「健康的」なSNS作法と「食事の楽しみ」。
2020/08/16「食べることを食のマウンティングから切り離したい」
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/08/post-6449ca.html
に書いたように、図書館から借りた津村記久子『ポースケ』(中央公論新社)を読んでいる。9編の連作のうち6編まで読んだところだ。
『ポストライムの舟』に登場する、ヨシカさんこと畑中芳夏さんの店『食事・喫茶 ハタナカ』を結節点に、客と従業員その家族の生活や労働や、作者が得意とする「隙間」が巧みに描かれる。
『ポストライムの舟』の主人公で、『ハタナカ』のパートをしていたナガセこと長瀬由紀子も常連客として顔を出すし、『ポストライムの舟』では家出をし離婚した梶谷りつ子の娘で幼稚園児だった恵奈は小学校5年生になっていて、一篇を担っている。
6編目の「亜矢子を助けたい」は、『ハタナカ』のパートの「とき子」さんと家族の話しだ。十喜子は、夫と就職したがつまづいて家で何もしないで過ごしている息子と、就活中の亜矢子と住んでいる。もう一人の息子は、東京で結婚している。
就活がうまくいかないで苦労している亜矢子は顔つきまで変わってしまった。十喜子は、その苛立ちを感じながら、なんとか「助けたい」と思っている。「助けたくてたまらない」、「なんか私にできることがあったら、言いや」と声をかける。だけど、家の外が舞台の子供の独り立ちは、助けてあげられることがそんなにないし、亜矢子がしているような就職活動はやったことがないから、悩みの詳細もわからない。
行き詰まり感が漂うある日、亜矢子が「手伝ってもらえること、あるわ」という。
母は亜矢子にメールで、短い文章を送る、写真も一緒に送ることもある。それが「手伝い」なのだ。
亜矢子の頼みは、SNSのアカウントを作りたいのだが、中の記事を書く気力がまったくないので、それを作ってくれ、ということだった。
亜矢子は、別れた彼氏に「おまえはSNSに対してまめじゃないから、なんていうか前向きそうじゃなくて損をしててバカ」といわれたことがある。そんなこともあって別れたのだが。
就活しているうちに、会社の採用担当の人は、SNSをチェックしているという話を聞いたり、面接では「何もしてないんだな?」と怪訝そうに言われたこともあり、亜矢子は「念のため」SNSをやることにした。
十喜子がメールで送った文や写真を、亜矢子は、そのままか最後に一言添えてアップする。
その文章の草案づくりには、ナガセも興味を持って加わるのだが、亜矢子が十喜子に「とうとうと説明した」文案をつくる「原則」というのがある。
「内容は、明るい、健康的な内容で、ばかには見えないものが望ましい」
十喜子は、そんな小細工について考えるより、目に隈ができている顔をなんとかしたほうがよいと思いながら手伝う。十喜子の草案に、ナガセは、もっと受けをよくする「姑息な一言が欲しいな」とアドバイスをする。
このあたりは、SNSがアタリマエのようになっている現代の批評として読むと、なかなか面白い。
実際、ツイッターやフェイスブックなどのSNSでは、「明るい、健康的な内容で、ばかには見えないもの」というセンで、小細工や姑息な一言を上手にこなす人たちが、幅を利かせている。「ばかには見えない」どころか「利口に見える」よう、ガンバっている人たちもいる。
この「明るい、健康的な内容で、ばかには見えないもの」については、きのう書いた「健康」のように、いろいろなテーマや切り口があるのだが、とにかく上手な人たちがいる。「賢い」「利口」が「小賢しい」「小利口」に見えることも少なくない。
ネタと小細工と姑息な一言。
十喜子たちのネタは、食事や料理や十喜子が大量に録画しておいては好んで見ているドラマだ。
読みながら、食べる楽しみや料理の楽しみなどは、SNS以後、大きく変わったなと、あらためて思う。
実際に作る食べるから、SNSに載せる、その反応を見るまでが、「楽しみ」に含まれるようになったのだ。
「事実」としてあることより、むしろ「インスタ映え」「ツイッター映え」のほうが目的化していることも少なくないようだが、旅行にしても、SNSに載せる、その反応を楽しむまでが、旅行の楽しみになっているのは確かのようだ。
いろいろなことが、そのように動いていることに、あらためて驚きと、少し怖さを感じる。
スマートフォンやパソコンによって、SNSが脳の一部に装着されてしまった怖さというか。
そのために食べる楽しみや料理の楽しみや、ほかのいろいろな楽しみや認知が歪んでいるかもしれないことが、さらに気づかれずに普通になっていく「不健康」というか。
「明るい、健康的で、ばかに見えない」ことが、とても「暗く、不健康で、愚かに見える」実態につながっているような。だけど、「いいね!」によって、「成功」や「正しさ」が保証される。
とても、ミステリアスだ。
ところで、亜矢子だが、少し変化が生まれる。SNSにも自分で記事を書くことが増えた。それを見て十喜子は、亜矢子の靴のサイズを知る。
十喜子のほかの家族にも、少し変化が生まれる。それが、つぎの新たな苦悩につながるかもしれない、苦悩からの脱出。一難去ってまた一難で心配事が絶えないことも。
娘や息子をどこかの会社に押し込んだり、自分の会社で抱えたりできるような力はない、ま、ようするに普通の人である十喜子は思う。
「まずは更に進んだ事実が大事だと思った。そういう一喜一憂を延々を繰り返すことこそが、十喜子にとっては日々を暮らすということだった」
「むしろ人生は一喜一憂しかない」「我々しもじもの者は、一つ一つ通過して、傷ついて、片づけていくしかないのだ。そうする以外できないのだ」
あきらめのようだけど、津村記久子の作品には、そういう暮らしや人生に対する励ましや共感、力強い肯定を感じる。
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