モニターの向こう。
津村記久子のエッセイだったと思うが、風邪を引いて近所の開業医へ行った話があった。
若い女医がパソコンの画面を見ながら対応し、ほとんど患者の方を見ないで診察した。というようなことが書いてあって、著者の納得いかない気持をただよわせていた。と記憶している。
たしかに、いまおれが通院して診療を受けるときも、主治医とおれが向かいあうのは、最初と最後ぐらいだ。
呼ばれてドアを開けて入ると、主治医は左側の壁に向かって大きな机に座っている。机の上には大きなモニターがある。
主治医は、こちらを向いて「どうですか調子は」とかいう。おれは「もう絶好調です」とかいいながら、イスに腰をおろす。このときは、ほぼ正面から顔を合わせる。
そのあとは、主治医はモニターの方をむき、データで送られてきた診療前に採血採尿した検査結果を見たり指さしたり、前のMRIやCTの画像を出したりいじったりしながら話す。おれも横から、その画面をのぞき込みながら話す。主治医もおれも、お互い目を横にはしらせてチラッと顔を見たりはするが、見えるのは横顔であり、向かいあうことはない。
話は、けっこうはずむけど。
そして、その日の結論らしいものが出たところで、最後は向かいあって、対策や処置の確認などをする。
そんな感じなのだ。
昔の医者は、患者と物理的に向き合っている時間が長かった。聴診器をあてたり、手をとって脈をはかったり、口をあけさせて中を覗いたり、瞼をあげたりさげたり、腹をさすったり押したり、組んだ足の膝をトンカチみたいなもので叩いたり…。すいぶん昔のことだが。
いまでは、たいがい機械的に処理され、モニターに映しだされる。手術後の寝たきりのときなどは、身体にいろいろな器具やコードなどがからみついて、枕元のモニター(あるいは病状によっては看護室のモニターなど)では、いろいろな数字が動いている。
1980年代ぐらいから、近代医学に対する批判が高まり、90年代には「医療の高度化」も進み、「医者の目は、患者さんに向けられていません、視線はもっぱらモニターに向けられています」「患者さんの病気は、患者さん個人にはなく、モニターの上にあるのです」なんてことがいわれるようになった。
そういう傾向に対して、「病気を診るのではなく、人間を診るということに尽きるのではないでしょうか。まず患者さんを一個の人間として診るところからすべては始まると思います」といった考えが医学の関係者のあいだでも議論されるようになった。
なかなか難しい問題だ。そもそも「病気」の定義からして。
「医学のまなざし」をめぐる議論が、代替医療のことなども含め、まだ続いている。
「まなざし」という言葉は、よく知らないが、ミシェル・フーコーの『臨床医学の誕生』のキーワードらしい。「医学のまなざしをめぐって」という議論もあった。
「まなざし」という言葉は、医学系にかぎらず、けっこう学術系の人たちが多く使うようになって、いまではチョイとなんだか人にやさしい丁寧で深い考えがありそうな言葉として通用しているように見える。
それはともかく、「人間」「身体」「生命」といったことに対する、さまざまな考え方(主に近代的な考え方が)が問われたのだが(「ポストモダン」や「ニューアカ」ブームもあって)、ことは「医」だけではないはずだ。
「人間」「身体」「生命」のことは、「食」も関係が深い。「医食同源」なんて言葉はある。ところが、こちらのほうは、「医」ほどは、議論になってこなかった。
いま、チェーン店では続々とモニターの導入が進んでいる。カウンターやテーブルの上で、モニターを見て注文し、会計も自動のところが増えつつある。
「食べることへのまなざし」なんて議論があってもいいんじゃないかなあ。食べ物のことばかりじゃなくてさ。
とにかく、「モニターの向こう」が気になる。
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