな教育や知識によって、ゆがむ現実がある。
ほかの人よりうまいもの、とか、ほかの人よりいいもの、とか、究極だのなんだのかんだの序列をつけ上に立とうとしたり、たかが飲食のことでえらそうにしたり、バカにしたり、人間や人種に優劣をつけたり、おかしくなる。
いまや飲食の話があふれているけど、たかが食べ物のことです、この世にいるついでです、自分なりに楽しめばよい、という思想になかなか立てない人も少なくないようだ。
それはまあ、「競争社会」に飼いならされた結果であるのだろうけど、東陽片岡さんの漫画は、そういうことに対する批評でもあり、教養になるのだな。
おれは「ザ大衆食」のホームページに、「気取るな、力強くめしを食え!」と共に、「あたふた流行の言説にふりまわされることなく、ゆうゆうと食文化を楽しみたい」というオコトバを掲げているのだが、「この世にいるついでに、メシを食っている」という思想に通じるものがあると思ったのだった。
当ブログ関連
2018/10/09
ワシらにも愛をくだせぇ~っ!!
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2018/10/post-0e61.html
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