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2020/06/29

「家事評論家第一号」吉沢久子。

2020/06/24「25年の節目と時代区分で、コーフン」(https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/06/post-bf6cef.html)以来、頭の中を、戦後の25年区分、「近代」「ポスト近代」「ロスト近代」が占拠している。

この区分の下敷きであり、かつ見田宗介の「理想の時代」「虚構の時代」をバージョンアップしたという大澤真幸の「理想の時代」「虚構の時代」「不可能性の時代」という区分も捨てがたい。

1945年~60年代後半 「近代」 「理想の時代」
70年代~90年代中頃  「ポスト近代」 「虚構の時代」
90年代中頃~      「ロスト近代」 「不可能性の時代」

こうして並べて、自分の経験と照らし合わせてみると、とてもイメージがわく。

とくに、この区分から台所を見たり、台所からこの区分をみたり、と、いろいろふりかえっているうちに、思い出すことが少なからずある。

すっかり記憶から抜け落ちていた人を思い出した。記憶は、アヤフヤなものだけど、あれほどメディア(おれの記憶にあるのは主に雑誌だが)に登場し活躍していた人でも、簡単に記憶から消えてしまうことに、自分でもおどろいた。考えてみると、自分も「生活料理」といいながら、この人に言及してこなかったし、近年の「家庭料理」や「料理研究家」などに関する著述でも、ほとんど見かけない。

いそいでWEB検索したら、なんと、昨年3月に101歳で亡くなっていた。失礼だけど、もっと昔の方のように思っていた。

この人は、「近代」から「ポスト近代」の「家事」や「家庭料理」あるいは「台所」を考えるとき、はずせない。

「家事評論家第一号」の吉沢久子だ。

「第一号」であることは、検索で知った。とにかく、「家事評論家」で活躍した。と、過去の人にしまってはいけない、90歳を過ぎてからの近年も、「家事評論家」として現役で、エイジング方面でたくさんの本を出している。

清流出版のサイト、「加登屋のメモと写真」には、このような記事がある。
http://www.seiryupub.co.jp/blog/2019/05/post-156.html

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 吉沢さんの略歴に触れておこう。1918年、東京都江東区深川のご出身で文化学院文科卒業。1941年に速記者から始まり、古谷綱武氏の秘書を務めてから出会ったことをきっかけに1951年に結婚。綱武氏が10歳年上だった。秘書時代は文化学院、東京栄養学院、東京学院に学んだ。生活に関することを経験に生かし評論家となったが、1969年に「“家事評論家”廃業宣言」と書き話題となる。

昭和30年代は「もはや戦後ではない」といわれ、日本経済が急速に発展した時期にあたる。一般家庭にも洗濯機や炊飯器が出回るようになり、女性は厳しい家事労働から解放されるようになる。吉沢さんの活躍の場が一気に増えた。どうしたら炊飯器でも、薪で炊いたご飯と同じように美味しく炊けるか、メーカーが工夫をする中でアドバイスを求められた。電化製品ばかりではない。新型の鍋や台所用品なども出回り、その上手な見分け方や使い方を実際に使ってみて体験的にアドバイスをするなどの仕事もしている。着実に家事評論家としての地歩を築いていった。
…………………………………………

古谷綱武のことも、すっかり忘れていたなあ。文芸評論家として、ずいぶん活躍していたし、人気もあった。離婚して、吉沢と結婚したのだ。

「女性は厳しい家事から解放されるようになる」は疑問だが、台所の近代化で、「吉沢さんの活躍の場が一気に増えた」ということは、近代化と「評論家」の関係をも語っているようで、おもしろい。

アメリカでも、「家事アドバイザー」をめぐって同じような傾向がみられるようだ。ということを合わせて考えると、「評論家」は、コマーシャリズム(商業主義)やマーケティングと親和性が高いといえそうだし、昨今の「評論家」などは、ほとんどの分野で、「癒着」といっていいほど、かなり濃密な関係にみえる。

2014年、96歳のときに出版した、『明日も前へ: 歳を重ねても楽しいことがいっぱいある』(PHP研究所)は、kindle版があり、ネットで部分的に「立ち読み」もできる。

そこから台所がらみを拾ってみた。

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第三章 台所こそ長生きの源です

毎日欠かさず立つ場所だから、「普通」が一番
ひとりで食べきれないものは作らない
ひとりサイズの食生活には、冷凍のワザを
骨董の器には不思議な包容力がある
台所用具を長く愛用する秘訣は、「自分に合わせていく」こと
手の力が弱ってきたら、道具を変えて対処します
ひとりの食事でも、だらしなくなることはりません

毎日欠かさず立つ場所だから、「普通」が一番。
綺麗すぎず、便利すぎず、機能的すぎず……
でも安全対策はしっかり。それが私の台所です。

●身になじんだ「普通の台所」
 「家事評論家」という肩書きのもと、料理番組の司会をしたりお料理の本を出したりしてきた私ですが、自分が使う台所はいたって「普通」です。
 普通がいい、便利な道具が揃ったピカピカの台所では料理をしたくない、と常々思ってきました。だって世の中の奥さんたちは皆、そうして台所に立っているのですから。その視点からかけ離れた環境を作ってしまうと、作る料理にも書く内容にも、どこかズレた要素が出てきてしまうのではないでしょうか。
 ところがそうは言いつつ、取材などで台所を見に来られた方から見ると、「普通」とは違うところも少しはあるようです。
 そのひとつが、私の「地震対策」。

●あえて動線を長くとり、運動不足を防止する

 この考え方は今に始まったことではなく、昭和30~40年代の頃から意識していました。
 というのもその頃、家事評論の世界では「動線を短くして家事を合理化せよ」ということが盛んに叫ばれていて、私はそれに対し、諸手を挙げて賛成できない気持ちでいたです。家事を通して少し運動量を増やすほうが健康的なのでは、というのが私の考えでした。
 この台所も、動きが「最短距離」にならないように作られています。

第六章明日も前へ――100歳への夢

「家事評論家」という仕事に就く、その原点は
時代の移り変わりのなかで、昔の日本が失われていく
私が家庭で実践していた、ちょっとしたアイデア
綺麗すぎる台所だと美味しい料理はできない
「考えない家事」から「考えて行う家事」へ
新聞のコラムを半世紀近く書き続けています
『台所の戦後史』の執筆を目指しています

私が家庭で実践していた、ちょっとしたアイデアを
「記事にしてほしい」と頼まれたこと。
「家事評論家」と呼ばれるようになる
第一歩でした。

●家事評論家? それとも生活評論家?

