QOLとコロナ禍と癌。
「QOL(quality of life)」という言葉が「生活の質」や「人生の質」だということぐらいは知っていたが、使ったことはなかった。どーせ、消費社会が生んだ、消費な言葉だろうとおもっていた。
「大きな家に住むようになってQOLが上がった」「うまいものを食べて、QOL爆上げ」とか、湘南だ代官山だ青山だといった、たいがい、より「上質」な「高級(高額)」なイメージの消費に対して使われる場面が多く、クダラネエ~とおもっていた。
ところが、癌の治療にあたって、この言葉が使われた。
4月21日、それまでの検査結果にしたがって、主治医と治療法を話しあっているときに、主治医がその言葉を口にしたのだ。
一瞬、「えっ、キューオーエル?」と脳ミソが宙を泳いだが、すぐ見当がついたていどには、この言葉の記憶があった。
いくつか考えられる治療法から、患部の状態や、おれの年齢や体力の現状などから、前に書いたように「通院による注射と薬で、じっくり時間をかけてやる治療法ってことになった」のだが、その選択の基準は何かというと、当面「QOL」を低下させないで持続することなのだ。
日常生活に差支えがあるような痛みや苦しみを押さえながら、処置をほどこす。
そんな感じで、とくに明快な絶対的な基準があるわけじゃない。
どの治療法でも完治の可能性が低く、手術や放射線や抗癌剤の治療で身体をイジリ、別の苦しみを引き受けるよりは、QOLから見ても穏当な治療法、という判断だった。
なにしろ、当時は肉体的な痛みや苦しみがひどく、睡眠不足が続き精神的にヤバイ状態だったから、それから解放されるならなんでもいいという気分だったこともある。
おかげで「QOL」に関心を持つようになってわかったのは、この言葉はもともと医療と深く関わりながら発展した考えであり、根本は「人間の尊厳」「個人の尊厳」にあることだ。
「尊厳」という言葉は、最近「ALS嘱託殺人事件」で「尊厳死」だの「安楽死」だのといった言葉が飛び交っているが、けっこう解釈が難しい。
だけど、とにかく、人間が生きていく上での最高の価値観なのだと、もっと意識する必要を感じている。なにしろ、「ヒトとしてどうか」より、仕事や業界での位置や稼ぎや名声だからね、近年は。QOLも産業と消費にとりこまれそうで危うい感じだ。
殺人はもとより、差別や優劣、パワハラもセクハラも、誹謗中傷、痴漢、マウンティングなどなど、とどのつまり「人間の尊厳」や「個人の尊厳」の問題なのだ。
あらゆるさまざまな権利が、「人間の尊厳」や「個人の尊厳」を基本に成り立っている。
その割には、個別の事件や事案については、ああだこうだいうが、尊厳については、あまり話題にならない。そういう尊厳に対する希薄な意識の状態が、さまざまな事件や事案に接続している面があるとおもうのだが。
おれが通院している病院の案内には、「患者さまの権利」というのが大きく10項目あって、印刷物にもなっているし、待合室のテレビ画面に、しょっちゅうしつこいほど流れている。
その一つに「人間としての尊厳を保ち、医療が受けられる権利」ってのがある。たいがいの病院で、似たようなことを謳っているはずだ。
いま、コロナ禍が騒がれているなか、とくに緊急事態宣言以来、それが解除されても、その「禍」のほとんどは、QOLに関わることだ。
なかには、コロナ禍以前からあった、たとえば飢餓や貧困や格差や差別などQOLに関わることが、コロナ禍のなかで、ますます深刻になっている例が少なくない。
おれが住んでいる埼玉県を含めた7都府県に緊急事態宣言が出されたのは4月7日だった。ステージ4の癌告知と治療が始まったのは、いま述べたように21日で、コロナに感染すると重症化リスクが高いから十分注意するようにいわれた。コロナと癌、2つのQOL低下リスクの中、という感じなのだが、やることは割とシンプルだった。毎日規則正しく3食たべ、薬を飲む。
出かけなくてはならない仕事を断るのは痛手だったが、妻のおかげもあってQOLの低下はまぬがれている。といっても、QOLは「経済」で決まるものではないし、身体が不自由であっても、それなりのQOLが成り立つ。尊厳が守られていれば。
コロナ禍に対する対処は、国レベルから個人レベルまで、どうだろうか、尊厳やQOLを基本に考えられているだろうか。
大きな話より、個々人の暮らしのレベルで、コロナ禍のなかのQOLはどうなのか、最近すごく気になっている。人びとは、緊急事態宣言で家にいるあいだ、なにをどう食べていたのだろう。「日常」と「非日常」の関係は、どうだったのだろう。
先日、斎藤環さんがツイッターで、「人間には Dignity of Risk (リスクを負う尊厳)というものがある。敷衍すれば感染回避を規範として絶対化すべきではないということだ。ゼロリスクがありえなくても人は車を運転するし飛行機に乗る。同じ意味で、最大限の配慮をしつつ外出し移動し監視されずに活動することは、全ての人の権利だ」とツイートしていて、「おっ」とおもった。そこまで考えたことがなかった。
QOLは、消費による幸福のレベルではなく、尊厳が暮らしのすみずみまで広く行われることによる幸福のレベル、と考えられるとおもうけど、尊厳もQOLも難しい、と、あらためておもった。
昨日、大宮へ行って、『現代思想』8月号「コロナと暮らし」を買ってきた。いま、おれの関心のまんまのタイトルだ。
でも、どーせ、おれのような学識のないもには、難しい内容なんだろうなとおもいながら、でも、いま「コロナと暮らし」を考えないでどうする、『現代思想』ごときから逃げるな、という気持もあり、それに、なにより、最近読んでブログに書いたばかりの『「家庭料理」という戦場 暮らしはデザインできるか?』の著者、久保明教さんと猪瀬浩平さんの「往復書簡」が載っているとあっては、読まずにいられない、欲しくなる。
往復書簡のタイトルは「忘却することの痕跡 コロナ時代を記述する人類学」だ。うーん、これは手ごわいタイトルだとおもいながら読み始めた。
ところが、最初の猪瀬さんの書簡が、『100日後に死ぬワニ』の話から入って、「他人事」のこと、自分が体調不良のなかで感じた不安、猪瀬さんの周囲の緊急事態宣言を理解できない知的障害がある人のことなど、そうか、そうだ、そんなことがあったのか、久保さんの返信には、「「普通」と「そうでないもの」」のあいだのことなど、ちょいとややこしい言い回しにかえって刺激され、誘いこまれるように読んでいる。
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