2019/06/08

『暮しの手帖』100号、「家庭料理ってどういうもの?」。

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慣れない重い仕事にエネルギーを吸い取られていた。同時にエネルギーを補給されたようでもある。ようするに学習して何か力がついたような感じかな。ま、だからといって何がどうなるわけでもないのだが。

この間、去る5月25日に『暮しの手帖』6-7月号、「第4世紀100号記念」というのが発売になった。資料として必要がないかぎり買ったことがない、おれのように下世話な者には縁がない、書棚には4冊しかない雑誌だ。瀬尾幸子さんが「瀬尾新聞」という連載ページを持っていたのも知らなかった。

で、その瀬尾新聞で、大衆食堂の料理を取り上げて紹介しながら、瀬尾さんとおれとで「家庭料理ってどういうもの?」っていう対談をできないかという相談があった。「どういうもの?」ということで、もっと「家庭料理」について考えてもらえるようなことをまとめたいという趣旨だった。

ってわけで、一度企画の相談で会い、企画の内容に即していて取り上げるによい食堂を二軒取材した。

江東区深川の「はやふね食堂」と文京区動坂下の「動坂食堂」だ。どちらも、東京新聞の連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」と、ダンチューに書かせてもらったことがある。

この二軒は立地の違いに特徴があるうえ、両店のメニューをあわせると、近代の(中には江戸期までさかのぼれるものもあるが)、いわゆる「家庭料理」のスタンダードを見渡せる。「家庭料理ってどういうもの?」を考えるには、都合がよいのだ。

打ち合わせと、食堂2軒、計三日三回、どんどん飲みながら瀬尾さんと話した。かなりとっちらかった話をした。

担当の編集さんが記事にまとめたものを見て、びっくりした。さすがだ。「家庭料理論」としてはもちろん、「料理論」としても、その本質的なところが、うまく簡潔にまとまっているのだ。自分で書こうとしたら、こうはうまくいかない。これは、これからの議論のベースになりうるだろう。

ということに、どれぐらいの人が気が付いてくれるかどうかわからないが、これから「料理論」なるものへの関心は高まるだろう気配がある。そのとき、大いに参考になるはずだ。

注目点は、大衆食堂のメニューに多い、特定の名がない、名もなき料理だ。つまり、「〇〇煮」や「××焼」というぐあいに、素材に+煮る/焼く/炒める/蒸すなどの料理法がついてるだけの料理。野菜炒めなんかも、そうだ。これが、家庭でも、ありふれているし、名もないだけに、たいして話題にもならないが、太古の昔からある、料理の入り口なのだ。

ここでは、「個」という言葉を使っていないが、肝心なことは「個」と「料理」と「抑圧」の関係だ。

「個」と「料理」に対しては、さまざまな抑圧がある。そんなものは料理じゃないとか、ただ煮ただけじゃないか/焼いただけじゃないか/チンしただけじゃないか、「手抜き」だとか、健康のためとか、とくに「いい物うまい物」話が盛んで、どこそこのナントカ料理カントカ料理が次から次へと耳目を集め、それはたかだか「いい消費」ぐらいのことなのに、とても派手で華やかで美しく、日々の生活の料理は地味な後ろめたい気分に追い込まれてしまう。人目を気にしたり、自分の料理はこれでいいのだろうか思ってしまったり、とにかく、料理する「個」の気分はなかなか自由に解放されない。

「家庭料理」という言葉も、「家庭」という抑圧があって、あまりよい表現だとは思わないのだが、「管理」や「抑圧」がない、それが普通である料理について、その入り口の話をしている。

入り口を間違えると、「料理」という家に入るにも、とんでもないことになる。すでに、けっこうとんでもないことになっているから、「家庭料理ってどういうもの?」について考えてみてもよいのだ。

「個」と「自立」と「料理」の関係、そこなのだな、問題は。

ってことで、ごく気楽な対談をしている。

写真撮影は、長野陽一さん。これまで、何度か飲み会で顔をあわせているが、一緒の仕事は初めてだ。食堂の料理を紹介する写真が、誌面の関係で小さいし、被写体は地味なんだけど、いい個性を出している。

最後の見開きは、瀬尾さんの手による「名もないおかず」。

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2019/04/30

ヒグラシ文庫8周年トーク・イベントのテープ起こしです。

ここのところこのブログの更新は滞りグズグズ状態、この前連続3回のエントリーは、みな去る4月13日のヒグラシ文庫8周年トーク・イベント「飲食店ラプソディ~何の飲食店哲学の欠片もなく」のことばかりだった。ってわけで、これがうまいぐあいに連続的につながった。

グズグズしているあいだに、トークのテープ起こし(いまじゃ録音はテープじゃないが)を、トークの企画や運営でお世話になった猫のまにまにさん(フリーペーパー「猫のまにまに」「そのヒグラシ」発行人)がやってくださったのだ。

