1993年頃考えていたこと書いたこと。
いろいろ整理していたら、こんなのが出てきた。
まだライター稼業の前、ライターになる気もない頃のことだ。
ひとつは、復刊一号・一九九三年三月号とある『イマジン』。「編集発行・遠藤哲夫(住所不定風来坊橋下人間)」とある。
もうひとつは、『大衆食研究』一九九三年十一月号、「大衆食研究会 制作発行責任=遠藤哲夫」。
『イマジン』は「「女の台所からの解放」「女の社会進出」への疑惑」のタイトルで、「浮かばれない女と料理」「「女性解放」は考え直そう」「家庭料理からの出発――そしてカレーライスのすすめ」の小見出し。
以前本にも書いたと思うが、おれが江原恵さんと生活料理研究所をやっていたころ、江原さんの『カレーライスの話』が三一書房から発刊された。その内容を改訂したい、ついては江原さん監修でおれが執筆でお願いできないかという話が担当の編集さんからあり、少しずつ進んでいた。
その最中に、これも以前本に書いたと思うが、打ち合わせ中のふとした話から、先に大衆食堂の本をつくることになった。
それが、ちょうどこの3月から11月の頃だと思われる。
「大衆食」という言葉をおれが公(といっても狭い範囲だが)に使ったのは、これが初めてかもしれない。
どのみち、中身は、自分が考えていることを、当時ふらふら持ち歩いていたワープロ専用機で文章をつくり、コピーし折って綴じて、知人たちに送っていた。「風来坊」なんてかっこうつけているが、転々とした生活の中の生存連絡といったものだった。
とにかく、『イマジン』から「浮かばれない女と料理」「「女性解放」は考え直そう」を、まんまここに転載しておこう。
あの頃は、ちょうど50歳、こんなこと「も」考え、こんな文章「も」書いていた。
■「女の台所からの解放」「女の社会進出」への疑惑■■■
●浮かばれない女と料理
ほんとうはカレーライスの穿竪をしていたはずだった。ところがカレーライスをつついているうちに、その奥に「女」がちらつきはじめた。気づいてみれば、なーんだ、ということなのだ。カレーライスは日本の家庭料理だし、家庭料理というのは女がつくっていたのである。
そこで「女性史」に関する何冊かをのぞいてみた。そこに料理があるのではないかと思ったからだ。しかし「ふつうの歴史」とあまりかわらないのである。極端な言い方をすれば、主人公が女になっただけである。これまでの男たちが政治だ経済だ世界だ国家だと騒ぎまくる事大主義はそのままらしい。これは女を軽んじてきた男の歴史の方法そのままではないか。
「食事のしたくは女がするもの」という通念があるほど、女性は日本料理の歴史を担ってきた。女性史では、料理が大きな比重を占めているだろう。ふつうの歴史とちがってそうであるはずだ。こう思っていた私は、肩すかしをくらった。
社会と生活の現場にいた人々、大部分の女たちの歴史は、女の歴史のなかでも浮かばれないままなのだ。これはかなり奇妙だし、おかしいことではないか、という考えにとらわれてしまった。
問題は女だ。女たちはこんなことで満足しているのだろうか。女は進歩したのだろうか。女たちは、家でカレーライスをつくることから解放され、男の世界だった料理屋や鮨屋に出入りできるようになって、それが進歩だと信じているのだろうか。カレーライスから始まってたどりついた疑問がこういうことだった。もちろん、これは女と背中合わせの男の問題でもある。
カレーライスは、ここがこの料理のおもしろさのひとつだが、本当に「こった煮」だ。女の歴史まで煮込む。しかもそこには男が離れがたく一緒である。これは、刺身や鮨にはみられないことだ。刺身や鮨はこのようにカレーライスと比較されることを不愉快に思うだろう。刺身や鮨は生活臭さのない男の世界なのだ。女がしゃしゃりでてきても、しょせん男の真似事にすぎない。刺身や鮨に「おふくろの味」なんていうのは成り立たない。ところがカレーライスには「おふくろの味」が成り立つ。「おふくろの味」を懐かしがるのは、だいたい男たちだが。こうして、カレーライスには女の歴史も男の歴史も一緒に煮込まれる。そこに家庭や生活の歴史がある。――池波正太郎『食卓の情景」の「カレーライス」などにはそういう情景がよくあらわれていた。
●「女性解放」は考え直そう
そういうわけで、カレーライスがどうしても女になってしまう。「女」に関する疑問は濃くなるばかりだった。そしてある日、一九四七年(昭和二二年)四月七日の朝日新聞の天声人語を見たとき、「女の解放」をめぐる胡散臭さ、疑惑は決定的なものになった。
その天声人語。
「家庭の主婦ほどみじめな存在はない。(略)頭は年がら年じゅう食べ物と燃料のことをはなれない。(略)台所電化でボタン一つおせば三十分ぐらいで食事の支度ができ、主婦も教養や娯楽や身だしなみに時間の余裕をもつ。そういう時代はいつくるのか。(略)家庭生活の民主化は、台所地獄からの女の解放である。」
これは、たぶん男が書いたものだろう。
人権というものはまったく念頭にない。生活や食事に対する見識もうかがえない。台所電化のボタンに「家庭の民主化」や「台所地獄からの女の解放」をまかせる思想はそのまま今日である。苦しそう、みじめ、無教養だからダメダ、遅れている、可愛そうという烙印の押し方、その片方にある傲慢な教養主義、これらは今日にいたるまでマスコミ知識人の得意技だ。感傷と観念のセンセーショナリズム。そして「そういう時代はいつくるのか」といった傍観嘆息。自らの見識というのがない。
こういうマスコミの歴史の下で生きなくてはならない日本人ほど「みじめな存在はない」。そうだろう、この天声人語のわずか三年ほど前には、大新聞は、尊王攘夷の大東亜戦争を戦っているのだからフォークやナイフを使うのは止めようと言っていたのだ。
ともかく、戦後の女性解放、女の自立、そして最近の「女の時代」というのは、こういう指向と思想の積み重ねのうえにあるのではないかという疑念をもつべきだ。
家庭料理をどうするかなんていう議論はないまま、女を台所から解放すべきだということになってしまった。
そして一方では、「主婦は家庭の中心」という掛け声でキチッンやダイニングキッチンが豪華になってゆく。ゆとりを持たされた女たちは、「心のこもった料理」がいちばん美味しいのだと、カルチャーセンターや食べ歩き先の料理屋で語り合ったり、テレビの料理番組の決まり文句にうなずいている。女の解放などは電化製品にまかせておけばいいと思っていた男は、居酒屋あたりの「おふくろの味」で家庭の感傷にひたる。そして手のかからないイイ子供たちは、レトルトカレーをよろこんで食べる。だれも家庭の文化をふりかえらない。そういう「女の時代」が、すぐ最近あった。
女は社会に進出したのではなく、男の会社社会に進出しただけなのである。
かって女がなりふりかまわず守らなくてはならなかったもの、あるいは女が守っていてくれたものは、何なのか。どう評価すべきか。そこから問い直す必要がありそうだ。
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