 現在、私の肩書きは「生活評論家」となっていますが、この仕事を始めたときは「家事評論家」でした。この肩書きのもと、私は「料理を中心に、家事全般に関するアイデアを伝える」という仕事を始めます。
 その後「家事」から「生活」に変わったのはなぜかというと、ひとり暮らしになってから、家事をしなくなったためです。
 家事を家事と呼べるのは、家族のいる生活を切り回してこそだと、ひとり暮らしになった私は痛感していました。ひとりなら面倒な作業はなく、効率よくこなそうと知恵を絞る必要もないのです。「だから家事に関して教えるなんてもうできないわ」とお話ししたら、この新しい肩書きを頂戴することになりました。
 でもこの二つの肩書き、実はいずれも、自分で名乗ったことはないのです。どちらも、周りの方々につけていただいたものです。
 そのときの仕事、つまり私の初仕事は、新聞社に勤める夫の友人に、「あなたがしている生活の工夫をぜひ読者の紹介したい」と言われて書いた記事でした。 
 書いたあと、はたと困ったのが「吉沢久子」の身分をどう説明すればいいのか、ということ。「主婦」では変だし、どうすべきか……とその方はいろいろ考えた末、家事評論家という名前を考案してくださったのです。
 こうして私は、今も続けているこの仕事を始めることになりました。
 家事評論という分野自体がまだまだ未開拓だった、昭和20年代の話です。

綺麗すぎる台所だと、
美味しい料理はできない。

●『テレビ料理教室』の司会を担当

●「綺麗な台所」で料理はできない!?
 江上料理学院院長・江上トミ先生とも何度もお仕事し、親しくお付き合いさせていただきました。
 そしてお話しするうちに、先生の思わぬ「本音」を聞くこともありました。
 当時日本では、戦後の復興と住宅環境の激変のなかで、「台所改善運動」というものが盛んに行われていました。これまでの日本の住宅に北向きの台所が多いのは女性の地位が低かったからだ、といった考え方のもと、これからの女性の地位向上のためには台所の改革が必要だとされ、清潔で機能的で快適な空間を追求する動きが強まっていたのです。
 そんななか、江上先生は「あまり綺麗な台所だと、美味しい料理はできませんよ」とおっしゃっていました。汚すのが嫌だから料理をしたくない、と思う人が増えてしまうというのです。言われればたしかにそのとおりで、ピカピカに調理台で魚をさばいたり、傷ひとつないシンクで調理器具をゴシゴシこすったりするのは少しためらわれるものですね。
 でも、それは決しておおっぴらに言えることではありませんでした。ですからこれは二人の間だけの、内緒のおしゃべりだったのです。
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といったぐあいで、なかなか貴重な証言だ。おれは、江上トミとは、市ヶ谷の学院があるビルの上にあった自宅で2回ほど会った。懐かしく思い出した。

ほかに、日本記者クラブのサイトの「取材ノート」のコーナー、ベテランジャーナリストによるリレーエッセー「私が会ったあの人」に、「私が会った若き日の吉沢 久子さん(藤原 房子)2011年11月」も、おもしろい。
https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/23578

吉沢久子は、おれのなかでは、「近代」「ポスト近代」の人だ。つまり、いま、なのだ。

時間がないので、ここまで。

 

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2020/06/26

そして誰もが「評論家」になった。

先月のことだが、かの有名な内田某による書評が、書評の対象となった本の編集者によってネット上で批判にさらされるということがあって、ツイッターなどで話題になった。ネットならではのデキゴトで、すばらしい。

編集者の批判は、「800字という限られた文章量の半分以上、控えめに計算して全57行中42行を、対象となる本ではなく《自分語り》に費やす文章を《書評》とは呼べない、と私は考えます」という趣旨だった。

ネットでのざっとの印象では賛意の言及が多かったようにみえたが、賛否というより、書評も変わってきた、そういうのもありだし、自己宣伝のために書評を利用することすらあるではないか、というような指摘もあって、なかなかおもしろかった。

おれは、その議論はともかく、以前から気になっていることがあった。

1995年頃から25年のあいだに、書評は大きく変わったと思っている。「書評」ばかりでなく、「批評」や「評論」あるいは「レビュー」といったもの、まとめてなんといえばいいのか(「言論空間」「言説空間」でいいのかな?)、ああだこうだ評価することの、目的や方法や作法などすべて変わってしまった。それがいいか悪いかではなく。

その変化の先鋒は、80年代初頭の「料理評論家」の登場だと思うし、彼の本は、この人が書評に取り上げれば売れる、といわれた丸谷才一の書評で、ますます箔がついて売れた。

もともと丸谷才一も『食通知ったかぶり』を著していたし、60年代から70年代に流行の「飲食談義」「味覚談義」などの著作は、「文士」といわれる人たちが主な担い手であり、食べ物は「文芸」のネタだった。

そういうものと「料理評論家」による料理評論は異質のもの、と、読書人のたいがいは考えていたと思う。

丸谷が、なぜ「料理評論家」の本を扱ったのか、ほんとうのところはわからない。『食通知ったかぶり』に見られる、丸谷の飲食を語ることに対する逡巡ぶりを考えると、書評欄担当の編集者の押しだった可能性も否定できない。掲載紙は『週刊朝日』だった。

