きのうのつづき。「台所」と「科学」と「芸術」。
きのうの「食べたいから作る」や「自分にあった味を求める。その味覚をさらに磨く」について、このブログの右上にある「オコトバ」にふれるのを忘れてしまった。
「ほんとうの料理文化とは、ガイドブック片手に食べ歩くことではなくて、美味しいものを食べたいという欲求を、自分の生活の中に血肉化し、思想化することだ」…江原恵『生活のなかの料理学』(百人社82年2月)
「血肉化」や「思想化」と、メンドウそうだけど、「食べたいから作る」や「自分にあった味を求める。その味覚をさらに磨く」ことでもあると思う。
きのうの藤原辰史『ナチスのキッチン 「食べること」の環境史』では、「「料理すること」と「食べること」は、それがたとえ毎日繰り返されるものであっても芸術と呼ぶに値する美的行為である」とも述べていて、これも同様の文脈とみてよいと思うけど、「芸術と呼ぶに値する美的行為」という表現に、おれのような雑な人間は恐れをなし、引いてしまいそうになる。
だけど、ふみとどまって考えてみると、その前に書かれた、フランツ・カフカの「断食芸人 Hungerkünstler」について、その作品は、「「飢え Hunger」を「芸術 Künstler」として生計を立てる男を描いた小説である」とした文脈と関係があると読める。
断食芸人は死ぬ間際に「監督の耳元で、唇を尖らせながらこうささやいている。「自分の口にあう食べものを見つけられなかったからだよ」」
そのように「断食芸人は、世界の「食べること」と「食べもの」の美学的な劣化を告発したあと」廃棄される。
江原恵には『台所の美味学』(朝日新聞社1983年)という著書がある。「美味学」という言葉を使っているが、彼は当時、自分が提唱する「生活料理」を「学」にしようという意欲が満ちていて、先の「生活のなかの料理学」もそうだが、かまえてメンドウにするクセがあった。江原のばあいは、当時の権威ぶった料理人やガイドブック片手に食べ歩く通ぶった人たち(のちの「グルメ」など)から料理を生活に取り戻そうという考えが、こういう表現になっている。平たくいえば「自分にあった味」が基本なのだ。
藤原辰史は「断食芸人」の話で、「毎日の食事に潜む美も、日々飢え死にする子どもたちをも忘却の彼方に押し込むことで、ようやくこの世界は、愉快そうにかつ楽しそうにみえる」と、「美」という言葉を使っている。
日常の食べることに関わる「芸術」であり「美」なのだ。
一方に「自己集団中心主義から見た「文化」」がある。これは、きのうの西江雅之『食べる 増補新版』に書かれていることだが、「文化」を「芸術」に置き換えて読むことができる。
西江雅之は、そのことについて「これは現在の日本のほとんどすべての人びとの頭にこびりついている意味での文化です」「そこでは、特定の時代(すなわち現在)、地球上の特定の地域(すなわち日本)、特定の人びと(すなわち日本の人びと)にとって「憧れの対象」になるものが文化であるとされるのです」と述べている。
「文化」「芸術」あるある。よく見かける「文化」や「芸術」のことだ。西江雅之は、こういうのとは違う考えだ。
ところで、『ナチスのキッチン』の「「食べること」の救出に向けて」では、「芸術」ばかりでなく「科学」に対する考えや態度も問われる。ナチズムで歪んだ「科学」と「台所」には、いまあげたような「芸術」が処方箋になるとも読める。
ナチズムというと、とかく独裁の政治手法や戦争と残虐行為ばかりが注目されがちで、おれもそちら方面の知識ばかりだったが、この本は、近代の実践的科学の代表格ともいえるテーラー主義(テーラー・システム)が、ナチスの時代に、どう「純化」あるいは「究極的」に発展をとげ、そして歪んだかを、台所を通して見ている。そこには栄養学や家政学もある。
「科学」を追求し歪めたナチズム、その台所は、テーラー主義をもって現代の台所と地続きであることを描いている。たとえば、DKのキッチンユニットや、わが家にも装備されているシステム・キッチンなど。あるいは「体にいいから食べる」といったことや味覚の均一化など。
テーラー主義は、日本では「科学的管理法」として戦前から経営の分野で紹介されてきたが、比較的な大きなメーカーでの導入が先行し、日本の全企業全団体がといってよいほど、真剣に取り組むようになったのは、おれの体験では1970年前後からではないかと思っている。
おれが1971年にマーケティングの仕事の就いたころから、とくにオイルショックで高度経済成長の終わりを経てますます、「科学的管理法」は絶賛普及していった。
ってことなんだが、今日はもう書くのが面倒になったので、「科学」と「台所」については、またの機会にしよう。
東電原発事故から最近のコロナ禍まで、なにかと「科学」や「科学的」が話題になるし、「エビデンス」なんていう言葉も盛んに使われるようになったが、正しく便利のようでいてアブナイ面をたくさん抱えている。「文化」や「芸術」もだけど。なにしろ、どのみち、人間のやることだからね。だからまた、科学や文化や芸術などについて、ちゃんと学び続けなくてはならないわけだ。
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