内容がよくわかる臨場感のあるまとめ。猫のまにまにさん、お疲れ様でした、ありがとうございました。

こちらでご覧いただけます。
https://note.mu/neconomanimani/n/nd424e3333aa0

5ページにわかれています。見出しをあげると、以下のようなぐあい。

(1)
型にはまらない人たちの「新しい食堂」茶話
いつでも何かまわりにあるものを面白がって取り入れて、それが、現在も続いてるだけ
餃子なんて別に食べ歩きもしないし、全然好きじゃないんですよ。
(2)
ヒグラシ文庫に行ったら「あ、こんなんオレでもできる」と思うはずです。
ボヘミアンたちの、複合・融合的シェア、ファンタジー的共同、私小説的ワンマン
苦し紛れが生み出したシェアスタイル
(3)
マーケティングやったり経営計画書いたりするなんて、まったく無駄ですよ。
出たとこ勝負的な人たちの集合体が、お店になってくる
お客さんの都合にあわせて「公園みたいな使い方」ができるお店
人生の落伍者が最後に食ってく手段としての飲み屋
(4)
餃子の皮というコンプライアンスに包んじゃえば、お店の体裁に落とし込める
個性を出すというより、世界の同じ気候帯ではとか、人が脈々と続けてきた中で今、できるもの。
鬼平犯科帳だと、慇懃無礼な軍鶏屋が実は殺人の仲介者とか、暗黒街の人ばっかり
お店をやりたいが為にお店をやるのではなく、自分の生き方を考えなおすためにその場所を使う
(5)
Q:あの、みかじめ料とか、やっぱりあるんですか? 
Q:飲食店の人たちって人が来なくて客待ってる時ってどういう心境でどういうアプローチをするのか。

登壇者

丸山伊太朗(ウナ・カメラ・リーベラ)
1980年から東京中野で無国籍料理店「カルマ」をはじめる。「こだわらないことにこだわる」をモットーに料理だけではなく人の場作りを常に模索。2001年頃より同じ中野で「una camera livera」、その後「エカイエ」、阿佐ヶ谷「イネル」を次々に共同オーナー方式でたちあげる。そこから自分の店や生き方を作り上げた人たちが全国に居て、今は実店舗はなくなってしまった「カルマ」を支えてくれている。その一人、鳥取の「カルン」の佐々木薫さんの店を引き継ぎ、tottoriカルマも運営中。

按田優子(按田餃子)
1976年東京生まれ。按田餃子店主。2012年より、食品加工専門家としてペルーアマゾンを訪れること6回。
著者に『男前ぼうろとシンデレラビスコッティ』、『冷蔵庫いらずのレシピ』、『たすかる料理』などがある。

中原蒼二(ヒグラシ文庫)
ごく若い頃、酒場のカウンターで、隣りあわせになった老人から、名刺を頂戴したことがあった。ずらりと並ぶ誇らしげな肩書には、すべて「元」が付いていた。それで貴方は、と問いかけると、老人の姿は忽然と消えていた。
1949年、東京生まれ。北九州角打ち文化研究会関東支部長。立ち飲み屋「ヒグラシ文庫」(鎌倉・大船)主宰。横浜周辺の酒飲みが欠かさず愛読している『はま太郎』の版元、星羊社から、昨年『わが日常茶飯ー立ち飲み屋「ヒグラシ文庫」店主の馳走帳』を刊行。

 

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2019/04/21

トークも写真も記念碑的。

去る13日のヒグラシ文庫8周年トーク、考えれば考えるほど貴重ないいトークだった、登壇者の写真がほしいと検索したら、星羊社さんのツイートにあった。しかも、いい写真だ。

「消費者」や「ユーザー」として「いいもの」「いい店」を追いかけ鑑賞採点消費する文化は、あいかわらず強力だけど、それとは違う「自らつくりだす」生き方と可能性がある。最近の食事や料理をめぐる発言や動きにも、そういう傾向が、はっきり見えるようになった。

そういう状況のいま、この顔ぶれでトークができたのは、「これから」へのステップになるようで、ほんとうによかった。

 

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2019/04/17

ヒグラシ文庫8周年トーク。配布資料の続き。

昨日の続き。配布した資料のテキストに、少し改行などを加え読みやすくしただけで載せておく。

トークの前半は、登壇者のプロフィールと時代背景について。

(「新しい食堂」より)とあるのは、スペクテイター42号「新しい食堂」を参照している。

◆印は、時代背景を、大きな力に寄らず「自ら生んでいく、自らつくりだしていく」インディーズ・カルチャーの視点からピックアップしたもの。

 

(前半 プロフィールと時代背景)

丸山さん 1969年 吉祥寺のbe-bopでアルバイトを始める「大学は七〇年安保前夜、闘争闘争で講義なんてほとんどない。僕自身も勉強なんかより街に出て、外でのいろんな出会いの方が何倍も面白いって気持ちもあって」。1年後ぐらいに高円寺にムーヴィン開店した。丸山さん「ムーヴィンの雇われ店長になる」

75年大学を卒業し「保父さんになる」「『ロック喫茶も保育園も同じ、まったく違った考え方や才能を持っている人がゴチャゴチャに集うからこそ面白い』——この丸山さんの発想が、無国籍食堂カルマを生んでいく」(「新しい食堂」より)

中原さん 69年『檀流クッキング』檀一雄、74年『庖丁文化論』江原恵を読む。「檀一雄と江原恵から教わったことは、権威に頼らなくとも、料理本なんかに書いてある通りに作らなくても、それはそれなりに旨いよ、自分が食べるものは、それでいいんだ、ということであった」(『わが日常茶飯』星羊社より)

◆インディペンデントなカルチャーの胎動と躍動…60年代後半~70年代、アングラ、ヒッピー、サブ・カルチャー、カウンター・カルチャーなど、既成の文化や業界に寄らない、自ら別の可能性をひらく生き方が若者のあいだに広がった。◆1969年~75年インディーズレーベルの先駆けURC(アンダーグラウンド・レコード・クラブ)◆謄写版印刷、リソグラフ、コピーなどを利用した「自己表現」など。

1976年 按田さん生まれる。

1980年 丸山さん 中野にカルマ開店。「僕たちの頃って、とにかく始めちゃおう、やってみて、ダメなら仲間どうし頭を突き合わせて工夫してみようみたいな雰囲気があったよね。それは決して料理に限らずだけどね」「ちょうどカルマを始めた年、玉村豊男さんの『料理の四面体』(鎌倉書房)という本が出たんですよ」