おれとしては、これは、少なくとも「書評界」と「料理界」の大きなジケンとして記憶に残った。80年代的現象だった。

何か、はわからないが、何か、が「変質」し始めていた。

その変質は、情報過剰のバブルを経て、少しずつあきらかになった。

あのころ「情報化社会の申し子として誕生し、成長し続けるオタク」が注目を浴び、そのオタクを評論する「オタク評論家」まで出現した。

過剰な情報の中で、ある分野に詳しい、ある分野について一生懸命である人たちが、情報消費のリーダー的存在になる状況が生まれたのだ。

それが、「評論(を書く人)」や「書評(を書く人)」として、メディアや世間に迎え入れられた。

この傾向は、95年を境にインターネットが普及するにしたがい、メディアの一角というより中心部にどっかり座った。

「ある分野」は、ますます細分化されクラスタ化され、それぞれに情報消費のリーダー的存在が位置するようになった。

もう一つ。

かつての「書評」は、「活字文化」と共に発展したわけだが、「活字文化」の頂点に立ちリードしていた新聞は、ちょうどバブルの頃をピークに販売部数が減少に転じる。

95年頃、拙著『大衆食堂の研究』が出たあとだが、新聞の書評を見た人が実際にどのていど購入するかを調べた記事があった。朝日新聞の書評欄がダントツで80%だったのが年々低下している、ほかの書評欄は推して知るべしというようなことが書かれていて記憶に残っている。権威性の基盤が崩れだしたのだ。

「活字文化」の衰退は、「活字文化」によって立っていた書評の変質を加速させたといえるかもしれない。

「書評」は、情報消費のリーダー的存在として変質することで生きのびた。それは「文化」が創造性を失い「消費」に飲みこまれる過程だったともみれなくはない。

そういう昨今の「書評」は、あるていどの文章の技さえあれば(ネットならそれもいらないか)、かつてほどの教養や知性や読解力を必要としない、ま、ただの情報消費空間のにぎわいの一角になったといえる。

1クラスタに1人あるいは何人かの、情報消費のリーダー的存在としての「書評(を書く人)」が位置し、かつてほどの教養や知性や読解力が必要とされないがゆえに誰もがそういう存在になれる可能性があって、メディアは回転し消費が動く。そんな感じかな。

そういうことをあらためて考えさせられたのだけど、これ、一昨日から書いている、「ポスト近代」や「ロスト近代」と深い関係がありそうなのだ。それについては、また。

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2020/06/25

「近代」と「現代」。

昨日の橋本務は、「「ロスト近代」についてお話する前に、まずモダン(modern)とは何か、簡単におさらいしておきましょう」と、以下のように書いている。

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日本語では、モダンは「近代(的)」とも「現代(的)」とも訳され、使い分けられています。「近代」とは、封建社会から脱皮した資本主義社会(あるいは市民社会)、とりわけその商業-工業段階(産業社会)を指します。同時に、その社会の理想となる諸価値、科学・進歩・啓蒙・普遍などが流布していく過程を意味します。一方、「現代」とは、時代現象として捉えた場合の現在を意味し、同時に、現在の社会関係のなかに未来へ向かう進歩の一契機を見出して、それを時代の特徴とするものです。つまり、近代の諸価値を体現するものを「近代(的)」と呼び、また、評価の定まらない新しい社会現象については、「現代(的)」と呼んで使い分けているようです。
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「近代」と「現代」の違いが、わかりやすい。

おれがマーケティングの仕事(主に食品メーカーの)に就いた1970年代初頭は、まだ、「市場調査」というと「需要予測」が中心的な業務だった。

この「需要予測」は、60年代中頃までの、供給が需要を上回っている状態での考え方と方法が惰性的に続いていたといえるのだけど(業種によって違いがあったようだが)、すでに「生産過剰」と「マーケティングの革新」がいわれていて、「需要予測」の方法も含め、マーケティング全体が変わろうとしている最中だった。

73年のオイルショックを境に、マーケティングは激しく変わり続けた。川上(メーカー)志向から「川下(顧客)」志向へ、がいわれ、消費者の意識や嗜好、消費行動などが調査の中心になった。

消費者のニーズと商品の品質の追求、さらに「ニーズ(必要)」から「ウォンツ(欲求)」だのと、消費者とのコミュニケーションなどが中心的な課題になっていく。欲望を刺激し消費に駆り立てる。簡単にいってしまえば、「情報」のマーケティングってことなんだが。

つまり、それまでの「つくれば売れる」といわれた(実態はそれほど甘くはなかったけど)生産や製造が中心の「商業-工業段階(産業社会)」の「近代」とは異なるフェーズに突入したわけで、目まぐるしい変化のなかで、そのことを実感する日々だった。

橋本務が、70年代―1995年を「ポスト近代」としたことには、そういう体験も含め、すごく納得がいく。

ってことを、忘れないうちに書いておきたかったのだ。

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2020/06/24

25年の節目と時代区分で、コーフン。

今年は1995年7月の『大衆食堂の研究』発刊から25年という節目だ。

「節目」などはあまり気にしたことがなかった。だけど、デレデレ生きてきた歳月をふりかえってみようかというとき、「節目」で整理する方法は便利だし有意義だということに、いまさらながら気づいた。

25年という節目は1世紀=100年が基準値だろう。「四半世紀」が25年、「半世紀」が50年という区切りの付け方だ。ほかにもいろいろな節目がある。元旦だって一年単位の節目だし、何かという10年単位も多い。10年単位でも、年号か西暦かで異なる。おれは今年「喜寿」といわれる77歳になるが、これも一つの節目だ。

どの節目でみるかによって、モノゴトが違う角度からみえるようだ。それは、関連するモノゴトの局面がタイムラグをもってあらわれることも関係する。たとえば、産業と文化と政治のあいだにはズレがあるし、需要と供給にはズレが生じやすいし、それらと識者の言説や国の政策もズレる。節目の単位は、地図の縮尺のようなものだけど、縮尺より主観的だし、どの単位を選ぶかで見え方が変わるのだ。

結婚25年は「銀婚」といわれる。私事になるが、結婚記念日など気にかけていたことはないし、だいたい覚えていないのだが、相方はよく覚えていて、今年は銀婚だという。5年後の30年目は「ダイヤ婚」だそうだ。ところが、おれがステージ4の癌を告知されて、5年後に何割かあるはずの生存率に残れるかどうかわからないから、記念の写真をとっておこうというので、セルフタイマーで撮影した。

