理解フノー二十二回「二十年」に関連して。
昨年10月発行の美術同人誌『四月と十月』で、連載中の「理解フノー」に「20年」と題して、このようなことを書いた。以下、そっくり転載する。
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最近、青土社の『現代思想』七月号、特集「考現学とはなにか」に、「おれの「食の考現学」」を寄稿した。過去三冊ぐらいしか読んだことがない雑誌で、学知ゼロの下世話なおれとは縁がないと思っていた。なのに、突然「食の考現学」というテーマで書いてみないかといわれたのだ。
書くうちに、一九七〇年代中頃から自分が大いに関心を持ってやってきたこと、その理論や論理や方法などを振り返るいい機会になった。ま、脳内オーバーホールといった感じだ。やはり、九五年のおれの初めての著作『大衆食堂の研究 東京ジャンクライフ』(三一書房)と九九年の『ぶっかけめしの悦楽』(四谷ラウンド)のあたりで、一度脳内オーバーホールがあったのだが、それ以来、約二十年ぶりだ。
偶然が重なった。考現学の原稿に着手した頃、ある編集さんから、新刊の『フードスタディーズ・ガイドブック』(安井大輔編著、ナカニシヤ出版)に『大衆食堂の研究』が載っていますよ、というメールがあった。今頃?と思いながら買ってみたら、「食研究」を志す人たちのための本邦初のブックガイドで、先行する研究者たちによって四十九冊が選ばれ評が載っている。WEBの「CⅰNⅰⅰ」などの検索でも、二十年前には考えられなかったぐらい「食研究」が充実している。そういう背景もあって編まれたのだろう。それにしても、拙著の「研究」は名だけで、コキタナイ表現を駆使し、路上廃棄物のような一冊だ。
その拙著の評者に驚いた、京都大学教員の藤原辰史氏なのだ。『[決定版]ナチスのキッチン 「食べること」の環境史』(共和国、二〇一六)が注目され、『トラクターの世界史』(中公新書、二〇一七)や『給食の歴史』(岩波新書、二〇一八)などを連打している。近著の『食べるとはどういうことか』(農文協)は、食を考える入門書として画期的。この方の評なら、おれはムチ打ち刑にされても、うれしい。
『大衆食堂の研究』について、こんなふうに書かれている。「文章のなかに散りばめられている罵詈雑言も強烈であり、著者自身もジャンクな本でよいと考えている節があるが、そう読むだけではもったいない。そう読んでも十分に楽しめる本なのだけれども、本書の到達した食の理論から目をそらすことになる」。そして、本書に出てくる「生簀文化論」「「ロクデナシ」の食い方」「大衆食堂は家庭的ではない」「食の自立性」「味覚の民主化」などが、学術な見方と理論を引き合いに読み解かれる。罵詈雑言に負けない読解力の面白く楽しいこと、自分の本のことではないみたいだ。
発行から二〇年以上。著作は評者の見識しだいで生を吹き込まれることがあっても、肉体の老化は不可逆的に進行する。これから先、後期高齢者のおれはどうなるかわからないけど、食をめぐる言説空間は、かなり様変わりするにちがいない。
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「20年」というタイトルは、『大衆食堂の研究』が発売になった1995年を意識しているのだが、実際には24年であり、企画から数えれば30年という歳月がすぎている。
その前、「一九七〇年代中頃から自分が大いに関心を持ってやってきたこと」については説明がついていないが、「生活料理」をテーマにしたあれやこれやだ。そこから数えれば44年になる。
この間、2,3年前から、食をめぐる言説空間が大きく変わりそうな気配を感じていた。
2015年に千代田区神田一橋に開業した「未来食堂」の小林せかいさんの、「個」を尊重する食事を追求した考え方と方法(システム)の影響。2018年に発行の『Spectator』42号「新しい食堂」に登場した食堂のなかでも、「なぎ食堂」の小田晶房さんと「按田食堂」の按田優子さんの、「生きる」と「食べる」と「食べ物(料理)」が無理なく生活の場でつながっている考え方と方法、その影響。などが、最も気になっていた。
『四月と十月』の原稿の締め切りは、8月の何日かだった。その少し前、きのうのブログでふれた「やり過ごしごはん研究家」のぶたやまかあさんとぶたやまライスが、「やり過ごし」なんてトンデモナイ、繊細でキチンとした暮らしのモデルのような『暮しの手帖』に登場した。このことは、ブログ「2019/08/07『暮しの手帖』に、ぶたやまかあさんとぶたやまライスが登場」に書いたように、「これからどうなっていくかわからないが、『暮しの手帖』の第5世紀の1号目にぶたやまかあさんが登場したことは、生活的に、希望がもてるような気がしている」といえるものだった。
藤原辰史さんの『分解の哲学』は、発行元の青土社の編集さんからいただいて読んでいる最中だったので、この「理解フノー」では、ふれてないが、「分解の哲学」は、これから食の言説空間にヒタヒタ影響が広がっていくような気がしているし、いまあげた人たちの考え方に通底しているところがあるような気がして、おれの頭の中でゴチャゴチャに混ざって発酵している。
毎月いただいている『TASC MONTELY』の昨年の分をまとめて読んでいたら、7月号の巻頭エッセイに藤原辰史さんが「給食の未来」を書いていた。「実は給食は大きな知的資源だ」
11月号には、「TASCサロン」のコーナーに、湯澤規子さんの「胃袋からみる食と人びとの日常」という寄稿がある。「「胃袋」は「食べる」という行為、さらには「生きる」感覚に直結している」
きのう書いた、「おかしな記事「夕飯つくらないとダメですか?」」にしても、おかしな記事ではあるが、家事や生活を支配してきた大きな思想や文化がゆらいでいる現象ではある。
2000年代中ごろ、食育基本法が議論になり制定されるころでも、「生きる」と「食べる」と「食べ物」の関係はほとんど話題にもならず、ナショナリズムを背骨に、あいかわらずの「日本型」の「正しい食生活」の観念ばかりが踊っていた。
つぎの本の原稿に取り掛かりながら、てなことを考えていると、なんだかおもしろくなってきたなと思う。
どうなるのだろう。
ま、中央の「権威ある」メディアにたかっている人たちは、そうは簡単に変わらないだろうし、自らの権威と特権のためにも崩れつつある文化の中央集権を維持しようと必死になるだろうけどさ。その右往左往を見るのも、おもしろい。
高尚そうな観念的な言説より自分の生活と胃袋を大切に、あたふた流行の言説にふりまわされることなく、ゆうゆうと食文化を楽しみましょう。ってこと。
そうそう、理解フノーには、毎回1点、自分で撮った写真にキャプションをつけて載せている。この回は、この写真で、「台所、身体の内と外の森羅万象が交差するところ」というキャプションをつけた。台所は、i自分の体内の宇宙と体外の宇宙の結節点であり、宇宙を見たり手に触ったり感じたりするところでもあるのさ。となれば、料理は、宇宙を料理することになるか。小さな空間は、じつに壮大だ。生活とは、そういうものなのだ。
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