『暮しの手帖』100号、「家庭料理ってどういうもの?」。
慣れない重い仕事にエネルギーを吸い取られていた。同時にエネルギーを補給されたようでもある。ようするに学習して何か力がついたような感じかな。ま、だからといって何がどうなるわけでもないのだが。
この間、去る5月25日に『暮しの手帖』6-7月号、「第4世紀100号記念」というのが発売になった。資料として必要がないかぎり買ったことがない、おれのように下世話な者には縁がない、書棚には4冊しかない雑誌だ。瀬尾幸子さんが「瀬尾新聞」という連載ページを持っていたのも知らなかった。
で、その瀬尾新聞で、大衆食堂の料理を取り上げて紹介しながら、瀬尾さんとおれとで「家庭料理ってどういうもの?」っていう対談をできないかという相談があった。「どういうもの?」ということで、もっと「家庭料理」について考えてもらえるようなことをまとめたいという趣旨だった。
ってわけで、一度企画の相談で会い、企画の内容に即していて取り上げるによい食堂を二軒取材した。
江東区深川の「はやふね食堂」と文京区動坂下の「動坂食堂」だ。どちらも、東京新聞の連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」と、ダンチューに書かせてもらったことがある。
この二軒は立地の違いに特徴があるうえ、両店のメニューをあわせると、近代の(中には江戸期までさかのぼれるものもあるが)、いわゆる「家庭料理」のスタンダードを見渡せる。「家庭料理ってどういうもの?」を考えるには、都合がよいのだ。
打ち合わせと、食堂2軒、計三日三回、どんどん飲みながら瀬尾さんと話した。かなりとっちらかった話をした。
担当の編集さんが記事にまとめたものを見て、びっくりした。さすがだ。「家庭料理論」としてはもちろん、「料理論」としても、その本質的なところが、うまく簡潔にまとまっているのだ。自分で書こうとしたら、こうはうまくいかない。これは、これからの議論のベースになりうるだろう。
ということに、どれぐらいの人が気が付いてくれるかどうかわからないが、これから「料理論」なるものへの関心は高まるだろう気配がある。そのとき、大いに参考になるはずだ。
注目点は、大衆食堂のメニューに多い、特定の名がない、名もなき料理だ。つまり、「〇〇煮」や「××焼」というぐあいに、素材に+煮る/焼く/炒める/蒸すなどの料理法がついてるだけの料理。野菜炒めなんかも、そうだ。これが、家庭でも、ありふれているし、名もないだけに、たいして話題にもならないが、太古の昔からある、料理の入り口なのだ。
ここでは、「個」という言葉を使っていないが、肝心なことは「個」と「料理」と「抑圧」の関係だ。
「個」と「料理」に対しては、さまざまな抑圧がある。そんなものは料理じゃないとか、ただ煮ただけじゃないか/焼いただけじゃないか/チンしただけじゃないか、「手抜き」だとか、健康のためとか、とくに「いい物うまい物」話が盛んで、どこそこのナントカ料理カントカ料理が次から次へと耳目を集め、それはたかだか「いい消費」ぐらいのことなのに、とても派手で華やかで美しく、日々の生活の料理は地味な後ろめたい気分に追い込まれてしまう。人目を気にしたり、自分の料理はこれでいいのだろうか思ってしまったり、とにかく、料理する「個」の気分はなかなか自由に解放されない。
「家庭料理」という言葉も、「家庭」という抑圧があって、あまりよい表現だとは思わないのだが、「管理」や「抑圧」がない、それが普通である料理について、その入り口の話をしている。
入り口を間違えると、「料理」という家に入るにも、とんでもないことになる。すでに、けっこうとんでもないことになっているから、「家庭料理ってどういうもの?」について考えてみてもよいのだ。
「個」と「自立」と「料理」の関係、そこなのだな、問題は。
ってことで、ごく気楽な対談をしている。
写真撮影は、長野陽一さん。これまで、何度か飲み会で顔をあわせているが、一緒の仕事は初めてだ。食堂の料理を紹介する写真が、誌面の関係で小さいし、被写体は地味なんだけど、いい個性を出している。
最後の見開きは、瀬尾さんの手による「名もないおかず」。
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