そんなことをしていたら、そうだ、今年は『大衆食堂の研究』発刊から25年だ、と気づいたのだ。

さらに、25年を単位にしてみると、95年の前は1970年、その前は1945年で敗戦の年になることにも気づいた。

つまり、『大衆食堂の研究』は、敗戦から半世紀、50年後の発刊だった。執筆当時は、そのことをまったく意識していなかった。戦後の大衆食堂は、敗戦の焼け跡から立ち上がったというのに。

この区分を基準に「食」を考えてみると、いろいろな見方ができる。

すぐ気づいたのが「米」政策を軸にみることだ。

戦後最初の25年、45年から60年代は、食管法と米作・米飯拡大による「米飯主食体制」の確立といえるだろう。

70年から一転、減反と自主流通米とブランド米の拡大で食管法は実態を失っていく。

95年から新食糧法のもとでの米作と米飯であり、つまり「完全自由化」で「米飯主食体制の崩壊」てなぐあいになるだろう。

おれが食品のマーケティングに関わるようになったのは、1971年の秋からだが、その頃からの50年は、戦後の25年でやっと確立したかに見えた「米飯主食体制」が、ゆらぎ崩れる過程だった、とみることも可能だ。

「米飯主食体制」の確立は、工業化の進展つまり化学肥料と農薬と工作機械の生産と普及によって支えられた。また「米飯主食」は同時に発展する工業と都市の人びとの胃袋を支えた、というみかたもできるだろう。

70年前後は、工業生産の需給関係が供給過剰に変わる転換点でもあった。ほかにも要因があるが、減反政策は、その必然ともいえる。

戦後日本の資本主義の中心的な産業は生産と製造で、これを軸に急成長した。いわゆる工業化社会ってやつで、工場が集まる都市と労働者の人口が急増した。

その工業社会の産業構造が激動するのが、70年からの25年だ。73年、第一次石油ショックで高度経済成長が終わり「不確実性の中の成熟化」という、わけのわからんことになった。1967年の資本自由化は、大きな変化をもたらした。とくに70年代の食品流通と外食の分野だ。

マクドナルドやセブンイレブンなど、外食や小売の分野でチェーン化を促し、小売や外食が「産業」として成長する。一方で、従来型の生業は苦境に立つ。76年には、第三次産業の人口が50%をこえた。

80年前後から、日本の資本主義は、落ち着きのない構造的な変化の中にいる。ま、日本に限らず資本主義は、大きな曲がり角に立ったのだが、日本では80年からの潮流を「ナショナリズムの台頭、自信と不安の交錯」とよんだりする。

80年代前半、「出口の見えない時代」ということがいわれ始め、いわゆる「閉塞感」が漂い始めた。「閉塞」が盛んにいわれるようになったのは、80年代後半のバブルの頃なのだが、イケイケ浮かれまくっていた人たちは、まったく覚えがないようだ。

「マイコン革命」がいわれ、コンピュータ産業や情報産業が台頭する一方、為替の大きな変動(円高)もあり、国の政策は70年代の輸出から内需拡大へ大きく切り替わる。消費主義台頭の先頭を切っていたのが「グルメ」とファッション。生産から消費へ、製造からサービスや通信へ。サービスの中心に金融や証券がドッカリ座る、不動産と組んでバブルをもたらした。

「産業構造の転換」や「第4次産業」などが叫ばれたが、出口は見えない。ただ「重厚長大」から「軽薄短小」へ、「護送船団方式」は終わったというばかり。そこに都合よく新自由主義がはびこり、あらたなグローバル化が勢いよく進んだ。70年からの25年は、そんなだった。

「失われたン十年」という見方は1995年を起点にしているが、実際は、80年前後から出口が見つからない状態が続いているし、政治面では、1982年の中曽根内閣からの「行革」という新自由主義の導入以来、小泉、安倍と受け継がれているし、消費税の導入も89年で、70年からの25年は大きな変化に突入したままの状態。

つまり、70年からの50年は出口の見えない閉塞のなかにいるのだが、95年までと95年以後は、かなり異なる面がある。

以前、対談をしたことがある速水健朗さんは、『1995年』(ちくま書房2013年)で、この年が敗戦から50年にあたるとしながら、「1995年とは、それ以前に起こっていた日本社会の変化を強く認識する機会となった転機の年なのである」として注視し検討している。読み直してみたら、なかなかおもしろい。

おれは1943年生まれだから、わずかだけど戦後の記憶があり、高度経済成長期にガキから成長し就職し結婚し70年を迎え、70年代からはマーケティングといういやでも「時代の変化」の現場にいて大波小波を生き、95年に至った。

ということを考えているうちに、いま取り掛かっている本のこともあり、自分の体験を整理する意味でも、ほかに戦後を25年単位で区分する考え方はないものか探してみたら、あったのだ。

なんと、なんと、これが、なかなかおもしろい。

橋本務(『ロスト近代』弘文堂2012などの著者)は、45-60年代を「近代」、70年代ー1995年を「ポスト近代」、96年以降を「ロスト近代」と区分している。

橋本務は、大澤真幸が『不可能の時代』(岩波新書2008年)で論じた時代区分にふれている。それは、45-60年代後半を「理想の時代」、70年代前半から90年代中頃を「虚構の時代」、90年代中頃からを「不可能性の時代」と名付けているという。「理想の時代」や「虚構の時代」は、見田宗介が『社会学入門』(岩波新書2006年)で述べていて、それを下敷きにバージョンアップしたものとのことだが、大澤と見田の時代区分は少し違う。とにかく、橋本は大澤と見田の先行理論を参考にしている。

ってことで、「近代」「ポスト近代」「ロスト近代」に、先にあげた米飯主食体制確立から完全崩壊や、ほかの「食」の動きをからめて考えていると、病気を忘れそうなほどコーフンしてくるのであります。

