「よし、今日はブルジョワしちゃお」
今朝の「今日はメーデー」の投稿で、「プロレタリアート」という言葉を、ずいぶんひさしぶりに使った。
それで、「よし、今日はブルジョワしちゃお」を、思い出した。
これは、林真理子『食べるたびに、哀しくって…』(角川文庫1987年)の「カツ丼」のところに出てくるし、拙著『ぶっかけめしの悦楽』にも『汁かけめし快食學』にも引用した話だが、「よし、今日はブルジョワしちゃお」は、略してしまっていた。
原文は、こんなぐあいなのだ。
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大学の正門前に、「増田屋」というありふれた名前のソバ屋があった。ここは私と友人の行きつけの店だったが、昭和四十七、八年当時、カツ丼は三百八十円だったと記憶している。“上”は500円だった。
「よし、今日はブルジョワしちゃお」
とみなで声をかけなければ、まずカツ丼など注文しない。それよりも私たちが好んだのは、「タヌキ丼」というやつだ。これは“揚げ玉”をたっぷりと卵でとじている。二百四十円でおみおつけもついてお腹いっぱいになった。こちらの方がはるかに実質的だ。
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「昭和四十七、八年」というと、72、3年ごろだ。林真理子は、おれより11歳下の1954年生まれ。
その時代、その年代には、大学生の間で普通の会話だったとしても不思議はない。
「ブルっちゃお」という言い方もあった。
こういう「階級」を背景にした言葉が、無色透明な消費社会的言語に置き換えられていくのは、70年代の後半からだろう。
「プロレタリアート」「労働者」「大衆」などの言葉も廃れ、「貧乏くさい話」や「抗う姿勢」などは退けられ、「ビジネスマン(近年はビジネスパーソン)」「シティ・ボーイ/ガール」「市民」「生活者」といった言葉が興隆し、飼いならされていった。
いま、この感じの「よし、ブルジョワしちゃお」は、どういうふうに表現されているのだろうか。
といったことを考えながら、まんぼう下だしなあ、「よし、今日はブルジョワしちゃお」と、今シーズン4回目になる猫の額ウッド・デッキで焼肉をした。ちっともブルっていない焼肉だが。快食であった。
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