『ポースケ』 藤原辰史「縁食論」の場合。
ネット検索していたら、このブログでここ2日ほど続けて触れている津村記久子『ポースケ』について、藤原辰史さんの評を見つけた。
藤原辰史さんは、ミシマ社の「みんなのミシマガジン」で「縁食論」ってのを書いていて、その1回目が「飲みこまされる言葉と飲みこめる食べもの――『ポースケ』に寄せて」なのだ。今年の1月16日から前編、後編に分けて掲載されている。
https://www.mishimaga.com/books/en-shoku/001889.html
「津村記久子の『ポースケ』(2013年)という小説は、人間が主役ではない、と思った。主役はきっと小説の舞台、つまり、奈良の商店街のカフェ「食事・喫茶 ハタナカ」ではないか、というのが私の読後感である」と始まる。
「この小説の語り手がそれぞれの個性際立つ人間を描きながらも、それと同じぐらい細やかに表現しているのが、このカフェのふところの深さである」
「ふところが深いカフェ、というのはちょっと変な言い方かもしれないが、この作品にはあっているような気がする。社会に適応しづらい人間たちの存在を認めて、居させるそのふところの深さ、という感じだろうか。とにかく、食べるものではなく、食べる場所、もっといえば、その場所をめぐる人間たちの浅かったり深かったりする交流や接触が描かれている。このこと自体、子ども食堂が多くの子どもや大人の居場所を提供している昨今、興味がそそられる。そうした背景から、わたしは、『ポースケ』について一度じっくり取り組んでみたい、と前から思っていたのだった」
後編の最後で、こうまとめている。
「永続を目的とする人間集団は、それがいきすぎると生贄なり、排除される人間が必要となるが、ヨシカのカフェは、包摂と排除を意識しなくてもよい。カフェの原理は、無理に飲み込ませないこと。自然に飲み込んでもらうこと。自分が属する人間集団に無理やり何かを飲み込まされつづけている人びとが、じっくりと、やんわりと飲みものばかりでなく食べものまでも飲み込むことができる場所なのである。そして、食べものの嚥下に慣れたその喉に、たまたま飲み込みやすい言葉が通るアヴェレージが結構高い場所こそが、「食事・喫茶 ハタナカ」であり、縁食の場所なのだ。おそらく、そんなおいしい言葉しか、品定めの視線に網羅された社会を変えることはできない」
この指摘に、うなった。
ってことだけ、今日は書いておきたかったのだ。
「品定めの視線に網羅された社会を変える」には、という視点で、もう一度『ポースケ』を読み直してみよう。
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