おかしな記事「夕飯つくらないとダメですか?」
NHK NEWS WEB に「夕飯つくらないとダメですか?」という記事があった。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200124/k10012257431000.html?fbclid=IwAR0_YZ5B0rKwicjhClKyEJWBk75IcRkkfmFSwOsaU33bbwTJ926aoXBjyqY
「先日、幼い子どもを育てている夫婦が「平日の夕飯はすべてテイクアウト」と書いたネット上の記事が話題になりました。確かに、働きながら毎日のごはんをすべて手作りするのは簡単ではありません。そして今は空前の「テイクアウトブーム」。ごはんをすべて手作りしなくてもいい環境が整ってきているようです。」
というものだが、この記事、いまどきの「結論ありき」というメディアの傾向が露骨に出ている。
冒頭で、このように書いている。
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平日の夕飯を自分たちで作らず、すべて外注してしまう。ネット上に投稿されたこの記事を書いたのは、20代の共働きの夫婦でした。子どもはまだ2歳。近くに日替わり定食をテイクアウトできる店があったことから、思い切って平日は毎日このサービスを利用することにしたそうです。
1食850円を2人前で1日1700円。
1か月で3万円ちょっと。(さらに割り引きもあり)
その結果「可処分時間」つまり、自由に使える時間が増えたそうです。
なぜこのサービスを利用し始めたのか、本人たちに取材しました。
2人は、もともと「家事の効率化」に興味があったそうです。
そして家事の中に占める「料理の負荷」が特に大きいと感じていたそうです。近くにある店のメニューが栄養バランスの取れたものだったこともあり「平日はすべてテイクアウト」を試してみたそうです。そして自分たちの記事がネット上で話題になっていることについても聞いてみると「予想どおり」だったそうです。
記事を投稿した女性
「同じ世代の人たちは家事の効率化に興味を持っていると思っていたので、反響があったのはやっぱりな、という感じでした。これからも『家事の効率化』をいろいろ試してみたいと思っています」
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で、いきなり、「テイクアウトは空前の人気」「“家事に対抗!”」「夕食ニーズにも注目」という見出しの記事が並び、産業側を取材した記事になるのだ。
「ごはんをすべて手作りしなくてもいい環境が整ってきている」正体が明かされる。
アレレだよ。もっと事例はないの。もっと家事について突っ込んだ取材はしてないの。家事は人や家庭によって様々だし、様々が当然だろ。まるで、この事例は産業側のPRのダシに使われているようではないか。
そして、最後は、「“手づくり神話”の呪縛から解放を」の見出しで、「家事研究家の佐光紀子さん」という方の、「「ちゃんと家事をしてしっかり家族の面倒を見るのがよい母、よい妻だという思い込みから、そろそろ解放されてもいいのではないでしょうか」と話しています。」っていう、権威ありそうなまとめでオシマイ。
なんだろう、このイイカゲンさ、内容の無さ。
どうして、「確かに、働きながら毎日のごはんをすべて手作りするのは簡単ではありません。」が「そして今は空前の「テイクアウトブーム」」ってことに直接つながるの。
「ちゃんと家事をしてしっかり家族の面倒を見るのがよい母、よい妻だという思い込みから、そろそろ解放されてもいいのではないでしょうか」ってのはいいし、それは必要なことと思うけど、それがどうしてテイクアウトとつなげて語られなくてはならないのか。
ここでの、「家事の効率化」や「テイクアウトブーム」は、余裕のない生活、つまり生活がよくならない経済と無関係ではないように思われるし、経済がよくならないシワヨセが人びとの生活におよんでいるとも読めるのだが、そういう実態や分析については、まったくふれてない。
「家事研究家」の考える「家事」についても、気になるのだが、記者たちは気にならなかったのだろうか。
「家事」は「時間」と「金」だけのことなのか。「家事の効率化」や「家事からの解放」とは、なんなのか。
おれは近年よく目にする「時短料理」という言い方も気になっていたのだが、「家事労働」や「料理」が、「労働」でもなく「作業」「行為」のレベルことになってしまっているからだ。だから「時間」だけが問題になるのだ。「家事」を「生活」としてとらえることもなければ、もちろん「文化」としてとらえることもない。
「ちゃんと家事をしてしっかり家族の面倒を見るのがよい母、よい妻だという思い込み」は、日本社会に根強くはびこっていた思想や文化であるけど、それを産業におんぶする「消費」で克服できるのだろうか。家事研究家は、どう考えているのだろう。
なーんてことが、気になるのだが、この記事からは何も見えてこない。
ただ、はっきりしていることは、こうして、生活は時間と金に解体され、すみずみまで産業にのみこまれ、人びとは労働で搾り取られ、消費で搾り取られる状態が、ますます拡大しているということだ。
とはいえ。
もしかすると、こういう打算的な生活や産業は、これまでの強固に見えた「保守的な家族像」まで、ブチこわしてくれるかもしれない。それはそれで、なかなか興味深いことではある。
だけど、生活の主体は、どうなるのだろう。賢い時間と金の使い方だけになるのだろうか。悩ましい。
とにかく、こんな内容のない記事にふりまわされないようにしたい。
そこへいくと、ぶたやまかあさんの「やり過ごしごはん」などは、生活から生まれた主体的な文化として、クリエイティブだし、あらためてすばらしいと思うのだった。
当ブログ関連
2019/08/07
『暮しの手帖』に、ぶたやまかあさんとぶたやまライスが登場。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2019/08/post-00ec92.html
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