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2021/04/24

宿題をやらないで嗜眠をむさぼる。

安東量子による、「福島原発「水」の海洋放出、安倍前首相が「問題を放置し続けた」ことの大きな責任 そして、国民にも責任がある」
(現代ビジネス 2012.04.24 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/82476)は、ズシンとくる内容だ。

安東は、このように書き出す。

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放置され続けた問題

長らく懸念されつつも対応方針の定められていなかった東京電力福島第一原発構内のタンクに蓄えられていた「水」の海洋放出が決まった。この決定に対して地元の反発が大きく伝えられているが、一方で、「やっとか」との思いを抱いた人も少なくないだろう。

原発事故が起きて先月で10年を迎えたが、第一原発構内に流れ込む「水」は、事故が起きた当時から最大の問題となっており、長年、放置され続けた上での決定だ。いつか誰かが、なんらかの決断をしなくてはならないことは、当初から明らかだった。どのようなプロセスを経て、どのような条件で、誰によって決定されるのか、焦点はそこにあったが、日本政府のとった対応は、ただ漫然と放置し続けることだった。

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「汚染水」とか「処理水」とかいわれる、あの「水」は、安東の指摘するとおり、事故当初から大きな問題だったのであり、今回「放出」したとしても、それで終わるわけではない。まだまだ、いつ終わるか見通しの立たないまま、「水」は増え続ける。

安東は、「汚染水の対応としては私が責任者として前面に出て行っていきたい」といいながら逃げ続けてきた安倍前首相、内閣記者会で構成される記者団の「不自然」を指摘し、「「先送りできない課題」であると安倍氏が認識していたと言えるのか、そうは到底思えないというのが私の認識だ」という。

そして、安倍の在任中の20回以上をこえる福島訪問を調べ、そこにある「パターン」と「巧みなイメージ操作」、それを「イベント訪問型」と実感するまでを述べる。

問題は「水」だけではないし、「時間の経過とともに複雑化してさらに込み入った状況に陥って」いる。そのことは、たいがいの国民は知っているはずだ。それとも知らんふりをし続けるのだろうか。知らんふりしていれば、なんとかなると思っているのだろうか。

「10年の間、復興に携わる活動をしながら、多くの人たちの関心の移り変わりを経験してきた身としては、安倍氏の関心のありようと、国民世論の関心のありようは、ほとんど正確に一致していると感じられていた。原発事故によって、国土のうちに回復不可能な損害が発生し、それに対する国家的な負担を長期にわたって国民が引き受けねばならないという冷徹な現実から目を逸らすことを望んだのは、私たち国民でなかったか」と安東は述べたのち、こういう。

「いわば嗜眠(しみん)状態にあることを望んだ国民に、安倍氏は実に好都合な首相であったと言える」

「この先、私たちはこれまでの安倍政権の、すなわち、私たち自身の不作為の顛末を目前にすることになる。いま一度、問いたい。事故が起きて、多くの人びとが日本社会が変わる必要性を痛感した。そして、事故から10年。果たして、私たちは変わることができたのだろうか。あの時に変えねばならないと思った社会は変わったのだろうか。もしそれができなかったとしたのならば、なぜなのだろうか」

おれは「嗜眠状態」という言葉に、はっとした。

新型コロナ感染拡大のこの一年を振り返っても、同じことがいえそうだが、「嗜眠状態」を醸成するうえでは、「おいしい話」なども多いに寄与してきたのではないだろうか。「インスタ映え」などで耳目を集めるやり方などは、まさに「イベント訪問型」と同類の手法だ。

おいしい楽しい美しい話に夢中になり嗜眠をむさぼり宿題をほったらかしてきたが、宿題が片づいたわけではない。大きく複雑になっていくばかりだ。

「水」も「新型コロナ」も。ほかにも、問題は山積みだ。冷徹な現実は、まったなしに襲いかかってくる。

私たちは嗜眠状態から変わることができるのだろうか。「食」も深く関係することだ。

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