たとえば、近年の「(スパイス)カレー」や「発酵」のブームなどは、ロスト近代の視点からみると、単なる「カレー」や「発酵」ではなくなる。といったぐあいで。あるいは、米を基軸にみると、「近代」は「米食あこがれの時代」、「ポスト近代」は「ポスト米食」、「ロスト近代」は「ロスト米食」と置き換えることができそうだ。

橋本は、「もう、消費社会は終わったのではないか。そう考えた時、この時代状況を表わすものとして、私は「ロスト近代」と言う言葉で呼ぶのが適当ではないかと思ったのです」と述べている。

いま世界の資本主義は、新型コロナウイルスでゆれまくっている。「ロスト近代」は、どうなるのだ。いま、これからこそが、「ロスト近代」なのかもしれない。

コーフンが連鎖し止まらない。これは、癌にいいのか悪いのか。いいにちがいない。

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2020/06/19

癌治療三回目。

16日火曜日は、4週おきの治療通院日だった。

4週間前は、いわゆる「緊急事態宣言」の最中だったが、5月30日に「解除(白紙)」になった。ガラガラだった電車も7割ぐらいはもどった感じだ。そういえば、通院のとき以外は、電車に乗ってないし、東大宮から出てない。3月ぐらいから、そうだろう。もう東京へなんか行く気もしないね。

前回5月19日火曜日の治療のあと、25日月曜日に、歯科口腔外科で検査を受けるため病院へ行った。これは、前回の血液検査の結果、転移の可能性を示す数値が見られたためだ。

その抑制に効果のある注射を追加したいのだが、虫歯があったり顎の骨に傷があったりすると「口腔崩壊」を起こすからと、なにやらおそろしそうなことをいわれ、この検査になった。

歯科口腔外科の予約は10時だったが、9時に来てレントゲンを撮るようにいわれていたので、そのようにした。

すでにナマの歯は下前歯が5本残っているだけで入れ歯であり、その入れ歯も壊れて部分的に残っているだけの状態だ。というわけで、入れ歯を完全にしておかないと、噛み合わせが悪く顎の骨に傷がつく可能性があるといわれたが、検査の結論としては、注射をするに差支えはないとのこと。

16日は10時半の予約だったが、診察の前に検査のための採尿採血があるから9時半頃着いた。朝から汗をかくほど暑かった。

診察は、尿と血液の検査の結果を見ながら、主治医とおしゃべりするのだ。今回は、癌の数値は、前回よりさらに下がり基準値以内のゼロに近い低レベルだった。

が、主治医は、肝機能に障害が出ているという。それは前回も基準値をけっこう上回っていたし、だから飲酒のほうは控えるようにということだった。

おれが「前回も数値高かったですよね」というと、主治医は「これですよ」とプリントアウトされた数値の表を見せて、肝臓機能に関する数値のところをシャープペンで印をつける。

げげげげっ、その数値にはびっくりした。ガンマー値だけでも1400越え(基準値の上が60ぐらい)。ほかも基準値の8倍ぐらい。なんという数値だ。

おれは45歳のとき、急性肝炎で救急車で運ばれ、ただちに検査されたのだが、そのときの「劇症」並の数値を上回っているのだ。

しかし、あのときは、背中は痛むし、立ち上がることができず救急隊のひとに両脇から担がれたほどだったし、そうそう、吐き気もした。そういう症状は、まったくない。

そういえば、いつからか太もものへんに湿疹のようなものが出たり、1週間ほど前から胃がもたれたり、空腹時には痛んだりした。そのことを主治医にいう。

服用している癌対処か患部の痛み止めの副作用にちがいないから、とりあえず、その薬は全部やめて、予定していた転移を抑える注射の追加もやめて、肝臓の薬だけで様子を見ましょう。

2週間後の30日に再検査ということになった。

癌対処の薬が使えないことになると困ったことになる、らしい。主治医は、想定外の結果に、ややとまどっている感じだった。

おれは、とりあえず、癌の数値が、これ以上下がりようがないほど下がっていたので、気分よく、注射の処置室へ向かった。

自分で血圧と脈拍を測り、紙に記入し、注射手帖と一緒に受付に出す。手帳は、腹部の図の、注射したところに印をつけるようになっている。初回は、左右下腹計2か所、前回は、右上腹だった。今回は左上腹だ。右上腹には、まだ前回のしこりがわずかに残っていた。約1分かけて80㏄を皮下にうつ。

会計をすまし、病院に隣接する薬局で処方箋を出し、薬をもらう。肝臓の薬と、注射の副作用を抑える3日3回分の薬だけで、癌対処はなし。

その後、今日まで、肝臓の薬は、とてもよく効いているようだ。太ももの湿疹のようなものはなくなり、胃も正常化している。

薬について調べたら、どうやら、癌対処薬ではなく、患部の痛み止めに飲んでいた薬が原因のようだ。これはもとは解熱剤として使われるもので、だいたい解熱や痛み止めなどは長期に連続服用するものじゃないもんなあ。そのあたりのこと、30日の診察のときに話してみよう。ま、すでに主治医もわかっているだろうけど。おしゃべりしながらすすむ、というのが大事なんだな。

治療が始まって28日×2が過ぎた。こうして、完治のないステージ4は、ぐずぐずデレデレ生きているのだが、もともと直線的な生き方は苦手のほうだったから、白黒つかずクネクネ曲がりくねったテキトーな生活は性に合っているようだ。

2020/05/22
癌治療二回目。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/05/post-96aa24.html

 

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2020/06/13

突然、つるやももこさんの訃報。

何度か書きかけては、書ききれないまま中断して一週間がすぎた。書こうとすると、喪失感が先に立つのだ。こんなことはめったにない。めったあったらたまらんが。とにかく今日は書いてしまおう。

先週5日金曜日、二人の知人から相次いで電話があった。つるやももこさんが前日の4日に亡くなったというのだ。

あまりに突然すぎて、信じられなかった。

たいがい、よほど親しくしているか、仕事などで絶えず連絡をかわしているのでもないかぎり、訃報は突然のことになるのだけど、どう考えても、彼女は若いし、いつあっても「健康」という言葉より「すこやか」という表現がぴったりなほど、はつらつとしていた。いつも「青春はつらつ」だなあと思っていた。病気も死も、ありえない感じだった。