「つまり世界は広いけど、同じ人間だから、決してまったく違ったものを食べるわけじゃないんだよね」「結局、系統立てて料理の勉強なんかしたわけじゃないメンバーが集まって、自分ができる料理をそれぞれ「これだぁ」って作ってメニューにしていくわけだよね」「僕の中には家庭料理というのが根本にある気がする」「料理を通してその日の一日の何かが交わされるっていうようなのが基本なのかなあ」(「新しい食堂」より)

◆「無国籍料理」が知られていく…カルマのほかにも渋谷のスンダなど。既成の「和洋中」の概念から自由な、型にはまらない。「第三世界の」あるいは「第三世界的」料理。84年、エスニック料理ブームはこの一冊から始まったといわれる、『東京エスニック料理読本』(冬樹社)刊行。美術家集団「キュール」のケータリングなど、とくに料理について体系だった修業をしてない「素人」による料理の営業が活発になる。カルマでは、のちの料理研究家、高山なおみと枝元なほみなど。「無国籍料理」つまり「国籍」より「人間」の視点からの料理。

◆すでに昭和の初期に、このようなことを言っていた日本料理人がいたのだが→「どこの材料を用いて誰がつくらうと、日本国内で成す料理はみんな日本料理となり、もう一段進むと、日本料理も支那料理も西洋料理も無く、そこには人間の料理があるばかりとなります。」(『日本料理通』楽満斎太郎、四六書院・昭和五年(1930)刊、「料理概念の巻」の「(一)料理にも国境が必要か?」)

◆80年代~90年代、消費主義の繁栄の一方で、自らつくりだすインディーズ・カルチャーの広がり。DIYやシェア、普通化するエスニック料理など。
◆21世紀の幕開け、2001年頃…「手づくり(DIY)ブーム」、シロートの台頭、月刊誌『MUTTS』(マガジンハウス)。ウマイ/マズイではなく、自分の好みを自由に料理で表現する。餃子が家庭料理の人気、定番化。「カンブツ・キュイジーヌ」「カフェごはん」などの動き。東京の新進人気カフェの担い手が語る…森田大剛(1973年生まれ。吉祥寺「FLOOR!」店長)「今カフェといわれるものは、大企業や大資本がつくり出したものじゃなくて、個人が本当に好きなことをやっているだけですよ」「ブームっていったって、普通のことを当たり前にやっているだけなんだけど」
◆2008年、リーマンショック。大阪から「間借り営業」の飲食店が広がる。「間借りカレー店」が急増、スパイスカレーブーム第三世代を担う。「ここ、20~30年の料理は自己表現の時代だと思います。5千円以上の世界だったのが、カレーなら千円前後で表現できる時代に」(定食堂金剛石、ミーツ・リージョナル2018年9月号「大阪スパイスカレー」特集)

 

2011年3月、東日本大震災と東電福島原発事故。

同年4月 中原さん、鎌倉に「ヒグラシ文庫」開店。のち大船にも出店。
同年8月 按田さん、『冷蔵庫いらずのレシピ』(ワニブックス)出版。写真を担当した鈴木陽介さんと、2012年「按田餃子」を代々木上原に開店。のち二子玉川にも出店。

 

(休憩を10分はさんで、後半)

「場」や「場所」と料理や食事をめぐって。

鈴木「放っておいてくれる関係がよい」「僕は普段の生活をしていく上でも無理をせず、自分たちが今できることをやればいいんじゃないかと思っているんで。無理をしている人は格好悪いというか大変そうだなぁ」「大事なことは吉野家で学んだ」

按田「(吉野家でのアルバイトから)お客さんと店員さんとの距離もそんなに縮まらないところも良いんです。その感じが銭湯にも似ていて、そこが自分の性に合っていたと思います。必要だから、そこに来ている感じというか。私たち按田餃子も、お客さんのお腹を満たすためにやっている。そこは似ていると思います」

鈴木「人間一番淋しい時って、居場所がない時じゃないですかね」「誰のものでもないし、特別な場所でもありません。たかが餃子屋ですが、どんな方にもご飯の時間と場所を提供したい。それが『助けたい包みた按田餃子でございます』ということになります。だから、ひとりでも、誰かとでも、今日はもう面倒だから按田餃子でいいか。そうだな、それでいいか。という時に、お店に来てもらえたらとっても嬉しいです」(「新しい食堂」より)

按田「ふだんの食事はしびれ旨くなくていい」「『ふつうの味』を作りたい」「だいたいの人の実家は頓珍漢でカオスに違いないと思っています」「鈴木さんも『家っぽく』『生活の邪魔をしないように』と思っていたのでした」「気取らず食事ができるように」(『たすかる料理』リトルモア、より)

中原「家と仕事先だけではなく、もう一つの『場所』が必要だ。それを自分で作ろう、と思った」「店はせまい、でも遠くへつながっている」「メインのスタッフも、誰ひとり包丁修行などをした経験者はいない」「メインスタッフが代わるたびに肴も変わる。しかし、時間が経って「名物」とでも呼びたいものが出てくる」(『わが日常茶飯』(星羊社)より)

丸山「いろいろ日々混じりあっている」「八十年代にはフュージョン(融合)って言葉が流行ったでしょう?」「食堂って場だと思うから、美味しいものを出すのも大切だろうけど、やっぱり楽しいところじゃないと、というのがあるよね」(「新しい食堂」より)

 

飲食店→産業や業界に位置づくためにがんばったり無理をするのではなく、大きな力のヒエラルキーの外側で地域に位置づくことで自由にやれる余地がある。→本当の自己責任。

 

