「気分」は続く。今日の日常。
東大宮で一番大きなスーパーへ行った。倉庫みたいに大量の商品が並ぶ、ナショナルチェーンの店だ。
米売り場が、無洗米まで含め、一粒もないほどカラ。冷凍/冷蔵のピザやスパゲティも売り切れ、ほかのものも、かなり品薄状態。あと、乾麺も品薄。といったぐあいだ。昨日は、普通にあったのだが。
トイレットペーパーとティッシュペーパーも、引き続き、ナシ。
学校が休みになって、給食は頼れないし、食欲旺盛な子供を食べさせなくてはならない家庭の事情があるかもしれない。冷凍食品は、頼れる?供給元だった中国の状態が、不安の元になっているかもしれない。
前の戦争を持ち出して、日本は「兵站がダメだから」というようなことを言うひともいるが、それはあたっていないと思う。いまの日本の生産から流通のシステム(「ロジスティクス」とかいうやつね)は、じつにキチンと立派にできあがっている。
キチンと立派すぎて、余裕がなさすぎる。いい加減さが足りない。不況続きのなかのコストカットでギリギリ状態でまわしている。つまりバッファがないから、買い占めのつもりなどなくても、子供が休みになったことだし、チョイと余計に必要かなと思って何気なく多めに買ったとしても、その人数があるていどになると、ロジスティクスの全体に影響を及ぼす。
近年、鉄道会社が乗り入れを進めた結果、どこかで故障や事故があると、広範囲にわたって長時間影響が出るのに似ている。
食品の場合、「日販品」といわれる牛乳やパンなど以外の加工品は、たいがい稼働すると一度にたくさんの製品が出来あがるラインの工場で生産される。紙類も、そうだ。一度に大量に生産できる。それを、いったん倉庫に保管し、キチンとした計画に従って配送する。そのための運送方法、手段、時間などは、実績で把握されている需要の状態に合わせ、かなり計画的に決められている。めんどうくせえデータ処理の世界だが、コンピューターと通信のテクノロジーのおかげだ。
1970年代ぐらいまでは、一次問屋、二次問屋、地方によっては三次問屋まであって、製品は分散されストックされる、いわゆる「流通在庫」が多くあって、問屋の地域ごとの対応がやりやすかったが、それらは整理された。トヨタの「看板方式」は、下請け部品工場から組み立て工場への入荷の生産段階でのことだが、それを販売経路に適用させた、と考えればいいだろう。
工場から店頭までロボット化されているようなもので、テクノロジーとシステムに人間がふりまわされ、「お母さんは忙しくなるばかり」が、家事だけではなく、いたるところに広がっているのだ。
スーパーの場合、多品種少量づつの品揃えになっているから、ある品物がそういう事情で品切れになると、すぐには補充されないから、あとの客は同種の別の物を購入する、するとそれもすぐ品切れ、という状態が繰り返され、カラの棚が増え、それを目の当たりにした客がアセルの当然だろう、という循環で、どんどんカラの棚が生まれる。だからといって、ロジスティクスの変更は簡単にはできない。
流通システム上の余裕のなさと客の心理的な余裕のなさが、思わぬことを引き起こす。まるで、サスペンスだ。余裕のない日常とは、サスペンスなのだ。「2,3日様子をみながら」ということができなくなっている文化は、けっこうコワイものがある。
こういう「余裕」のさばきかたの問題は、日常の文化と直結していると思うのだが、「買い占めに走る愚民ども冷静になれ」とエラそうにする文学がけっこう存在する。
昨日だったかな?何かのノンフィクション賞をもらったことがある、著名なジャーナリストだか作家が、モノはあるのだから「冷静になりましょう」というようなことを言っていた。自分は一段高いところにいると思っている。
文学なら、いたるところ余裕のない状態で成り立っている日常を、もっと考えるべきじゃないのか。
そして、「お母さんは忙しくなるばかり」でアタフタしている一方、いい「気分」な飲食の話は、あいかわらず活発で、そのこと自体は、もちろん、とやかくいうことではないが、内容が相変わらずすぎるというか。「食文学同好会」のようなものでして。
トイレットペーパーを「食」の問題として捉える視点はなく、「口に入れるまで」ぐらいを何やら賢そうに文化的文学的に語って気取っている様子は……。ブリッ。
そうそう、昨日のエントリーをご覧になった、存じ上げない方から、こんなツイートがありますよというメールをいただいた。どうもありがとうございました。
赤松利市
@hZoImkE6gPbGnUs
本日新聞社のインタビューを受けました。著作についていろいろ訊かれ「最後に一言」と。
「ツイッターで政治的な呟きをかなりされてますが、担当編集さんから制止されませんか?」
「相応しいくないという助言を頂く場合もあります。ただ元は住所不定無職の私です。今さら怖れるものはありません」
午後6:02 · 2020年2月29日から
https://twitter.com/hZoImkE6gPbGnUs/status/1233678973428584448
というもので、なにやら、中央メディア界隈にただよう「気分」な文学あたりのことがすけてみえるような。
政治的な発言は相応しくないというのが、あのあたりの空気であり気分なのは、なんとなく感じてはいた。だけど、すごく政治的な嫌韓や安倍援護射撃発言やヘイトな発言をする有名な作家がいるんだよね。つまり、「政治的」というのは「反政権的」という「気分」らしいのだ。
そんな「気分」と「空気」のなかで、語られているのが、一見まったく無難に処理された「いい気分」なだけの飲食談義なんだよね。でも、じつは、飲食ほど政治的なものはない。ただ、そのことに目をつぶっているか見えない者たちだけが、中央メディアあたりで「いい気分」になっているだけなのさ。そして、昨今の政治の動きのなかでは、そのこと自体が政治性を持つようになった。
ところで、赤松利市という作家を知らなかったのだが、ツイッターのプロフィールに、「中間小説を書いています。大衆娯楽小説です。『犬』が第22回大藪春彦賞を受賞。62歳でデビューした64歳です。#吉村萬壱 #車谷長吉 #ミヒャエル・エンデ」とあって、おお、すばらしい!と、おれは感動のあまり小便をチビリそうになった。
「中間小説」なんて、ある人たちに言わせたら「死語」だものね。おれも「大衆」なんて言葉使っていると、もう「大衆文学」も「中間小説」も終わっているし、そんなのはさっさと卒業したらどうですか、と、ある自他ともに文芸性の高い品質のよい本を出していると認めているらしい出版社の編集さんに「助言」をいただいたことがある。
とにかく、まずは『犬』を読んでみよう。
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