知らせでは、癌だったと。

訃報を受けたときの混乱で、2月に癌がみつかったのか、入院したのか、同時だったのか、どう聞いたか覚えがないのだが、とにかく、短いあいだのことだったようだ。

彼女が編集委員をやっていた、北九州市の『雲のうえ』32号(最新号「すし特集」)は、2月28日の発行で、編集に彼女の名があるし、文も2本書いている。

これが、『雲のうえ』での最後の仕事になったにちがいない。

ももちゃんとよんでいた。

ももちゃんと初めてあったのはいつだったか思い出せない。東日本大震災の前だったと思うから、10年にはなる。最初にあったときは、『雲のうえ』編集委員をやっていた大谷道子さんが体調悪く交代したという紹介だったと思う。(大谷さんは、おれが『雲のうえ』5号「食堂特集」で文を担当したときの編集委員だった)

それから何度かあう機会があり、話しているうちに、ももちゃんの実家は、おれがいまの東大宮に引っ越す前に住んでいた北浦和の、おれが毎日のように通っていた道の途中だということがわかり、北浦和ネタで盛り上がった。こんど北浦和で飲もう、ということになったりした。

2014年5月16日と17日、八ヶ岳山麓の廃校「津金学校」で開催された「すみれ洋裁店・小口緑子の美術展」へ、ミニ古墳部活動もかねて須曽さんたちと行った。宿泊は古民家で自炊だった、それも含め思い切り楽しんだ。天気もよく、たくさん歩いた。思いがけずたくさん歩くことになったのだが、ももちゃんだけはトートバックで、ときどき肩をかけかえるたびに、みんなに「大丈夫?」といわれ「大丈夫、大丈夫」と返していた。

『雲のうえ』22号は「うどん特集」で、文は、姜尚美さんとおれが担当し、ももちゃんは編集委員だし文も書いている。2015年の発行だが、取材は前年の10月末だった。一緒に仕事をしたのは、これだけだった。『雲のうえ』の編集は、なかなか面倒が多い編集であり、仕事ぶりは大谷さんのぬかりのない緻密さに比べ、ももちゃんはチョイとハズすところがあって、それが愛嬌でもあった。ともあれ、牧野伊三夫さんと有山達也さんに、扇の要のような存在として大谷さんのあとはももちゃんがいた。

北浦和で飲んだときは、おれが知っている酒場を2軒はしごした。街を歩きながら、画材店の前で、「ここは高校生の頃よく寄った」といった。彼女は「美術系」で、大学もそうだった。ブラボー川上さんがやっていた、昭和サブカル倉庫のような酒場「狸穴」を気に入って、また行きたいといった。

そのときも、フラの道具をトートバッグに入れて肩に担いでいたし、ほかのときにもそういうことがあった。フラダンスを、かなり熱心にやっていたようだ。

ももちゃんの「パートナー」は、年齢のひらきが、おれと相方のひらきと同じぐらいなので、年の離れた夫婦ってどんなんか、という話をしていた。

その後、かつておれが住んでいた近くに一軒家をみつけ、結婚し引っ越すことにしたというメールがあった。メールの文もはずんで、楽しみにしているようだった。

しばらくして、「パートナーが体調悪くして入院」で引っ越しは延期になったというメールがあった。だけど、心配ない治ったら、とあった。おれは、ちょっと先に延びただけかと思っていた。

そのまましばらくメールもあうこともなく、年末の牧野さんの個展の会場であったから、どうした引っ越したのと聞いたら、「死んじゃったの」と目から涙があふれそうになった。

おれはウロタエアワテテ話をそらした。その時のことが忘れられない。話をそらさず、落ち着いて聞く態度がとれなかった。訃報を聞いて、まず、そのときのこと、そのときのももちゃんの表情を思い出した。

お通夜と葬儀は近親の方で行われたそうだ。

須曽さんから、瀬尾さん宅に集まってお通夜のようなことをしたというメールがあり、「これはかわいくて見せたくて送ります」と、八ヶ岳山麓へ行ったときのももちゃんの写真が添付されていた。

お通夜の写真も送られてきた。

いつあっても、かわいい、青春はつらつという感じのももちゃんがいた。

知らなかったことだが、4月にももちゃんの本が刊行されていた。『BODY JOURNEY 手あての人とセルフケア』(アノニマ・スタジオ)だ。まだ買ってないのだが、書影の帯に、「すこやかに生きるってなんだろう?」とある。

ももちゃんは、すこやかに生きることを求め、すこやかに生きた。すこやかそのものだった。少なくとも、おれの知っているももちゃんは。野心も表裏かけひきもない人だったから、いつでもどこでもそうだったと思う。

人間生まれたら死ぬ。人生は長さじゃない。いい生き方だったと思うよ、ももちゃん。

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2020/06/05

再掲載 食の本つまみぐい。

一昨年だったかな?ザ大衆食のサイトのURLが変わったので、当ブログにはっていたリンクが切れてしまった。困ったことだ。
全部をはりかえるのも面倒なので、自分が必要になったものから再掲載してリンクを貼り直すことにした。ってことで、今日はこれ。文章もそのまま。

2015/05/24 食の本つまみぐい。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2015/05/post-9813.html

すっかり忘れていたが、以前、書評のメルマガに「食の本つまみぐい」というのを連載していた。ここのところ、2度ばかり続けて、そのことが話題になる機会があって、おお、そーいえば、と思い出した。

『大衆めし 激動の戦後史』と、この連載をあわせて読むと、ますますおもしろい、とも言われた。『大衆めし 激動の戦後史』を、ボロボロになるほど読んでくださったうえ、そのように言われると、恥ずかしながらライターをしているおれとしては、とてもうれしい。