20分ほど質疑応答のち終了。

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2019/04/16

充実泥酔。ありがとうございました、ヒグラシ文庫8周年トーク。

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去る13日の鎌倉「まちの社員食堂」での、ヒグラシ文庫8周年トーク、ありがとうございました。

定員以上の集まりで、立ち見も出てしまいましたが、トークのあとの蕎麦屋での懇親会、そのあとヒグラシ文庫へ移動しての懇親会まで、たくさんの方にお付き合いいただきました。

人前で話すのは今回が最後になると言っていたヒグラシ文庫主宰の中原蒼二さんも、元気そうな姿を見せてくれてうれしかった。

按田さんとは、ずいぶんひさしぶりだった。彼女が7年前に按田餃子を出すことなど空想にもなかったころ、中野で数十秒ぐらい言葉を交わした以来だったが、二人とも覚えていた。「こういうところでお会いすることになるとは、想像もしてなかったですねえ」と、お互いに。

丸山さんは、中野にあったカルマに1990年前後だったか、入って食べたときチラッと見かけた以来だった。

なんだか、ここで会うのは必然のようでいて、やっぱりスペクテイター42号「新しい食堂」がもたらした偶然なのだ。

トークは、13時半開場で14時スタートだったが、スタッフのみなさんは10時に集合し準備をしてくださった。

登壇者のみなさんも12時に集合だった。みなさん、懇親会まで、長時間お疲れさまでした。

おれは司会だったけど、もともと起承転結が苦手のいい加減な人間なのでキッチリしたことはできない。登壇者の方と茶のみ話をしているところを見てもらう感じでということで始めた。

それに、じつは、東大宮を10時ごろ発ち、鎌倉までの2時間ほどのあいだ飲み続けで、会場に着いて打ち合わせの時も、みなさんはコーヒーなどだったが、おれだけ酒だった。すみません、アル中なもので。

このトークは、とくにこれから飲食店をやりたいと思っている方に聞いてほしいという企画だったから、最初に「飲食店をやりたいと思っている人」に手を挙げてもらったら、半数近くいたので、正直おどろいたし、うれしくて調子にのった。

懇親会のヒグラシ文庫の途中から泥酔意識喪失、その状態で2時間ほど電車に乗って東大宮の自宅まで帰った。どうやって帰ったのかわからないが、とにかく無事に帰っていた。

いい集まりだった。

おれは、司会のために、イチオウいろいろ読み返し準備をしたのだが、だんだん面白くなってメモにした。それを簡単にまとめたものを50部ほどコピーし会場で配った。

1ページ目だけを、ここに載せる。これは、トークの最初の出だしで、登壇者の方々を紹介するためのメモだ。

このあと4ページほどあるのだが、トークの内容に関係することで、これがけっこう面白い、と自分では思っているので、もしかすると明日以降に、ここに載せるかもしれない。

とくに丸山さんが関わっていた1960年代中ごろからのインディーズ・カルチャーの台頭と、当初は「無国籍料理」などと自称したり他称されたりした食文化の動向は、おれも意識していなかったが、もっと検討されてよい。カルマのスタッフだった高山なおみさんなど、按田さんの料理もそうだし、この流れは脈々と存在する。

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2019年4月13日(土)ヒグラシ文庫8周年トーク 司会資料(エンテツ作成)
「飲食店ラプソディ——何の飲食哲学の欠片もなく」

スペクテイター42号「新しい食堂」が縁になってのトーク。「新しい食堂」「これからの食堂」を始めたい人のために。トークを参考に、自分がやりたい食堂を自分なりにイメージしてもらえたらいい。

丸山伊太朗さん(ウナ・カメラ・リーベラ)
 1950年生まれ。1980年、無国籍料理「カルマ」開店。2014年「カルマ」閉店のちシェアカフェ「ウナ・カ メラ・リーベラ(ウナカメ)」発足。
按田優子さん(按田食堂)
 1876年生まれ。2012年、「按田餃子」開店(写真家・鈴木陽介さんと共同経営)。代々木上原と二子玉川。
中原蒼二さん(ヒグラシ文庫)
 1949年生まれ。2011年、立ち飲み屋「ヒグラシ文庫」開店。鎌倉と大船。

三者三様
シェア、共同経営、ワンマン、性格や好みなどの違いによる料理と運営→丸山さん複合融合的、按田さんファンタジー的、中原さん私小説的。

だけど、共通点があるようだ。
◆「新しい」からよい「古い」からよいではない。◆ボヘミアン―旅人的—より自由、解放的かつ開放的。きちっとした生き方(「特定の業界」に位置づいていく)からの逸脱。出たとこ勝負に強い。◆素人からの開店(料理について系統立てた勉強や修業をしてない)◆それぞれの日々の生き方としての料理や食事…家庭料理、日常性、「ふつう」を基本にしている。

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トークのあとアンケートをお願いしたのだが、片づけでワサワサしているにも関わらず、多くの参加者のみなさんが熱心に書いてくださり、感動した。一部をここに紹介する。

