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2020/07/07

ノンアルビールとプラシーボ効果。

主治医に酒は飲まないようにいわれたのは、ステージ4の告知と同時に初回の治療を受けた4月21日だった。

その前は、検査のための通院や入院があったけど、テキトーに飲んでいた。最後に飲んだのはいつだったか。毎日休まず休肝日なんぞあたえずに飲み続け、癌の疑いで検査になってからは、少し「自粛」していた。

酒をのんではいけないのは、ステージ4だからではなく、治療のための飲み薬の副作用の関係なのだ。実際のところ、酒を飲んでいない状態でも肝機能が低下し、そのための治療薬を飲んでいる状態だから、禁酒は正解だったのだ。

とにかく、ノンアルビールを初めて飲んだ。なかなかよいので、よく飲むようになった。

おもしろいことに、ノンアルビールには、プラシーボ効果があることに気づいた。酔った気分になれるのだ。

プシュッ、ゴクゴクッ、プハーッ、なーんてやっているうちに、酔いがまわる。

正確には、「酔った気分」なのだろうが、ビールを飲んだときと同じ酔い心地。

まさに、ノンアルビールは、「情報的飲料」の極致だ。ここまで「効く」とは、おどろいた。

これこそ、プラシーボ効果に違いない。

5月16日には、「「外出自粛」でヒマだから「ステージ4記念撮影をやろう」ってことになり、「絶望しながらノンアルコールビールを飲む」という設定で撮った。いやいや、ノンアルは「情報的飲料」の極致だから、プラシーボ効果大で効くこと、これで酔っぱらえるわけです。絶望どころか、希望ですよ。あはははは」と、ツイートし画像もアップした。(下の画像。67キロあった体重が60になった)

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そのころ、毎月送られてくる『TASCマンスリー』5月号に、「エビデンスが重要視される時代の医師の役割とは何か」という寄稿があって読んだ。書いているのは、「医療人類学者」という珍しい肩書きの磯野真穂、新進活躍中の方だ。

タイトルからすると「医師」向けのようだが、医師でなくてもおもしろい。

とくに2011年3月11日の東電原発事故以来、放射能汚染をめぐって盛んに使われながら広がり、近頃は横行しすぎといってよいぐらいの「エビデンス」だが、これで万全なのか。近年「自然療法」「民間療法」「代替療法」などの言い方をされる、ようするに「標準医療」以外の医療というと問題になる「プラシーボ効果」にふれている。

一般的に、おれがいま通院している病院で受けているような「標準医療」は、エビデンスにもとづいて行われている。そして、標準医療の側から「代替療法を批判する言葉としての「プラシーボ効果」」が存在する。そこにある矛盾から、著者はときおこす。

そして、「閉鎖系のコトバ、開放系のコトバ」について展開する。これがおもしろい。

読んでいるうちに、いまおれたちが暮らす世界は、「閉鎖系のコトバ」の世界なのか「開放系のコトバ」の世界なのか、そのゴチャゴチャについて、考えざるを得なくなる。

著者は、「エビデンスが生み出される空間は、多くの人とテクノロジーが関わって人工的に作り出された、自然を装った閉鎖系の世界」であり、「他方、私たちがじっさいに生きる世界は、それとは対照的な開放系の世界である」という。

さあ、そこだ。「近代的」「科学的」といわれる正体は何か、ということにも関係するだろう。あるいは、いま、表現には、「閉鎖系のコトバ」から「開放系のコトバ」へ導く力はあるか?とか、考えたくなる。おれたちがじっさいに生きる世界は、むしろ人工的に作り出されたものだから、開放系のコトバが必要になっているのでないか、などなど。

だけど、この話しは長くなるからカット。

「プラシーボ効果」といえば、「暗示」の効果だ。

うどん粉だって胃薬だといって飲ませれば効く、なーんていう話を聞いたことがある。仮に、そういうことがあったとしても、飲ませる側と飲む側のあいだに、「信頼」や「共感」の関係があって成り立つことではないのか。

標準医療の現場でも、医師と患者のあいだの「信頼」や「共感」によって、薬の効きぐあいが違ってくるということがあるらしい。おれはいま、主治医もおどろくぐらい薬の効きがよいのだが、それは主治医とのオシャベリ(診察する/されるではなく「オシャベリ」な関係ね)で醸成される「信頼」と「共感」が関係していないとはいえない。

少し話がズレるかもしれないが、飲食店での飲食にしても、店を選ぶときには、「イメージ」を気にする。それが、味覚も左右する例は、たくさんある。そこに「暗示」や「信頼」や「共感」が介在することは、日常的に実感できるのではないか。

たいしたことない内容のへたな文章でも、イメージのよいデザインで包むと、いい感じになったりという例もあるな。

都知事だって、エビデンスよりイメージで選ばれる。イメージで都知事を選んだ都民を非難はできないだろう。エビデンスつまり科学的根拠のある政策だけでは、「信頼」や「共感」は成立しない。

「プラシーボ効果」は、ヒトのフシギやイイカゲンと向かいあうことでもあるようだ。

ところで、おれが気になっているのは、このことだ。

酒を飲んだことがなくて、酔ったことがないひとは、ノンアルビールで酔えるのだろうか。「暗示」は、体験や情報がなくても可能なのか。

最近、ノンアルビールばかり飲んでいたら、もっと強いノンアルが飲みたくなった。ノンアルウィスキーとか。これは、どういうことだろう。

とにかく、ノンアルビールのおかげで、スーパーで酒の陳列を見ても、とくに何も感じなくなった。自分とは関係ない商品でしかない。かつて「酒飲み妖怪」といわれたおれが……。ほんと。

 

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