しかし、『大衆めし 激動の戦後史』を書いているときは、「食の本つまみぐい」のことなど、完全に忘れていた。忘却の彼方。光陰矢のごとし、忘却矢のごとし。

そういうわけで、久しぶりに、ザ大衆食のサイトに全文掲載してあるそれを読んでみた。
http://entetsu.c.ooco.jp/hon/syokubunkahon.htm

03年8月のvol.128から09年12月のvol.436まで隔月の連載で、全35回。

1回目が江原恵の『庖丁文化論』、最終回が玉村豊男『料理の四面体』だ。まさに、『大衆めし 激動の戦後史』の重要な部分を占めている2冊。

最終回では、このように書いている。「この連載は、これが最後。連載を始めるときに、最初は江原恵さんの『庖丁文化論』で、最後は本書で締めくくろうと決めていた。日本の料理の歴史のなかで、もちろん万全ではないが、「画期的」といえるのは、この2冊だろうと思う。」

当時は、書評なんぞ書くのは初めてだから、どうやって書くべきものやらわからないまま書いている。出来不出来はあるが、いま読んでもおもしろく、タメになる。食、とくに料理の本質について考えるによい。

ま、大勢はあいかわらず、食というとグルメや外食を中心に食風俗に関心が傾斜していて、料理の本質なんぞに関心のある人は少ないと思うが、料理そのものを中心に「まちづくり」にまでふれ、料理をめぐるコンニチ的な事柄を広く見渡している。

食と料理を、表層ではなく、突き詰めて考えてみたい人には、読んでもらうとよいかも。

 

 

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2020/06/02

きのうのつづき。「台所」と「科学」と「芸術」。

きのうの「食べたいから作る」や「自分にあった味を求める。その味覚をさらに磨く」について、このブログの右上にある「オコトバ」にふれるのを忘れてしまった。

「ほんとうの料理文化とは、ガイドブック片手に食べ歩くことではなくて、美味しいものを食べたいという欲求を、自分の生活の中に血肉化し、思想化することだ」…江原恵『生活のなかの料理学』(百人社82年2月)

「血肉化」や「思想化」と、メンドウそうだけど、「食べたいから作る」や「自分にあった味を求める。その味覚をさらに磨く」ことでもあると思う。

きのうの藤原辰史『ナチスのキッチン 「食べること」の環境史』では、「「料理すること」と「食べること」は、それがたとえ毎日繰り返されるものであっても芸術と呼ぶに値する美的行為である」とも述べていて、これも同様の文脈とみてよいと思うけど、「芸術と呼ぶに値する美的行為」という表現に、おれのような雑な人間は恐れをなし、引いてしまいそうになる。

だけど、ふみとどまって考えてみると、その前に書かれた、フランツ・カフカの「断食芸人 Hungerkünstler」について、その作品は、「「飢え Hunger」を「芸術 Künstler」として生計を立てる男を描いた小説である」とした文脈と関係があると読める。

断食芸人は死ぬ間際に「監督の耳元で、唇を尖らせながらこうささやいている。「自分の口にあう食べものを見つけられなかったからだよ」」

そのように「断食芸人は、世界の「食べること」と「食べもの」の美学的な劣化を告発したあと」廃棄される。

江原恵には『台所の美味学』(朝日新聞社1983年)という著書がある。「美味学」という言葉を使っているが、彼は当時、自分が提唱する「生活料理」を「学」にしようという意欲が満ちていて、先の「生活のなかの料理学」もそうだが、かまえてメンドウにするクセがあった。江原のばあいは、当時の権威ぶった料理人やガイドブック片手に食べ歩く通ぶった人たち(のちの「グルメ」など)から料理を生活に取り戻そうという考えが、こういう表現になっている。平たくいえば「自分にあった味」が基本なのだ。

藤原辰史は「断食芸人」の話で、「毎日の食事に潜む美も、日々飢え死にする子どもたちをも忘却の彼方に押し込むことで、ようやくこの世界は、愉快そうにかつ楽しそうにみえる」と、「美」という言葉を使っている。

日常の食べることに関わる「芸術」であり「美」なのだ。

一方に「自己集団中心主義から見た「文化」」がある。これは、きのうの西江雅之『食べる 増補新版』に書かれていることだが、「文化」を「芸術」に置き換えて読むことができる。

西江雅之は、そのことについて「これは現在の日本のほとんどすべての人びとの頭にこびりついている意味での文化です」「そこでは、特定の時代(すなわち現在)、地球上の特定の地域(すなわち日本)、特定の人びと(すなわち日本の人びと)にとって「憧れの対象」になるものが文化であるとされるのです」と述べている。

「文化」「芸術」あるある。よく見かける「文化」や「芸術」のことだ。西江雅之は、こういうのとは違う考えだ。

ところで、『ナチスのキッチン』の「「食べること」の救出に向けて」では、「芸術」ばかりでなく「科学」に対する考えや態度も問われる。ナチズムで歪んだ「科学」と「台所」には、いまあげたような「芸術」が処方箋になるとも読める。

ナチズムというと、とかく独裁の政治手法や戦争と残虐行為ばかりが注目されがちで、おれもそちら方面の知識ばかりだったが、この本は、近代の実践的科学の代表格ともいえるテーラー主義(テーラー・システム)が、ナチスの時代に、どう「純化」あるいは「究極的」に発展をとげ、そして歪んだかを、台所を通して見ている。そこには栄養学や家政学もある。

「科学」を追求し歪めたナチズム、その台所は、テーラー主義をもって現代の台所と地続きであることを描いている。たとえば、DKのキッチンユニットや、わが家にも装備されているシステム・キッチンなど。あるいは「体にいいから食べる」といったことや味覚の均一化など。

テーラー主義は、日本では「科学的管理法」として戦前から経営の分野で紹介されてきたが、比較的な大きなメーカーでの導入が先行し、日本の全企業全団体がといってよいほど、真剣に取り組むようになったのは、おれの体験では1970年前後からではないかと思っている。

