久保明教『「家庭料理」という戦場 暮らしはデザインできるか?』(コトニ社)を読んでいる。
大宮のジュンク堂に在庫がなくて、取り寄せもできないといわれ、出版社に直接注文した。届いたのは今月の10日ごろだった。
面白いがおれにとっては難しい、というか、おれにとっては難しいのに面白い、ってわけで、ゆきつもどりつしながら、イチオウ読み終えているのだが、「読んだ」という実感がなく、まだ「読んでいる」という感じが続いている。
「たしかに、様々な要素と新たな関係をむすぶことを通じてそれらの諸関係を外側から捉える認識は生じる。だが、それは私=観察者が内在するネットワークの運動が産出する一時的な把握に他ならない。新たな関係をたどることで競合する外在的認識が浮上し、それらの齟齬が新たな要素との関係を導く」とか、「このように、本書の記述は、客観的観察や主観的経験に基づくものではなく、関係論的に構成されている」
といった文章に、おれはたびたび立ち止まって、「うーむ、いまいち、わからん」となってしまうのだった。
それでもたじろがず読み通したのは、面白いからにちがいない。
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家庭料理をめぐる諸関係の変遷をたどることによって異なる認識が共立し、それらの対立や摩擦を伴う相互作用が新たな諸関係の組み替えを喚起していく。その運動の只中において、自らの感覚や思考や営為を捉え直し、再構成してもらう踏み台となるために本書は書かれている。
では記述をはじめよう。
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と、はじまる。
ま、常識的に分類すれば「学術書」というものだろうから、おれのようなものにとっては難しいのが当然なんだが、本のタイトルに惹かれ気になっていたし、さらに知り合いの文化人類学の先生から「エンテツさんの本の言及があります」とのメールをいただいたこともあり、とにかく買ってみたのだった。
書かれていることは一九六〇年代からの「家庭料理」の変遷にはちがいないが、歴史の記述とは違う。「家庭料理」のレシピの変遷でもないし、近年よく「ジェンダー」がらみで論じられる「家庭料理」でもない。「家庭料理をめぐる諸関係の変遷をたどる」のだ。「諸関係」を見逃すな。
本文は三章にわかれていて、章ごとに「実食!小林カツ代×栗原はるみレシピ対決五番勝負」ってものがあって、著者と仲間で実際に作り食べ、コメントを述べるということをやっている。
第一章は「わがままなワンタンと/ハッシュドブラウンポテト」、第二章は「カレーライスでもいい。/ただしそれはインスタントではない」、第三章が「なぜガーリックは/にんにくではないのか?」。なかなかキャッチーな見出しに興味がそそられる。
で、読むと、たちまち「世界は私の外部にあり、私の認識の対象であり、考察を通じて介入する客体とされる」といった言い回しに直面し、おれはボーゼンとする。
「うーん」と天を仰ぎ、あれこれ考え、あ、そうかそうかそういうことかな、と、読み進む。それはまあ読書の楽しみってやつで、つまり、この本は読書の楽しみが多い。
「本書では家庭料理という構築する構築物(あるいは常にその構築性を忘却されることによって成り立つ構築物)を、とりわけ現時点におけるその動態を捉えるために三つの時期を設定する。私たちが現在イメージする家庭料理の基本的な姿が形成され、ある意味でその近代化が完成した一九六〇~七〇年代の「モダン」な家庭料理、その基本的な形態に対するポストモダニズム的懐疑が提起され改変が試みられた一九八〇~九〇年代の「ポストモダン」な家庭料理、ポストモダニズム的改変の常態化を前提として規範的な家庭料理のあり方が無効化されていく二〇〇〇~二〇一〇年代のいわば「ノンモダン」な家庭料理である。この三つの時期における家庭料理をめぐる様々な言説や実践を精査し、それらの間で生じてきた齟齬や矛盾や変容を追跡することによって、境界条件としての暮らしの変容に光をあてることが試みられる」
このあたりが、本書のキモらしい。
「境界条件としての暮らしの変容」には、「「分析する私」」と「「暮らす私」」が関係しているようだが、おれは十分な理解ができないでいる。
年代順の記述ではなく、一章は「ポストモダン」で、二章が「モダン」、三章が「ノンモダン」であるところも、キモでありミソだ。つまり、ポストモダニズム的改変の立役者、小林カツ代×栗原はるみの戦いが、「実食!」も含め、本書では大きな比重を占めている。
小林カツ代と栗原はるみのポストモダニズム的改変の違い、あるいは「静かな戦い」…。そこから見える「モダン」「ポストモダン」「ノンモダン」の「家庭料理」をめぐる「戦い」。
近代化が完成した一九六〇~七〇年代の「モダン」な「家庭料理」は、ポストモダン的解体と再構築をへて、クックパッドが象徴するような、大勢の読者が参加し矛盾をはらみながら共立する混とんとアナーキーな「ノンモダン」の「戦場」にいたる。
いや、著者は「混沌」だの「アナーキー」だのとはいってない。おれが、三章を読んで「アナーキーだなあ」と感じただけだ。おれの「アナーキー」は否定的な意味ではなく、さらなる解体の期待でもあるのだが。
おれは、なるべく「家庭料理」という言葉を使わないようにしてきた。それでも使わざるを得ないことが多かった。それほど、その「抑圧」が強かった。七〇年代からの「日本型食生活」キャンペーンで「抑圧」は頂点に達し、本書が指摘するポストモダン的解体と再構築のなかでも、「ノンモダン」を通じても、その輪郭はグチャグチャになりながら「芯」はしぶとい。2000年代には、食育基本法による「感謝」や「一汁三菜」の押しもあったし。といった「客観的観察や主観的経験」による記述については、本書が担うところではない。
著者は、「暮らしは常に変わり続ける。「家庭料理」という言葉からイメージされるものも、激しい変化のなかでつかのまの安定した像を結んでいるだけのものにすぎない」という。そうだそうだ。
そこにある不安定な関係はなくすことはできない、なくそうとすると新たな矛盾を生む。つまり「デザイン」できない、「デザイン」されざる営みなのだ。だけど、人びとは安定をのぞみ、舗装道路のような「デザイン」された道を選ぼうとする。そこにつけこむメディアや様々な言説やレシピ。
八〇年代以降は「つかのまの安定」もアヤシイとおもわれるし、おれにいわせれば「与えられた」「押しつけがましい」イメージである「家庭料理」からの解放こそ課題だ。自由で自律的な(「家庭」という言葉が不要の)料理に向かって、「生活料理」という言葉を使ってきた。「生活」あるいは「暮らし」という不安定を生きる料理。
今日の料理の条件は、明日も同じではない。暮らしは同じことの繰り返しのようだけど、例えば寝て起きた自分の身体は同じではないし、まわりの労働など人の動きも日々変わる。天候は毎日違う。つねに変化している。株価のように。
いつも不安定なのだ。だから「安定」ではなく、不安定を生きる必要で十分な料理が生き残る。それをあらかじめデザインすることはできない、「諸関係」の結果、そうなるだけなのだ。と、おれは考える。
「さて、私は明日なにを食べるのだろうか?」で本書の本文は終わる。
「家庭料理」とは、なんだ。
明日、おれはなにをどう食べるんだ。
さっぱり本の紹介になっていない。紹介を書くつもりじゃなく、書けるほど理解してないし、少し自分の頭を整理しておきたかったのだ。
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