・大学を卒業して、何をなりわいとして生きていくか悩んでいたところ、参加しました。食堂、飲食店に関わらず、人の集まる場づくりを、自分の地元、鎌倉で開業したいと思いました!
・食堂や場所つくりに興味があり参加しました。どうしても、お店をつくるというとなんとなく難しいコンセプトを考えつめなければいけないような気がしていたのですが、お三方のお話、特に丸山さんのお客さんの意見でお店をつくっていくという話に、大切にする部分を忘れないようにしながら、色んな意見をとりいれて、やっていけばいいのかと少し気が楽になりました。
・今、何かをはじめたいと思っているところです。(家以外の、ひらけた場所を使って皆が幸せになるところをつくりたいと思っている)皆の話をきいて、すぐ私でも始められると嬉しい気持ちになりました!
・ほったらかしの話がよかったです。暇でも大丈夫なのは能力なのだと思いました。私もようやくそうなってきました。
・生のお話が伺えてよかったです。多分語りつくせぬほどのご苦労があったと思うのですが、それを感じさせない内容が強い生き方だと思いました。
・司会の遠藤さんも含め、四人四様の面白さを楽しめました。
・皆さん個性的で楽しかったです。
・とても楽しかったです。またやってください。
・最後の苦労話のところが面白かったです。私は専ら客の側なので、居場所としている店がこういうふうにできている、的に聴いていました。
・自分の今に丁度良い内容でした。

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2018/01/16

「四月と十月文庫をおおいに語る」トーク、盛況御礼。

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一昨日、下北沢の書店B&Bで行われた、『仕事場訪問』(牧野伊三夫、港の人・四月と十月文庫)刊行記念トーク「四月と十月文庫をおおいに語る」には、たくさんの方にお集りいただき、ありがとうございました。

トークのあとの打ち上げ参加者も多く、会場に入り切れない事態が発生、さらにそのあとにカラオケへ行った人たちもいたようだ。

とくに高邁な目的や結論があるわけじゃなし、役に立つ話など少しもなかったトークだったと思うが、楽しんでいただけたなら幸い。

港の人の社長、上野勇治さんの司会で始まり、まずは脱稿旗の返還と授与があった。

いつもなら、四月と十月の出版記念会で行われるのだが、牧野さんが二冊目ということもあり、この場を借りて「公開」で簡単に行うことになったもの。

前回7冊目『理解フノー』の著者であるおれのもとにあった脱稿旗を編集室に返還し、編集室から牧野さんへという儀式だ。しかし、気がついたら、おれの手元にあるはずの脱稿旗がない。そういえば、一昨年12月にあった『理解フノー』出版記念会で泥酔したおれは、脱稿旗を持ち帰らなかったのだ。

なんとなく瀬尾幸子さんが持って行ってくれたような気がしたので電話をするが通じない。とりあえず、脱稿旗が手元にない旨を牧野さんに知らせておこうと牧野さんに電話をした。そしたら、どういうわけか、牧野さんのところにあったのだ。

というわけで、一昨日は、牧野さんが持って来てくれた脱稿旗を受け取り、おれから牧野さんに返し、それを上野さんから牧野さんに授与するというややこしいことになった。

そのあとトークになり、まずは牧野さんとおれの出あいの話からスタート。牧野さんとおれが出あったのは、2001年の秋だった。あんなことがあったね、こんなことがあったねの話から、四月と十月のことや四月と十月文庫のことへ。

1冊目の『えびな書店店主の記』(蝦名則著)、2冊目『装幀のなかの絵』(有山達也著)、3冊目『ホロホロチョウのよる』(ミロコマチコ著)と、おれがツッコミ役で話を進めることになっていたので、テキトウに合いの手やツッコミを入れたりしていた。

かなりしてから(たぶん1時間は経過し、残り30分ぐらいになった頃)、牧野さんがスライドを作って来ていたことを思い出し投影、なーんだ、これを最初から使えばよかったのに、忘れるんじゃねえよ。いろいろボロが出る楽しみもあった。

いちおう、これまでの著者と著書について、あれこれ話したところで、カンジンの『仕事場訪問』については十分な時間もなくジ・エンド。

とくにまとまったイイ話はなかったけど、爆笑もあり、場の雰囲気は盛り上がりが持続して終わった。エンターテイメントとしては、上出来だったか。

15時スタートで16時半にトークは終わり、サイン会になった。牧野さんのところには、たくさん並び、おれは思いがけなく2冊が売れサインをした。

打ち上げは近くの中華料理店だった。18時からだったので、牧野さんと銭湯へ行くことにしていてタオルは持っていたのだが、会場でひさしぶりに会った人たちと立ち話などをしているうちに銭湯グループとは別れてしまい、京都から取材に見えた方と話しをしながら5人ほどで、晩杯屋へ。入ると、ほかにも2グループほどいるではないか。

打ち上げの席は足りなくなるのではないかと思っていたら、やっぱり20名以上の参加で、同じ会場に収まらず。

入れ替わり立ち替わり、あるいは立ったり、会場やテーブルを移動しながら、とにかく飲んで楽しくすごしていたが、なんだかトークで時間がなくなって話せなかったことが気になっていて、酔った頭で口にした。

それは、牧野さんが「画家の文章は面白い」と言っていたことについてだ。

おれも『四月と十月』本誌を読んでいつもそう思っていたし、近ごろはますます「文章家」の文章より画家や音楽家の文章が面白いと思っていたから、そのことに話をふったのだ。

牧野さんもおれも酔っていたが、そのやりとりをみんなが聞いていて、その話、トークのときにやればよかったのに~、という声もあったりした。すみませんねえ。

このことには、「画家的」や「画家的視点」ということや、牧野さんの考える「画家」について、それから「文章家」が文章家的視点より出版業的視点に陥りやすい事情などが関係しているようで、ツッコミどころはたくさんあって興味深いのだ。