おれが1971年にマーケティングの仕事の就いたころから、とくにオイルショックで高度経済成長の終わりを経てますます、「科学的管理法」は絶賛普及していった。

ってことなんだが、今日はもう書くのが面倒になったので、「科学」と「台所」については、またの機会にしよう。

東電原発事故から最近のコロナ禍まで、なにかと「科学」や「科学的」が話題になるし、「エビデンス」なんていう言葉も盛んに使われるようになったが、正しく便利のようでいてアブナイ面をたくさん抱えている。「文化」や「芸術」もだけど。なにしろ、どのみち、人間のやることだからね。だからまた、科学や文化や芸術などについて、ちゃんと学び続けなくてはならないわけだ。

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2020/06/01

「言葉」と「気分」と「台所」。

藤原辰史『ナチスのキッチン 「食べること」の環境史』(共和国2016年7月)、終章「来るべき台所のために」には、「食べたいから作る、ということは、少なくとも、未来の台所にとっての基本方針であると私は考える」とある。

続いて、「それほどまでに、食べものは、食品産業と栄養学と家政学によって、選ばされているからである」いう。「選ばされている」には傍点がついている。

さらに、「「食べること」の救出に向けて」のタイトルがついている「あとがき」では、「近代キッチンの五里霧中状態、「食べること」の凋衰(ちょうすい)」を指摘し、「では、どうして、「食べること」はここまで衰微してしまったのだろうか」ということについて、述べている。

この本は本文だけでも448ぺージもあって、モノサシをあてて測ってみたいほど厚いし、内容は濃く、噛んでもかんでも食べごたえが減らない食べ物みたいだ。その終章とあとがきにあることだから、この本を読み切らなくては、いまあげた部分については、わからないかもしれない。

そこのところを、あえて簡単にまとめてみよう。

いまおれたちの「食べること」は、ナチスの時代を通じて究極の機能主義に高められた、「人間のなかに台所を埋め込むこと」と「台所のなかに人間を埋めこむこと」の陥穽にはまっている、それではどうしたらよいか、ってことなのだ。と、おれは読んでいる。

栄養学は「人間のなかに台所を埋め込むこと」に多大な貢献をし、家政学は「台所のなかに人間を埋めこむこと」に多大な貢献をし、食品産業が、それらと支えあう構造を担ってきた。そこから抜け出せるのか。

だけど、日本の大半の人びとは、どうだろう。

だいだい、「食べること」は、そんなに衰微しているのか、こんなに「豊かに」食べ物があって、食べることを楽しむ話題がごまんとあって、盛んに飲み食いしているのに。

だいたい、選ばされてなんかいない、自分たちは「選んでいる」。

そんなふうに思うんじゃないだろうか。

ことしの7月で、拙著『大衆食堂の研究』が出版されてから25年になる。その本では、こういう人びとに「生簀文化論」をあて、「てめえの胃袋は食品会社の端末機か」と吐いた。1995年のことだ。

いま、ちょいと、これらのことに関連することを、備忘の意味で、メモしておきたい。詳しくは、こんど出す予定の本で述べるつもりだが、身体のこともあり「予定」はどうなるかわからない。

前回のエントリー「画家のノート『四月と十月』42号、「理解フノー」連載23回目「気分」。」の続きになる。前回は、邱永漢の『食は広州に在り』から「文学と食い物にはなにか一脈通ずるものがあるとみえて、日本では双方とも「気分」で味わう傾向が強いようである」を引用した。こんどは、いまのことだ。

西江雅之『食べる 増補新版』(青土社2013年9月)は、「「ことば」を食べる時代」について述べている。

「ここ二、三〇年を見ると、食べ物をめぐる事態はすっかり変わりました」という。つまり「栄養主義の時代から、飽食の時代に移り変わり、いまや、亡食の時代に入り込んでしまっていると言う人びともいます」と述べている。「亡食の時代」というのは、あまりよい表現とは思わないし、著者の言葉ではないのだが、藤原辰史の「凋衰」に通じるところはある。

ようするに、「ことば」に躍らされて、「自分にあった味を求める。その味覚をさらに磨く。現実には、こうした考えは非常に弱まっています」ということなのだ。「多くの人びとは「食べ物」そのものではなくて、「食べ物」を包んでいる「ことば」を食べているとさえ言えるでしょう」

おれのようなライターは、そのように「食べ物」を「ことば」で包む仕事で糊口をしのいでいるわけだが(おれのばあい糊口をしのげるほどの仕事はしてないけどね)、もっと大々的にマスメディアを舞台に、そういうことをしている広告の著名なコピーライターの指摘が刺激的だ。

谷山雅計『広告コピーってこう書くんだ!読本』(宣伝会議2007年9月)は、「80年代は納得の時代、90年代以降は空気の時代」について述べている。

納得には、多少は論理つまり思考が必要だが、空気を動かす言葉や気分にはそんなものはいらない。「なんとなくそうですよね」「そういう感じなんですよね」「デスネ」「でしょ」

バッチリ、納得だ。

そして、「ことば」に包まれた「食べ物」がメディアを賑やかに飾り注目を集め、「食べること」を語る「ことば」は衰えてきた。

人びとは、自分は「選ばされている」と思う余裕もないほど、食べ物と「ことば」は洪水のようにあふれ、ツイッターやインスタグラムなども駆使し、追いまわすのに忙しい。そして選んだ「気分」になっている。それが「選んでいる」ということ。

ライターたちは、よりあまり知られてないような新しいネタや珍しいネタを、新鮮で魅力的な「ことば」に包んで提供するのに忙しい。そして選んだ「気分」になっている。それが「選んでいる」ということ。

そのように、本人が気づかないうちに、あるいは夢中になっているうちに、ジワジワと「衰微」細胞が癌のように広がってきた。ステージ4?それとも末期?

ミステリアスですねえ。

時間がないので、後半とばしてしまったが、藤原辰史さんの「「食べること」の救出に向けて」は、もっと掘り下げてみたいし、掘り下げがいがある。

「食べたいから作る、ということは、少なくとも、未来の台所にとっての基本方針である」は、「「食べること」の救出に向けて」、日々の台所で追求したいね。そうしよう。容易ではないが。

80年代以後の、ゆれまくっている資本主義をどう生きるかのことでもある。

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