ただよう「気分」と「言葉」。
前回のエントリーから、一週間たっていないのに、いろいろ世間は騒々しく動きも激しい。ある局面では状況が大きく変わった。
身近のところをあげれば、3日ほど前に、突然、スーパーなどの店頭からテイッシュペーパーやトイレットペーパーが無くなる騒動が持ち上がった。
店頭で知って驚いてネットで調べたら、新型肺炎のためのマスクが買いだめされたり、店頭では品切れや品薄が続いているのだが、そのマスク生産のための紙材料が不足しテイッシュペーパーやトイレットペーパーの生産に影響を及ぼす、というようなデマがキッカケらしい。いくらか落ち着きをとりもどしつつあるが、まだ店頭では品切れや品薄が続いている。
なにしろ、おおもとの新型肺炎については、落ち着いてはいないから、いわゆる「人心」はきわめて不安定だ。それについては、さらに不安定を増大させるようなことがあって、目下、状況は混とんとしているといってよい。
先週27日夕方、日本国の内閣総理大臣安倍晋三が、新型コロナウイルス感染症対策本部の会合で、「感染拡大を防ぐため全国の小中高校に3月2日から春休みまでの臨時休校を要請した」という事態が発生したのだ。
これは報道によれば、専門家会議も知らなかったことだし、「文部科学省は反対したが、首相は押し切って表明」とのことだ。昨日、首相は記者会見を開いたが、いつものように形式的なもので終わっているから、混乱は続くだろう。臨時休校だけでなく、「濃厚接触」から感染の拡大の可能性のある、イベントなどが軒並み中止または延期になり、国立博物館などの展示会場も休館、おれが利用しているさいたま市の図書館も明日から休館になるし、とにかく「不要不急」の外出は避けるということになり、ただし、毎日の激しい濃厚接触がある会社や通勤電車はそのままという、などなど。飲食業は、ようやっとリーマンショック前まで回復したようだったが、また波をかぶることに。
しかも、こうしたなか、「27日のニューヨーク株式市場はダウ平均株価は大きく値下がりし、値下がり幅は1190ドル余りと、1日としては過去最大を記録」「ダウ平均株価の値下がりは、これで6日連続」「これほどの値下がり局面はリーマンショック直後の2008年10月以来だ」というニュースが流れた。株価の動きは単純ではないから、判断が難しいが、きわめて不安定な状況にあることは確かだ。
こういう時は、どういう人たちが何にどんな関心を持っているか、あるいは、持っていないかがよくあらわれるし、その思考の具合もよく見える。
同じようなことが、2008年のリーマン・ショックと、2011年3月11日の東日本大震災と続く東電原発事故のあとにも、あらわれた。そして、平成30年をふりかえる様々な記事を見ても、リーマン・ショックは3.11ほど取り沙汰されてないように、今回も、アメリカにおけるリーマン・ショック以来の株価の下げ幅より、もっぱら新型肝炎がクローズアップされている。
何が起きているのだろう。
先月25日に、『四月と十月』に連載の「理解フノー」の校正を終えた。こんどの4月に発行の分だ。
今回のタイトルは「気分」であり、初めてトイレットパーパーの買いだめ騒動が起きた1973年のオイルショックと、2011年3月11日以後を念頭において書いたものだ。
とくに3月11日以後だが、こうしたことが何故おきるのか、というような面妖なことが、メディアを舞台に続いていたし、そこでは、かつてのオイルショックの頃の「活字文化」をけん引してきて、いまでも中央メディア界隈で小さくない権威を維持しているように思われる「文学」なるものが、まったく機能していないし、コトは歪むばかりなのがナゾだった。
そこを考え続けていたら、少し見えてきたことがあった。もともと、日本の「文学」は歪みやすい脆弱性を抱えていたということになるか。
詳しくふれている時間がないので、「気分」の原稿からつまんでおこう。
とにかく歪んだ状況について、「日常の認識や思考のもとになる言葉や論理など、文学の問題ではないのかという気がしてきた」「そこで思い出した文言。「文学と食い物にはなにか一脈通ずるものがあるとみえて、日本では双方とも「気分」で味わう傾向が強いようである」っての。直木賞作家から「金儲けの神様」に転じた邱永漢の『食は広州に在り』にある」
この『食は広州に在り』は、オイルショック後の1975年に中公文庫になり、おれは当時それを読んだ。
「半世紀前が今も目の前。文学を味わう人たちというと知的存在と思うが。「気分」を「趣味」や「観念」などに置き換えることも可能で、そう読むと「気分」のことがわかりやすい。とにかく、邱永漢もいうように「あまりあてにならない代物だ」。文学も食い物も認識と深い関りがあるのに、「気分」に左右される。さらにメディアの権威にあぐらをかいている「気分」が「正しい」「現実的」なんてことで」
文学も食い物も認識と深い関りがあるのに、「気分」に走っている。公共も論理もへったくれもない状況は蔓延し、問題解決なんかどうでもよく、井戸端会議的オシャベリを文化的文学的な言い回しでやって、何者かになったような「いい気分」でいられる文学が盛りなのだ。
というと言いすぎのようだが、いわゆる「世俗的成功」とみられている中央メディアあたりに存在する文学は、本好き文学好きの「趣味」な仲間に囲まれて「外界=現代の資本主義や資本主義文化」の動きが視野に入っていないように見える。自分のこと=出版業界における自分の位置、出版業界ばかりに関心が高く、出版や文学は自然や社会の何を解決しようとしているのかの問題意識は低い。
そういうことに思い当たり、「気分」を書いたのだが、それ以後の新型肺炎をめぐる動きを見ても、あいかわらず、「文学」と「食い物」は「気分」なのだなあという「気分」は深まるばかり。
しかし、おかげで、みんな何を信じていいのかわからない状況が生まれ、その混とんと、アナーキーとまではいかないが、ややアナーキーな状況は、おれは嫌いじゃない。
不安定ではあるが、だからこその、中央メディアの権威に「意味づけ」を求めない、自らの意味づけは自らするという人たちも増えているかどうかは定かではないが、その発言はそれなりに価値を発揮するようになってきたからだ。
「活字文化」と中核の「文学」が権威として、さまざまなことに「意味づけ」をして、その「意味づけ」をありがたがる存在によって権威は維持されてきた、その構図は、やっと終焉を迎えるか……というのはおれの期待であって、中央の新聞雑誌などに巣くう旧弊な権威は旧弊な土壌でしぶとく生きようとする。彼らは、ほかの見方や方法を知らないからねえ。
「理解フノー」の「気分」の最後のほうでは、「サテ、本一冊買う難儀も取りざたされる日本の資本主義、どうしたらいいか」と書いた。とらえどこがないほど大きく見える資本主義とその文化は、本一冊買う、じゃがいもを買う、トイレットペーパーを買う、といった日常の小さなことに凝縮されている。それを認識できるかどうか、そこに文学が機能しているかどうか。
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