「とんちゃん日記」の『大衆食堂パラダイス!』『大衆食堂の研究』の紹介に、おどろきうれし緊張した。
おどろいた。いや、おどろいていては、いけないのかも知れない。うれしかった。こんなに詳細に読んで紹介していただいて、やはり、おどろいた。そして、緊張した。
検索で見つけたのだが、ブログ「とんちゃん日記」というのがありまして、2月に『大衆食堂パラダイス!』を3回にわたって、3月に『大衆食堂の研究』を、やはり3回にわたって、詳細に紹介してくださっているのだ。しかも、深く読み込み、論理的な検討を加えながら。
とくに『大衆食堂の研究』の最終回で、おれは「あっ」と、おどろきの声をあげた。これまで、いろいろな紹介や感想や批評、中傷罵倒のたぐいまでいただいたが、この本のカンジンなこの部分に言及したひとはいなかった、そこを取り上げていただいている。
『大衆食堂の研究』は1995年の発行、来年は20年になる。ふた昔も前の本を読んでいただいただけでもうれしいが、そこまでシッカリ言及いただいているのを見ると、まだおれの本は生きているというのを実感する。後世に残る本や、自分の名前を後世に残したいなど考えたことはないが、歳月がたっても評価してくれる方がいるのは、それがどなたであろうと、うれしい。そして、身がしまる思いがするのだった。
「とんちゃん日記」は「食べ物と文化のつれづれ記録。美味しく食べたところ、美味しく食べたもの。心地よく泊まったところ、気持ちよく入った温泉。しかも高くない値段で。そしてそれぞれの薀蓄を記録しています。」というもので、食べ歩きの記事を中心に、「食文化」などのカテゴリーがあり、そこに、この紹介があった。
「とんちゃん日記」から、ごく簡単に引用をつなぎながら要約しておく。(カッコ)でくくった文章は、ここにおれが添えたもの。
「とんちゃん」、ありがとうございました。
2014年2月24日
大衆食堂パラダイス!(1):テーマ
http://onhome.blog.so-net.ne.jp/2014-02-22
弊ブログには食堂がときどき登場します。最近は食堂を探して食べに行っています。
食堂の料理は大衆食で、地元密着型の食ってところが好きなんです。
そしてその両方、大衆食と地元食は庶民、地方の文化だと思っています。
でもそんな食堂はどんどん無くなっています。これでいいんだろうか・・・
食堂で、ただ食べているだけじゃ能がないので、大衆食に関する書籍をボチボチと読んでいるんです。
カッコつけると文化を理解するために。
そんな本を弊ブログでもときどき紹介しようかと思います。
ということで今回はその第1回。
(というぐあいに始まる。緻密に読み、緻密に検討が加えられ、大事な点は逃さず、本文からの引用は掲載ページが明記されている。おれのようなヘタなライターよりきちんとしている)
2011年出版の『大衆食堂パラダイス!』は「5年ほど前に企画が決まった」(p.353)とあります。
だから企画が決まったのは1996年頃のことで、1995年に『大衆食堂の研究』が出版されたすぐ後です。
(ここには、とんちゃんの計算違いがある。2011年の5年前は、2006年頃だ。ま、どのみちこの2冊は「姉妹本」であるから、文脈的に問題のあることではない。)
そして著者は前著『大衆食堂の研究』と『大衆食堂パラダイス!』との関係について、こう言います。
『大衆食堂の研究』は「上京者ならではの大衆食堂のある東京暮らしを、思い入れたっぷりに書いたもの」(p.11)であり、「本書『大衆食堂パラダイス!』は、そんな『大衆食堂の研究』のその後であり、おれの大衆食堂物語である。」
「大衆食堂のある生活を楽しむためのガイドになるように書いているツモリです。」(p.12)
前著の「その後」だ、というのですから2つの著書は「大衆食堂」に関する姉妹本、ということです。
ただし面白いことに、2つの著書では「大衆食堂」へのアプローチの仕方が違っているんです。
(このあと、アプローチのちがいを、その「理由」まで見つけ出して紹介している。すごい!)