21時すぎに解散。おれはスソさんと帰ったが、たいがいはカラオケへ行ったらしい。

体調を悪くし長いあいだ療養中だった言水ヘリオさんが姿を見せてくれたのがうれしかった。

当ブログ関連
2017/12/11
1月14日は、下北沢の本屋B&Bでトーク。

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2016/10/13

ぴあMOOK『東京大衆食堂100』で巻頭インタビューと「進化」。

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10月初め、きのう書いた『dancyu』11月号が出たころ、ぴあムック『東京大衆食堂100』が発売になった。これ、いま奥付を確かめたら、発行日は今月30日になっている。このへんの仕組みは、出版業界に疎いおれには、よくわからない。

とにかく、『東京大衆食堂100』の巻頭インタビューに登場している(巻頭インタビューに応じただけで、企画編集取材には関係してない)。

013001発行は「ぴあ」だけど、編集は「下請け」といわれる編集プロダクションで、その会社から連絡があって、登場することになった。社長さんやら担当の編集さんやらから、いろいろメールがあり、どれもしっかりしたやりとりにならず、なんだかドタバタな様子で、大丈夫かな~と思いながら、ま、そのへんが「編プロ」のおもしろさだろうと思いながら付き合っていた。

しかし、インタビューの場には、それまでメールでやりとりがあった人たちとはちがう女性があらわれて、この人がインタビューをまとめたのだけど、インタビューの最中から食いついてくるところが、おれ的にはツボで、これは期待できそうという感じだった。

インタビューと撮影は、三鷹のいしはら食堂で行われた。そこからの帰りの電車で、彼女は錦糸町生まれ育ちと知った。それでちょっと納得のいく点があった。

実際の仕上がりは、おれも途中で原稿チェックはしているけど、文章は少々あらっぽいながらも、基本的にはうれしいセンでまとまった。

扉の見出しにある「大衆食堂に批判はご法度」の文言が、ちょっとキツイなあと思い考えたが、おれは編集さんがつけた見出しには口をはさまない主義でもあり、けっきょくそのままにした。そこに、彼女の「熱」を感じたからだ。

それは、本文中の見出し「大衆食堂は”おもしろい”の宝庫」「味の傾向を知る基準になる料理を見つけておくと便利」の内容につながるところなのだが、このあたりの話はかなりカットされて、「ぴあ的」に都合のよい消費的な興味の対象になるところがチョイスされるのをカクゴしていたのだが、違っていた。先入観は、いかんね。

って書いても、読んでない人には、わかりませんね。

ところで、ここから、昨日の話と関連する。

このムックには、昨日の菱田屋も登場しているのだが、その見出しには、こうある。

伝統を守りつつ
新たな風が吹き込まれ
進化し続ける

このように「進化」という言葉が使われている。こういう例は、けっこう多いと思うのだが、たぶん「伝統」に対して「新しい」が継続している状態をあらわしているのだろう。

おれはインタビューで「テッパン大衆食堂の見つけ方」を話しながら、オススメの食堂を3店あげて欲しいといわれ、そのようにしている。

編集全体としては、売り上げが大事だから都心のターミナル駅などを中心にした店のセレクトになるので、おれは都心からはずれた場所で選んだ。

そのうちの一店が、野方の野方食堂だ。

そこでおれは「野方食堂は古い食堂なんだけど、代替わりして建物も新しくなった。でも実に見事に歴史を継ぎながら、新しくなっているんですよ。家族経営の雰囲気も残しているけど、昔のままでもなく、かといって個性のないチェーン店でもない。新しいスタイルの食堂の可能性を感じさせる」と話している。

これも、「歴史」に対して「新しい」であり、「進化」といえる。

だけど、この2店は、方向性が違う。それは、内装にも表れているのだけど、場所や経営や人の条件など「歴史」の継続は負荷でもあるから、人間がシステムを動かしているようでいながら、システムに従いながら変化しているのと同じ状況があらわれる。

ようするに、あるのは「変化する環境への適応」であり、それを「進化」と見るかどうかは、「見方」のことなのだ。だけど、とかく、とくに科学や技術や技能のことになると、「進化」は客観的に存在し「善」であるかのようなことになりやすい。その反対は、もちろん、「退化」だ。

だけど、ほんとうに、そうなのか。それは、「進化」の現代病と思われなくもない。

と思っていたら、ちょうどきのう、ツイッターで、こういうのを見つけた。とてもおもしろい。

「退化」は進化の一環、新たな力を得た動物たち
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/101100383/?n_cid=nbpnng_twed

「進化」って、なんだ。一義的には、「新しい」かどうか「進化」かどうかではなく、環境への適応じゃないのか。「退化」は、必ずしも「悪」ではない。

「新しい」「進化」だと評価され注目されながら、消えていったものは、いくらでもあるような気がする。消えれば、忘れられる。ようするに昨今の「人間社会」では、市場性や売り上げしだいで「進化」が評価されるということか。

と、退化する野暮は考えているのだった。

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上、野方食堂。下、菱田屋。

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2016/01/18

ふみきり@溝の口でのトーク、盛況御礼。

一昨日のふみきり@溝の口での坂崎仁紀さんとのトーク、ご参加のみなさん、ありがとうございました。

ふみきりはスタンディングが基本の店とはいえイスも用意してあり、人数によってはイスを使う予定だったけど、それでは入りきらない人数になったことから、トーク後の懇親飲みも含め約4時間立ち続けというアリサマだった。お疲れさまでした。

002最初の写真は、会場のものではなく、大宮のいづみや。なんだか、なごみますね。

おれは、東大宮から遠い溝の口へ行くのに、まずは大宮のいづみやで一杯やり、つぎに新宿あたりで一杯やり、という予定で、早めにウチを出た。近頃のいづみやは、いつも混雑していて(最近また『散歩の達人』に載った影響もあるらしい)、この日も9割方の入りで、空いていた壁と向き合うカウンターに座ったら、目の前に、このPOPがあった。

