「平凡で普通の暮らしへの信頼」と「適宜料理」。
昨日の投稿「料理と情報と文化」で言及した「現代化」によって損なわれたものといえば、「平凡で普通の暮らしへの信頼」だろうと思われる。
「食」の分野でも、「いいもの」「いい店」「いい仕事」がもてはやされ、平凡や普通は、とるにたらない存在にされてきた。
新型コロナ感染拡大にともない「エッセンシャルワーカー」なる言葉で、大多数の平凡で普通の暮らしを支える平凡で普通の暮らしの労働者を持ち上げたりする傾向はあるが、その言葉ばかりがムナシク響く。
やはり、自分自身で、失われた「平凡で普通の暮らしへの信頼」を取り戻そう。
それは日々の食べることからだ。
ってんで、今日の昼には、あるもので焼きそばをつくった。
適宜あるものを、適宜きりきざんで、適宜炒めて、適宜薄目に味をつけ、食べるときに適宜各自で味を調える。
それで、世の中には、完全なレシピに従わない「適宜料理」が存在することに思い至った。
たいがいが、平凡で普通の料理のはずだ。
ここから、「平凡で普通の暮らしへの信頼」を取り戻していこう。
と、狭いウッドデッキで平凡で普通のピクニック気分を出し、平凡で普通の発泡酒を飲んだ。陽ざしが強くて、「うめえ~」「うめえ~」だった。発泡酒が。いや、焼きそばも。
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