というわけで本書では、「昭和30年代にして1960年代の大衆食堂」の片鱗を留めている食堂が「おれの大衆食堂物語」=「おれの大衆食堂パラダイス」として語られます。
2014年2月25日
大衆食堂パラダイス!(2):前半
http://onhome.blog.so-net.ne.jp/2014-02-22-3
とはいえここでは、この本を少し論理的に読んでみようと思うのです。
「おれのふるさとの味覚は、地理的な意味でのふるさとの味覚という面と、時間的に過ぎゆく近代の味覚という面の2つを備えているように思う。大衆食堂の味覚も、またそうだった。」(p.15)
大衆食堂は「近代日本食のスタンダード」だと著者はいいます。「近代の味覚」のスタンダードが大衆食堂なのだと。
そしてその近代の味覚はまた「ゆっくりと変化する」ものでもある。
変化して現在に至り、そしてまたさらに変化していく「近代の味覚」を大衆食堂を通じて描こうとしています。
(この回は、とくに第1章と第2章の、大衆食堂とは何かについて語っている部分を、引用で要約しながら、まとめている)
第1章は「地理的な意味でのふるさとの味覚」である著者の「望郷食」が語られます。
第2章は著者が通いづめた「気になる大衆食堂」(p.97)、著者にとってのこれぞ大衆食堂という食堂を通じて、「近代日本食のスタンダード」たる大衆食堂の現在を描き出しています。
2014年2月26日
大衆食堂パラダイス!(3):後半
http://onhome.blog.so-net.ne.jp/2014-02-22-1
本書は著者遠藤氏の「おれの大衆食堂物語」であり、「昭和30年代にして1960年代の大衆食堂」の片鱗を留めている食堂が著者の「大衆食堂パラダイス」です。
一人称で語られる大衆食堂への熱い思いは、この本を読むとズンズンと感じます。
全編がこれ「おれの大衆食堂物語」のエッセーなのですが、その中から大衆食堂と大衆食に関する著者の考えを読み取ってみようと思います。
第3章には、「大衆食堂の歴史」が書かれています。
ここで変わっているのはその方法です。
大衆食堂の歴史そのものを書くのではなく、現在ある大衆食堂を取り上げて、その姿の中に「大衆食堂の履歴や系譜」(p.191)を見いだそうとしています。
著者は「いろいろな大衆食堂のエピソードから、アレコレ考えてみる」(p.191)と書いていますけれども、実は単にアレコレではなく、大衆食堂の系譜についての考察がベースにあるのです。
大衆食堂のイメージというと「和」になってしまう。しかしその「和」は昔と同じではない、と著者は言います。
いま大衆食堂が体現している「近代の味覚」、庶民・大衆の生活に息づく「普通にうまい」大衆食、生活料理。
それは形を変えつつも引き継がれていく、それが「近代の味覚」の未来であり展望ということでしょう。
でも大衆食堂は無くなるかもしれない。
そうならば、未来に引き継がれるのは「大衆食堂」ではなく「大衆食」なのでしょう。
2013年に出版された著者の新著は、『大衆めし 激動の戦後史』という題名です。
テーマは大衆食堂ではなく大衆めし=大衆食になっているのですが、この変化は当然の成り行きなのだと思います。
2014年3月13日
大衆食堂の研究(1):めしを食うとは
http://onhome.blog.so-net.ne.jp/2014-02-09-1
ただしこの本は、とっくに絶版。
わたしは図書館で借りましたけど、著者がネットで全文公開していますので、そこで読むことができます。
http://entetsutana.gozaru.jp/kenkyu/kekyu_index.htm
(『大衆食堂の研究』は、自分でスキャンして、ネット上に全文公開してある。次は、ぜひ多くの方に読んで欲しい『ぶっかけめしの悦楽』を公開しようと思っているが、酒ばかり飲んでいて、作業があまりすすんでいない。おれの「生活料理」に関する著述からすると、汁かけめしの話しは、どうしてもはずせないから、早く公開したいのだが。ともあれ、とんちゃんは、つぎのように、いきなり『大衆食堂の研究』の核心をつく。)
この本、グルメブームの風潮を批判して、「めしを食う」ことの意義を問うているんです。
「あとがき」でこう書いてあります。
「注文してから何分でできあがり盛りつけがどうで、味がどうで、雰囲気がどうでなどと外食を評価することは悪くはないが、めしくうということは、はたしてそれだけかということを、おれたちはもっと考えてみる必要があるのだ。」(p.219)
これに同感です。
弊ブログでは、遠藤氏が批判するそんな内容ばかりを書き連ねている感じですけど、しかしとても「同感」します。
またこうも書いてあります。
「この本でくそまじめに食生活を考えてほしい、といったら笑われるだろうか。
でもおれはくそまじめにくうことを考えていた。
どんなめしのくいかたをすべきかということについて、おれたちは何も考えなくなっているように思う。そして、こんな基準で食生活を判断することになれきっている。
一、貧しいか、豊であるか、あるいは贅沢か。
二、便利かどうか。
三、新しいかどうか。
だいたいコンビニていどの豊かさと便利さと新しさが、都会的生活の象徴であり、相場になっているようだ。
そのことに異議申し立てをしようというわけではないが、食生活へはもっといろいろなアプローチがあっていいはずだ。」(p.219)
「豊富」、「便利」、「新い」が食生活の基準ではないのだ、と。
しっかり異議申し立てています。
著者が大衆食堂を取り上げたのは、そのアンチテーゼとしてなのです。
