ブリコラージュな「やきめし」。
今年は「分解」という言葉を抱えて、考えたり考えなかったりしていることが多かった、といえるようだ。
なんとかこの言葉を噛み砕いて自分のものにできないか。
このブログには、こんなことも書いている。
2020/10/19
料理や食事と、エンジニアリングやブリコラージュ。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/10/post-197393.html
んで、大衆食堂の画像を整理していたら、十条の天将の「やきめし」が目にとまった。
この「やきめし」、これはブリコラージュではないか。
やきめしの楽しさはブリコラージュにあるとひらめいた。
あまりものをテキトウにぶちこんで作る「やきめし」、うまいんだな、これが。おれが父親に最初に教わった料理が「やきめし」だった。
ひらめいた脳ミソに「パッチワーク」という言葉も浮かんだ。そうだ、パッチワークはブリコラージュ、やきめしはパッチワークでありブリコラージュだ!
そうそう、藤原辰史『分解の哲学』には、「金繕い」の話があったな。あれも、同じ類ではないか。
と考えているうちに、だんだんだんだん、見えてきた。
料理は、食材や熱や欲望などいろいろな関係を繕うものであり、その料理を食べて人間は身体や気持を繕い、料理を一緒に「食べる」ことで人との間を繕い……てなぐあいに、「繕う」という言葉を置いてみると、食事と料理をめぐるブリコラージュが、「分解」が、見えてきた。
ような気がしている。
「料理」について、大きなカンチガイがある。
それは、エンジニアリング力で提供される「いいもの」を消費する、近年の「消費社会」の中で、拡大してきた。
一方で、やせほそるブリコラージュ力。つまり、「家庭料理」という言葉で語られるところのいろいろ。
この「やきめし」を見ながら、そう思った。
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