これ、どうやって作ったのだろうと、目を近づけて見るけど、わからない。とにかく、絵柄はいづみやのおばさんの感じがよく出ているし、だけど手描きでもないし、オリジナルでもないようだ。それにしても「舶来ハイボール」とは、まさに昭和的表現。

デレデレ飲んでいるうちに、気がつけば、時間がギリギリになっていた。もはや、新宿でもう一杯の余裕はない。渋谷で田園都市線に乗り換え、ふみきりに着いたのが17時。トークのスタートは17時半の予定だ。

ふみきりは、初めて行ったのだが、コの字カウンターの店。厨房ではタイショーが料理を作っていた。「タイショー」とは、以前から、ときどき当ブログに登場している、塩崎庄左衛門さん。たぶん10年以上前、タイショーと初めて会ったときは、カメラマンだった。そのころは、田口ランディさんと一緒にメキシコを旅し写真を撮り、『オラ!メヒコ』(角川文庫)という本になっていたり。いまでも、カメラマン仕事もやっているらしい。おれとは日本森林再生機構の同志だ。ようするに、一緒に酒を飲んでいるだけで、よくわからない楽しい関係なのだ。

そのタイショーが『ちょっとそばでも』の著者・坂崎さんと知り合いだった関係で、今回のトークになった。坂崎さんとは、昨年後半、鴬谷の信濃路でタイショーに引き合わされた。その後、メールでのやりとりはあったが、顔を合わせるのは、この日が2回目。

これまで東京西南方面でのトークというと、下北沢や経堂では何回もトークをやっているが、渋谷の大盛堂書店で速水健朗さんと対談、鎌倉でヒグラシ文庫の主催で瀬尾幸子さんと大竹聡さんと鼎談をやっているだけで、東急沿線では初めてだ。

ということで、今回は、いつもの野暮連な面々のほかに、横浜方面の方々が来てくださった。予告もなくあらわれた、久しぶりのエロモリタ夫妻、うれしかった。かねがねお会いしたいものだと思っていた在華坊さんが来たくださり、うれしい初対面の挨拶。

エロモリタ夫妻は、あいかわらずエロ元気で楽しい。トークが始まる前からエロ夫妻と野暮連周辺は、「野暮は正しい!」「エロは正しい!」とエロウ盛り上がり、そのままトークに突入した。

もちろん、坂崎さんのお知り合いや、立ち蕎麦ファンの方もおられた。

坂崎さんとおれとで事前に用意した、といっても、おれは写真をセレクトし坂崎さんに送っただけ、坂崎さんがまとめてDVDにしてくださった。それを映し、その前で、トークする。お客さんも立ったまま。店内一杯なので、舞台スペースというほどのものもなく、お客さんのなかに混ざりあう感じで、これが、なかなかよかった。やはり、舞台的空間と客席的空間が別なのとは、だいぶちがう。

最初の画像は、かつては、都内の「国電」の駅いたるところにあったが、いまは秋葉原駅の総武線ホームにしか残っていない「ミルクスタンド」だ。そして、話は、「初めての立ち食い」ってあたりから。

戦中の1943年生まれのおれの年代は、たいがい「立ち食いイケマセン」で育っている。田舎育ちも関係するのだろうけど、上京して、ミルクスタンドの前で立ったままパンと牛乳で腹ごしらえすることに抵抗感があった。抵抗感がありながらも、空き腹には抵抗できず、利用した。1962年頃の「国電」駅には、ミルクスタンド以外、たいしてなかった。

1959年鎌倉の生まれ育ちの坂崎さんのばあいは、『ちょっとそばでも』の「名代 富士そば」のところにも書いているように、10代ぐらいに、この渋谷店に行った記憶がある。

そこにある年代と体験の差は、立ち食いをめぐる文化の変化でもある。

蕎麦は江戸の「ファストフード」といわれたりするけど、「立ち食い」となると事情は単純ではない。立ち食いは、戦前からあったのだけど、都市の下層労働者のあいだでのことだった。そして、戦後は、都市のサラリーマンとの関係で成長した。つまり、高度経済成長期と重なる。立ち食いが「市民権」を得て、「ファッション」にまでなったのは、1970年代前半、マクドナルドの進出からだろう。

そうそう、イチオウ、このトークのテーマは「これが昭和だ東京の味だ」ということだった。立ち食い蕎麦は、戦後の昭和の食文化や東京の食文化を、とてもストレートにみることがきる。もちろん大衆食堂もそうなのだが、大衆食堂は立ち食い蕎麦店より空間的なゆとりがあったぶん、空間の物語性が占める割合が大きくなる。過剰な人情話など。

立ち食い蕎麦店は、近年はイス席が拡充するなど様子が変わってきたが、それでも基本は、金銭と時間の制限がある勤労者によって支えられている。空間に物語性があったとしても、お客の滞在時間は短いし、そこに期待される割り合いは、わずかだ。

おれは、そう思いながら、このトークにのぞんだ。

いろいろ話は転がり、最後は、「いい店おもしろい店」を画像で紹介しながら、興味深いところを話して、終わりとなった。

立ったままのトークというのは初めてだったと思うが、身体を自由に動かせるから話のリズムをとりやすい、スタンダップコメディのように、調子よく楽しく話を運べるが、トシのせいもあって疲れる。最後の方は、疲れて、メンドウになって、終わりにした。

あとは、もう懇親会がにぎやかでしたね。これが楽しみのわけです。もうドンドン飲んで、途中からよくわからない、どうやって帰ってきたかもわからない。よく帰って来れたなあ。