なぁーんて、書いたけど、この本自体はとっても軽いタッチで書かれています。
そうなんですけど、ちょいとマジメに内容を検討しようかなって思います。
筆者は、大衆食堂を通して実は食生活あり方を問おうとしているのです。
著者には、食生活とは何のためにあるのか、という哲学があります。
「そもそも人間がめしをくうということは、あの立ちションベンのときの、充実感とか解放感という言葉であらわされる感覚の延長線上にある、「元気」のためじゃなかったのか。」(p.220)
立ちションとは余りにも卑近な例ですけど、人間がめしを食うのは「元気」のためだという、素朴かつ根本的な哲学があります。
食事とは料理とは何のためにあるのか、それは元気に生きるため、日々の生活のためにあるのだ、という理解があるのです。「豊富さ」、「便利さ」、「新しさ」ではない、生きるための庶民の食生活。
それを「大衆食堂」を通した語ろうとしているのです。
2014年3月14日
大衆食堂の研究(2):大衆食堂の歴史
http://onhome.blog.so-net.ne.jp/2014-02-09-2
「研究」なんて大それた題名だけど、実は編集者が題名に「研究」をつけたまでで、と著者は言っています。でもなかなかに研究的なアプローチがあります。
今回は「大衆食堂」の歴史の部分を紹介しましょう。
(この回は、歴史を、引用で要約しながら紹介をしている。うまくまとまっていて、大衆食堂の歴史が頭に入りやすい。)
2014年3月15日
大衆食堂の研究(3):大衆食堂と食生活
http://onhome.blog.so-net.ne.jp/2014-02-09-3
今回は大衆食堂が示す食生活について紹介してみます。
本書は大衆食堂で食べることを推奨し、実際の大衆食堂が何店も紹介しています。
これぞ大衆食堂という3つの食堂が熱く語られています。
(最後に、このカンジンなところに着目し、『大衆食堂の研究』と『大衆食堂パラダイス!』両方から指摘する。)
編外編*これこそ食堂
食堂のメニューがこれまた「あいうえお順」にズラズラと並べています。
著者はその理由をこう書いてあります。
「それでは、食堂メニュー一覧をやってみよう。
ほんとうは、食堂については、おおくを語る必要はないんだ。これだけあればね。メニューが食堂のすべてだし、そこから、それぞれのひとが、何かを、読み取るんだと思う。何かを、語るんだと思う。
だけどメニューだけでは、これだけじゃ、本にならないから、ぐたぐた書いたような気がしないでもない。すいません。」
メニュー一覧が食堂のすべて、メニュー一覧が本書の目的だって?
筆者は『大衆食堂パラダイス!』の中で、「『大衆食堂の研究』の本音」という項でこう書いています。
「拙著『大衆食堂の研究』では、食堂メニュー一覧をやっている。そこでおれは、自分が入って写しとっておいた大衆食堂のメニューを、その文字のままにズラズラ並べた。」(p.325)
「大衆食堂のメニューをかき集めてみると、実際に普通の家庭で作られていたかどうかわからない料理書のメニューや、そういうものを年代順に整理し勝手なリクツを付加しただけの食べ物の歴史より役に立つことがあるだろうと思った。そして、やってみた。
大衆食堂のメニューは実際に普通の家庭で作られていた料理である。すべての家庭料理の反映ではないが、むしろ全国的にも地域的にも季節的にも、もっとも普通の料理であり、つまり時代のスタンダードを鳥瞰するにはよい。」(p.327)
大衆食堂のメニューは普通の家庭で作られている料理の反映である、という理解があるのです。
だから大衆食堂のメニュー一覧は家庭で作られる料理のスタンダードを表す。
このことを著者はやりたかったのです。
大衆食堂のメニューは家庭料理のスタンダードだという理解は大衆食堂の歴史を記述した中でも確認されています。
こうして著者は、大衆食堂を語る中で、家庭で普通に食べられている料理、近代日本めしの変化とあり方を語ろうとしている。
大衆食堂の料理は家庭料理の反映だと著者は言います。
他方で著者は、大衆が「新しい暮らし」を求め生活スタイルを変えていき、「コンビニていどの豊かさと便利さと新しさが、都会的生活の象徴」になっていったと、現在の食生活、食文化を批判します。
しかし大衆食堂の料理はそれを追わず、変化していった大衆の食生活から取り残された存在になっている。
この対比の中から著者は、変化する新しい食生活に批判的姿勢をとりながら、変化しないでいる大衆食堂を通じて食生活のあり方を語ろうとしている。
ところが変化する食生活に対して、先日紹介した、この後の書である『大衆食堂パラダイス!』ではかなり違っていました。
同書の中で著者は、大衆食としての近代日本食が新しい要素を取り入れながら変化し続けている、という中に肯定的なものを見ています。
そして「大衆食堂」の看板や暖簾は消えていくかもしれないが、大衆食堂の「うまさ」は、さまざまな新しいスタイルの飲食店に息づいている、と言っています。
ここでは、変化する大衆食=近代日本食に足場を置いて、そこから食堂や飲食店の変化を見ている、と言ってもいいでしょう。
「近代日本食」、日本の庶民の食生活の変化を肯定的に見つつ、ではその行方をどう見通すのかという重要な課題を提起しているわけです。
昨年出版された『大衆めし 激動の戦後史:「いいモノ」食ってりゃ幸せか?』は、まさにそこをテーマにしているのだと思います。
ということで、後日、その本を紹介したいと思います。
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