2016/10/29

六日町中学校同期会。

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今月初めに発売になった、四月と十月文庫7『理解フノー』の最後の項「坂戸山」の書き出しは、こうだ。

「二〇〇一年十一月某日、ついでがあって故郷の六日町を訪れた。町の東側にそびえる坂戸山は昔と変らない、真っ赤な紅葉だった」

去る10月16日、六日町中学校昭和34年卒業の同期会があって、六日町へ行った。坂戸山の紅葉には、まだ早かった。

会場のホテルで、16時半から記念写真撮影、17時から宴会になった。参加者は約60名。二次会、三次会と飲んで、もう途中からよく覚えていない。

おれたちは中卒者が「金の卵」といわれた世代だ。高校進学率は40%ぐらい。

幹事の報告によると、同期の卒業生265名(5クラスだから1クラス50名以上)。うち物故者39名。39名のうち7名が、3年前の70歳のときの同期会以後に亡くなった。ひさしぶりに同期会で会って、また話したいと思っていたひとが、何人か亡くなっている。

物故者39名の名簿もあった。卒業後、最初に亡くなったひとのことは、よく覚えている。卒業した年の初夏に自殺したのだ。3年生のとき、同じ学級で、彼女は級長で、おれは副級長だった。彼女は成績がよかったけど、家庭の事情で定時制高校に通いながら昼は県立病院に勤めていた。

卒業前、働きながら勉強して看護婦になるんだ、それが一番いいんだ、というようなことをいって、フッと笑った。彼女が、にぎやかにほがらかに笑うところを見たことがない。いつもうつむき加減にしていたが、そのまま、かすかに風が吹いたようにフッと顔をほころばせるのだ。たぶん笑ったのだろうと感じるのだが、笑いだったのかどうかはっきりしないような。

あの彼女が死んだ夏のお盆休み、彼女と親しかった5名で、死後初めて彼女の家を訪ねた。そのときのことも、よく覚えている。

彼女が首をつった朝のことを、彼女の母親に聞きながら、おれたちはワンワン泣いた。いや、おれは泣かなかった。その母親に殴りかかりたくなる衝動をこらえていた。

その朝、彼女は二階の自分の部屋から降りて来て、朝の膳の前に座ったが、うつむいたままだったそうだ。なかなかめしを食べないので、母親は「ほら早く食べて行きな」というようなことをいったらしい。彼女は、「うん」といい、そのまま食べずに二階にあがった。そして二度と降りて来なかったのだ。

彼女の家からは、街中とは少しカタチのちがう坂戸山が見えた。彼女の家は、街のはずれから田畑のなかを突っ切る17号を10分ほど歩いたところにあった。農家で、彼女の下には弟や妹が何人かいた。

当時は、拡張されたが舗装されていなかった17号の広いジャリ道を、おれたちは行きも帰りもトボトボ歩いた。強い日差しの下で、一直線のジャリ道は真っ白に見えた。

同期会では、死んだひとのこともいろいろ話題になるが、彼女の話をするのは、なんとなくタブーだ。あの日、彼女の家を訪ねたのは、女3人と男2人だった。男は、おれともう1人で、彼のことは覚えているのだが、女3人が誰だったか思い出せない。話を切り出して聞ける「空気」でもない。ま、それでよいのだろう。

同期会には、『理解フノー』の「坂戸山」に出てくる、「マサオくん」も来ていた。岩登りで転落したが木の枝で命拾いした「ケンイチくん」も来ていた。

同期会に参加したのは、「クスリ自慢」のひともいるが、比較的元気のよいひとたちだ。元気がよくて、遠方に旅していて参加できなかったクボシュンのようなひともいるが、どこかしら身体のぐあいが悪く参加できないひとも少なくない。

「老老介護」も体験したり体験中のひともいる。誰もが、死をシッカリ見ているようだった。3年前より、その気配は、確実に濃くなっていた。

死だけは、すべてのひとに平等に、けっこう残酷にやってくる。そういう感慨を、酒漬かりの身体に抱いて帰って来た。

今年は、しっかり冷え込まずにグズグズ暑い日が続いたので、紅葉のぐあいがよくない、紅葉する前に枯葉色になってしまうと地元のひとがいっていた。そういえば坂戸山も、うっすら枯れた色が見えた。

