生と死とめし。
この年末、家の中が明るくなった。物理的に明るくなったのだ。
家を建て引っ越してから12年が過ぎた。蛍光ランプが寿命で暗くなったり点かなくなったりなので、新しい蛍光ランプやLEDに替えた。
室内の大半がLEDになった。明るい。
LEDの仕様を見たら、「計画寿命」が4万時間とある。24時間つけっぱなしでも4年半はもつ。普通の使用状態なら10年以上。
人間には「設計寿命」なんてものはない。生まれたときから、何かを口に入れなくては生きていけない。生と死は隣合わせ、といわれる。
毎日、食べて、何とか死を先延ばしにする。
そのことをうまくいったやつがいる。「やつ」という言葉を敬称として使っているのだが。
ブコウスキーだ。
こんなぐあい。
………
いずれにしても生き延びていくしかないのだ。死はいつも隣にいるが、何とかごまかして、しばらくはおあずけをくわせるのにこしたことはない。
………
詩人らしい、といえるか。『ブコフスキーの酔いどれ紀行』(中川五郎訳、ちくま文庫2017年)にあった(P126)。
同じようなことを、学者が近代医学の成立にふれながら生と死を語ると、こんなぐあいだ。
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他方では、生そのものにおける死の不断の進行が、病的プロセスとは区別されるものとして発見される。死が、唯一の絶対的瞬間であることをやめて、時間のなかに分散されるということ。死は、もはや生を外から不意に襲うものではなく、生のなかに配分されているもの、生とのあいだに内的関係を持つものとしてとらえられるようになるということだ。そしてここから、そもそも生の根底には死があるという考え、生とは死への抵抗の総体であるという考えが生まれるとともに、死は、生の真理を語るための視点として役立つものとなる。
………
学者らしい著述、といえるか。
慎改康之著『ミシェル・フーコー ――自己から抜け出すための哲学』(岩波新書2019年)、「第二章 不可視なる可視性 『臨床医学の誕生』と離脱のプロセス」の、2「近代医学の成立――近代医学の誕生」のところにある(P48)。
この本は、ミシェル・フーコーの著書を年代順に読み解きながら、そこに「自己から抜け出すための哲学」を見るという仕掛けになっているのだけど、そのことは置いておこう。
「そもそも生の根底には死があるという考え、生とは死への抵抗の総体であるという考えが生まれる」のは、近代医学の成立の過程であり、そんなにふるいことではない。
いまでも、「生とは死への抵抗の総体である」という考えは、それほど一般的のようには思えない。
ブコフスキーの「死はいつも隣にいるが、何とかごまかして、しばらくはおあずけをくわせるのにこしたことはない」は、どうだろうか。
「おあずけをくわせる」は、死への抵抗だろうと思うけど。
食べることは、「おあずけをくわせる」ことだし「死への抵抗」だ。という考えは、普通の生活ではあまり感じることも認識することもないのではないか。
死を考えることは生を考えることだ、ぐらいまではよくあったとしても、「生の根底には死がある」という考えとは違うようでもある。
だけど、「余命」や「5年後の生存率」が話題になる癌などに罹ると、生きているのは日々めしを食うのは「おあずけをくわせる」「死への抵抗」という実感も認識も、グーンと高まる。
こんなことを書くていどには。
そして、やっぱり、力強くめしを食え!だよね、と思うのだった。
それから、死の視点から、生の真理を考えるように、食の真理を考えられないものだろうかと思っている。栄養とか、健康とか、「最後の晩餐」とかじゃなくて。
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