今年の、ちょっとした意外、驚き。
テレビも新聞もない生活だし、ようするにあれやこれや各界の中央の主流の権威とみられるメディアの類の動向など、まったく縁がないしあまり関心もないのだが、最近、へえ~今年はそんなことがあったんだ、と思ったことが二つあった。
といっても、私的な関心のことにすぎないのだが。
一つは、大河ドラマに近衛前久が登場したという話だ。
この男、ドラマでどのように扱われたかは知らないが、かつて、かなり興味を持って調べたことがある。
そして、「小説 料理物語」というのを構想したのだが。そのことを思い出して、このブログを検索したら、書いていた。これだ。
2007/05/25「大構想 小説料理物語」
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2007/05/post_5ef1.html
そこに書いたように、江原恵さんに書いてもらいたくて構想した。
『料理物語』は1643(寛永20)年の書として伝わる。この本の読み方は色々だけど、それまでの料理書とはかなり違う点がある。最後に「右料理の一巻は庖丁きりかたの式法によらず、唯人々の作り方次第の物なれば」といった、支配的だった中世的な料理書には見られない記述がある。いったいどんな著者が、と気になるが、不明なのだ。
そこに着目した、構想だった。
この書を「近代日本料理思想の芽生え」として読んで、それが生まれる、織田信長の頃からの100年間ぐらいを「小説」というカタチでまとめてみたらどうか。
料理物語の作者像は、かなり気になる。それを解くカギとして「右料理の一巻は庖丁きりかたの式法によらず、唯人々の作り方次第の物なれば」のほかに、「御所様餅」「近衛様餅」がある。これは菓子なのだが、当時はまだ菓子は料理から独立していなかった、あるいは、独立していなかった時代に書かれたことを証拠立てるが、本書の中で、この二つだけが、名前からして上流階級をイメージさせる。
このへんの「なぜ」を突き詰めていくと、料理思想や技術はどう伝わっていくのかや、とくに「和食・洋食・中華」という言葉で語られる食風俗の中に埋没してきた近代日本料理や味覚文化の成り立ちが、いくらかトレースできないかという期待があった。
そのことについては、ちょっとだけ汁かけめしの本などでふれてはいるが。
中世的な思想と支配が崩れる頃は、「時代」をかきまわすやつがいる。縦横無尽にかきまわすやつがいる。その役割を近衛前久に負わせたらどうか。その結果として、「御所様餅」「近衛様餅」が残った。料理物語の著者と深い因縁があったからだ。なーんていうことを考えた。
おれが読んだ限りの資料だが、近衛前久は公家にしてはかなり型破りな人物だったし、その頃から徳川初期の茶人には型破りの人物がいた。「型破り」とは「中世的ヒエラルキー」その思考には、おさまりきらないということだが。
料理物語の作者は、上流階級と関りのあった人物という設定であり、おれは小堀遠州周辺の人ではないかと推理していたが、江原さんは違う考えだったようだ。そのへんは擦りあわす機会がないまま終わった。
そのことはこれぐらいにして、もう一つは、NHKの「100分de名著」という番組に、ブルデュー『ディスタンクシオン』が登場したということだ。講師は岸政彦。
へえ~、NHKが? だった。
ブルデューについても、『ディスタンクシオン』についても、岸政彦についても、詳しいことは知らない。
ただ、「ハビトゥス」という概念がすごく気になっていて、まだよく理解できていない。
「食生活」を考えるときには、避けられない概念のような気がしてはいるのだが。
以前、よく消化できていない生半可の知識のままブログに書いた。
2018/07/23
食の実践と卓越化。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2018/07/post-96a4.html
なんか、でも、この二つのことでは、意外でもあり、驚いた。
「時代」はゆれているのだろうか。
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