書くのもメンドウになったので、これぐらいで。

酔仙亭響人さんがツイッターに写真をアップしてくださった。どうもありがとうございました。

在華坊さんも、ツイッターでコメントしてくださいました。ありがとうございました。そのうち、在華坊さんと野毛を飲み歩きたいと思っています。

溝ノ口『ふみきり』で、エンテツこと遠藤哲夫さんと坂崎仁紀さんのトーク。立食いの都市下層労働者からサラリーマンへの需要変遷、北関東の粉食文化、街場の蕎麦と一味違う大衆蕎麦、関東の味とは砂糖と醤油、大衆食における出汁の意味、面白い大衆蕎麦大衆食堂の店情報、興味深い話テンコ盛りだった!
22:01 - 2016年1月16日
https://twitter.com/zaikabou/status/688345295474720768

溝ノ口『ふみきり』は居心地の良い店でした。トークのあとは、エンテツさんや、野毛をはじめあちこちの飲み屋事情に詳しい方、野毛闇市についての出版関係の方、美術館関係の方、牧野伊三夫さんのお知り合い、歓楽街の社会学に知見のある方、いろんな方とお話できて、とても楽しい時間でありました。
22:06 - 2016年1月16日
https://twitter.com/zaikabou/status/688346552553754624

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2015/01/10

発売中の『dancyu』2月号に、おれのフチが欠けた酒器が載っている。

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先月末、いや、昨年末に、掲載誌が送られてきていた『dancyu』2月号は、すでに6日に発売になっている。

特集は「日本酒クラシックス」のタイトルで、毎年恒例といってよい、日本酒特集。「家呑みを語る あの人の、この盃 呑みたくなる酒器」というページがあって、おれが愛用の酒器が、おれのコメントもついて載っている。

ほかにご登場のみなさまは、落語家の春風亭一之輔さん、文筆家の木村衣有子さん、グラフィックデザイナー、作家の太田和彦さん、フリーアナウンサーの平井理央さん、漫画家の吉田戦車さん。

おれの肩書きは、いつも「フリーライター」でよいのだが、そういうわけにもいかないらしく、編集サイドにまかせている。今回は「大衆食堂の詩人」と。

ま、ついでのおりにご覧ください。

ところで、その酒器。もう長い間、どんな清酒を飲むにも、これしか使ってない。

ずいぶん前にフチが欠けてしまった。そのまま。だいたい、皿でも欠けたぐらいでは捨てないで使っているから、特別に思い入れがあるわけじゃないけど、ほかにリッパな盃があっても使う気がしない。おれ自身、無欠を誇れるような人生でもないし。いまでは、すっかりおれの心身に馴染んでいる。

掲載のついでに、いつごろ買ったか調べたところ、1980年代の始め、美濃で買っていた。80年代は、美濃や瀬戸へ、何度か行った。江原生活料理研究所の開設や、しる一の開店、そのあとほかの飲食店の開店の手伝いなどが続き、半分は仕事。それから、バブルのころは、関西へ遊びついでに寄ったりもした。

この酒器は、織部焼だが、そのころおれは(茶をやっていたわけじゃないが、日本料理に関係するから)、わびさび茶から大名茶へ、とくに有楽、織部、遠州あたりへ興味が移っていた。それで、美濃でこれを見たとき手を出した。

80年代始めのころは、東京のデパートあたりでも、織部焼はめったに店頭に並ぶことはなかった。おれの記憶では、織部が一般に広まったのは、『美味しんぼ』がきっかけで、魯山人が一般に知られるようになってからだと思う。魯山人から織部を知ったという人も少なくないだろう。

ちなみに、中公文庫の『魯山人味道』は1980年の発行、『魯山人陶説』は1992年の発行、ビッグコミックで美味しんぼの連載が始まったのは1983年。

80年代、美濃や瀬戸の窯や町を訪ねて、最も衝撃的だったのは、瀬戸の変わりようだった。80年代始めは、まだ「瀬戸物」の町だった。町の中心部を流れる川に沿って、瀬戸物屋が軒を連ねていた。

だけど、瀬戸の窯は曲がり角だというウワサもあった。一つは、原料の鉱山が先細りのこと、一つは、発展する名古屋や豊田などの住宅地として期待が高まっていること。原料は輸入に押されてもいたが、鉱山や窯の土地は、住宅地への利用のほうが「経済効果」が高くなる動きにあった。

80年代の後半、瀬戸を訪ねたときは、軒を連ねていた瀬戸物屋は、見た目、半分以下になっていたし、とくに小さな店舗は壊滅状態で、無残なさびれぐあいだった。わずか数年のあいだの、この変貌には、びっくりした。

行くたびに焼物の話を聞いて親しくしていたオヤジの店も空き家になっていた。その前で、しばしボーゼンとしましたね。

そのオヤジは、焼き物にとりつかれ、自分で窯を持ち、とくに「利休茶碗」に近づくため苦労していた。いくつも作っては捨てを繰り返していた。そのなかの、いくらかマシという一つを、オヤジがくれるというのでもらって、飾っておけばよいものを、そういうココロのないおれは、めし茶碗に丁度よいので使い、いつもおやじのことを思い出していた。その茶碗は、十年少し前、うっかり落とし、割れてしまった。

この酒器を見ていると、そんなことまで、思い出すのであります。

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2014/12/22

自分に合った『深夜食堂』を持つ方法(後編)。

土曜日締切だったが二日酔いで仕上げられなかった原稿は、今日の昼に仕上げて送った。

忙しくているあいだに、いつのまにか、「自分に合った『深夜食堂』を持つ方法(後編) エンテツさんに聞く酒場のカウンターカルチャー」が掲載になっていた。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/campanella/20141210/274996/

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