マリリン・モンローと大衆。
マリリン・モンローがこのようなことをいっていたとは、知らなかった。
”
私は自分が世界中の大衆のものであることを知っていた
それは私が才能や美貌に恵まれているからではない
大衆以外のどんなものにも どんな人にも属したことがなかったから
”
YouTubeで、NHKスペシャル 映像の世紀プレミアム第3集「世界を変えた女たち」を見ていたら、マリリン・モンローが映り、テロップでこの言葉が流れた。
1952年2月、結婚したモンローとジョー・ディマジオは、新婚旅行で日本に来た。滞在中モンローは単独で、朝鮮戦争の中の米軍兵士を慰問し、日本の基地だけではなく、朝鮮半島の前線まで行き歌う。
肩を出して薄い衣をまとって歌うモンローの吐く息は白く、雪も降っている。兵士たちは防寒のジャンパーだ。モンローは風邪を引くが、日程をこなす。
といった映像とナレーショーンのあと、モンローのスナップの画像と共に、この言葉がテロップとナレーションで流れる。
いつ語ったのかはわからないし、生の音声はないから、英語のどの言葉が「大衆」と訳されたかはわからない。
何か活字になっているものからの引用の可能性もある。
最初の2行は、モンローだからこそいえることことだ。
「大衆以外のどんなものにも どんな人にも属したことがなかった」
これは事実なのだろうし、モンローでなくてもいえることだ。
おれだって、そうだ。
だけど、とくに日本の場合は(ほかの国のことはあまり知らない)、「知的」あるいは「創造的」といわれる職業に就いている人たちは、自分は大衆とは違うという意識の人がけっこういるようだし、「大衆」という言葉は、ある種の「階級的」な「感性」によって忌避されることも、少なからずある。ま、もっとはっきりいえば、大衆を見下す人たちが、けっこういる。いわゆる「リベラル」にも「左翼」にも。
いつも大衆の一人で、大衆の視座から述べているおれは、そういう意識の高い文化的な仕事に就いている労働者に、笑われたこともある。
労働者でも、大衆に属しているとは思いたくない/思われたくない人たちがいる。けっこういる。
70年代後半ぐらいから、「市民」という言葉が広く使われるようになり、「大衆」という言葉が使われるときは「消費」という言葉と抱き合わせのことが増えた。
もっといえば、「消費者化した大衆」を「市民」とよぶようになったし、そういう「市民」のほうが「新しく」「かっこいい」ってことになり、一時は、「大衆」は消えたことにされた。
そして、社会に対するいろいろな認知がゆがんでいったし、分断の亀裂は、あちこちで広がり深まっていった。
やっぱり、「大衆」は、バラバラにされ、消されるのか。
話しが、少しそれた。
モンローにとっては、「大衆以外のどんなものにも どんな人にも属したことがなかった」は、アイデンティティだったのだな、と、このテロップを見て思った。
モンローは、第一次世界大戦を境に大衆が全世界的にクッキリ姿をあらわし勢いをつけていく、1926年に生まれた。
モンローのことは、2,3本映画を見たぐらいで、何も知らない。とくに固定したイメージもない。モンローよりブリジッド・バルドーが好みだったし。
「世界を変えた女たち」には、ヘレン・ケラーも登場する。おなじみの「社会福祉活動家」や「慈善家」ではなく、婦人参政権運動の熱心な活動家として。
まったく知らないことだった。
大衆についても、誤ったイメージが広がったままだと思う。これ、「風評被害」じゃないの。
2016/12/15
「大衆」は葬り去られなかった。日本経済新聞の記事を読む。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2016/12/post-d17d.html
| 固定リンク | 0