『にあんちゃん』の頃。
文句なしの「小春日和」。ガラス窓越しの穏やかな陽にあたりながら寝転がり、手の届くところにあった関川夏央『砂のように眠る むかし「戦後」という時代があった』(新潮文庫97年)をパラッとめくり、「『にあんちゃん」が描いた風景」の適当なところを読んでいて、おどろいて起きあがった。
『にあんちゃん』の著者安本末子は、おれと同じ年の昭和18(1943)年生まれなのだ。
おれは何をかんちがいしたのか、もっと年上の人だと思っていた。
彼女は2月生まれで、おれは9月なので、学年はひとつ上だが、そんなことは問題ではない。
おれが光文社カッパブックスの『にあんちゃん』を読んだのは高校1年生のときだったと思う。高校の、図書室で見つけて借りた。とくに書物に関心が高くなくても、話題の本だった。
それで読んだのだが、そのときからずっと、著者はおれより年上と思っていた。6歳上の一緒に暮らしていた従姉と同じくらいという漠然としたイメージを持ち続けていた。
自分に照らし合わせて、小学校3年生や4年生で、こんなには書けっこないと、思い込んでしまったこともあるかもしれない。
10歳ぐらいの小学生が書いた日記ということだけで、著者の生年などは注意もしなかったこともある。だいたい著者の生年を気にするようになったのは、かなり年をくってからだ。気にしたことがなかった。
それで、同じ年の生まれと知って、ますます10歳ぐらいでよく書けたなあという思いと、それに比べ、いや比べなくても、おれはかなりボーっとしていたのだなと思った。
「安本末子という少女が小学校三年生から五年生までつけていた日記の集成で、昭和三十三年に光文社からカッパブックスの一冊として刊行された」
昭和三十三年は1958年、おれが高校に入学した年だ。
「きょうがお父さんのなくなった日から、四十九日目です」と書き始まるのだが、その日付は二十八年一月二十二日。つまり「お父さん」は前年の十二月に亡くなっている。母はすでに末子が3歳のときに亡くなっている。
長男二十歳、長女十六歳、次男(にあんちゃん)十二歳、次女末子十歳が残った。
在日コリアン2世、親が死んで自分たちの家というものがなくなった、身寄りもない。
その生活は、「貧乏」という言葉では足りない。
おれが10歳の頃というと、おれのうちも貧乏だったし、貧乏は珍しくなかったが、にあんちゃんたちはケタというか状況がちがいすぎる。
おれの家は、父親が詐欺にあい家業が崩壊、父母は離婚し家庭も崩壊というアリサマが、ほぼ10歳の一年だった。そのあとの一年は、父母がまた一緒になり、田舎町では珍しい下宿屋、廊下には小便の臭いが満ち、アル中の男の怒声と女と子供の泣きわめく声が一日に一回は鳴り響く、貧民窟のようなところで親子3人窓のない4畳半一間で暮らしていて、それが「悲惨」「不幸」であるかどうかは外からの見方であって、おれはにあんちゃんたちのように腹を空かし飢えた記憶はなく、たいがいボーっとしていた。ま、能天気な子供でいたと思う。
実際のところ、あの頃のことは、もう遠い昔すぎて思い出しようがないのだが、とにかく、日記を書こうなんて思ったことはない。夏休み帳の日記だって満足に付けたことがない。作文は大嫌いだった。
だけど、同じ頃、同じ年ごろの少女が、ちがう空間で、あのような日記を書いていたのだ。そのことをあらためて思い、おどろいた。
文章からしても、安本末子は、賢い子だったように思える。
『にあんちゃん』は映画やテレビドラマにもなり本は売れ、にあんちゃんたちは貧乏から脱出し、著者は早稲田大学へ進学する。
おれのほうは、戦後10年の中学から高校のあいだ、いったん盛り返し家まで建てた父親の商売は業界ごと低落傾向、当時は一家に一人いると家が傾くといわれた肺病で母親は手術療養その費用が家計に重くのしかかる状態、なんとか入学金や学費の安い大学へ進学したもののまたもや家業崩壊、家は人手にわたり、おれは就職したが自分が食べるのがやっと、親は田舎に居場所を失い東京の飯場に転がりこむというていたらく。
着ているものや食べるものなど「貧乏の質」はちがっても、ところや人をかえ似たようなこと同じようなことが繰り返されている。いまじゃ「貧困ビジネス」という言葉があるぐらいだ。
人並みに偏っていて、人並みに公平であり、自らの偏屈さをもてあましているような関川夏央のばあい、「性善説にもとづく戦後民主主義」や「生活の物質的豊かさは利便と怠惰を生むけど、必ずしも幸福感をともなわないのだと、この四十いく年かで日本人は身をもって知った」というモノサシで、「日本の貧困、日本の理想」を語っているのだが。
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