つぎの同期会まで生きて参加できるだろうか。こんどは、いつ坂戸山を見るのだろう。

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2013/10/24

故郷で古稀記念同期会。

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21日の月曜日は、六日町中学12回卒古稀記念同期会で帰省した。

これまで会場は六日町の温泉だったが、今回は湯沢だった。新幹線で行くには便利だ。夕方16時ごろまでに着けばよかったので、その前に、気になっていた上越線の大沢へ行ってみることにした。

この大沢地区は、以前から魚沼産コシヒカリのなかでもうまくて高値がつくと評判の地域だ。それに、ここには「わが家の卵」という、たまごかけごはんを売りにしている食堂がある。

というわけで、東大宮10時過ぎの電車に乗って、越後湯沢に12時半ごろ、上越線に乗り換えて大沢は2つ目なのだが、列車の本数が少ないので、13時半ごろ大沢に着いた。ウロウロし途中で会ったおばさんやじいさんに土地の農業や米作りの話など聞いたり、「わが家の卵」では「きりざい丼定食」を食べて、おやじさんに米の話を聞いたりした。


047002そういう大沢の話は、あらためて書くことにする。

16時ごろ、同期会の会場である湯沢のホテルに着いた。大きなホテルで、ロビーでは、なんと、6組ほどが同級会や同期会などの受付をしていて混雑。平日だから、どちらもおれたちと同じ高齢者ばかり。なかでも、おれたちの受付が一番大きく、大人数が集まっていた。

2年前の同期会でも会って、顔を見ればすぐわかるひと、まったく思い出せないひと。受付を終えて、割り当てられた宿泊の部屋は、卒業年度に同じクラスだった5人。前回も参加している3人に、アメリカから帰国のAくんは同期会以外で何度か会っている。

一休みしてから、コンベンションホールに集合。記念撮影、古稀のお払い、そして幹事の挨拶。卒業後の物故者34名、そのうち前回からの2年間のあいだに亡くなった9名の名前が読み上げられ、黙祷。そのうち3名は、小学校からの友人だったので、亡くなった連絡は受けていたが、9名もいて、しかも全員男子。

Aくんの乾杯で宴会が始まった。還暦のときは120名ぐらいの出席があったと記憶するが、今回は63名。本人や家族の健康や仏事の都合で参加できないひとが多数いた。そういうトシなんだなあ。

参加したひとたちは元気で、あとは、もう、飲む、食う、しゃべる。

高校卒業して上京した年に東京で一度会ったきりの友人マサオくんがいた。同じ町内で、一緒に銭湯へ行き、おれの家で大いに飲み、山へも何度も一緒に行った。その話しになった。とくに登山は、台風接近中の嵐のなか登った巻機、かなりハードな縦走だった魚沼三山、そして1962年高校卒業の3月に記念にと登った雪の坂戸山の話になった。やはり、どれも記憶に残る登山だったのだ。

その坂戸山登山のことは、ザ大衆食のサイトに書いてある。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/sakado.html
同じ町内の同じ歳の友人で、よく一緒に山登りしたマサオくんが、
高校卒業して東京へ出たら、もういつ登れるかわからない、記念に登っておこうと言った。
雪がしまっている早朝に登るのが楽でよいだろうと、平日だったが、
登校前の夜明けと同時ぐらいに家を出た。

23か4歳のとき以来に会う従兄弟もいた。

お互い、自分が覚えていないことをほかのひとが覚えていて、そんなことがあったか、と、話はつきない。考えてみると、在学中からそうだったが、個性が強い割には嫌味なやつが1人もいない。だからなのか、同期会の集まりもよいのだろう。だいたい5年に1度と決まっているのに、2年前のときのように、どうしてもやりたいというやつがいると開催し、短期の準備でも80名も集まったりしたのだ。でも、まあ、出席できたのは、よいほうなのだ、そんな話もしていた。

おなじホテル内で飲み放題の2次会、さらに3次会を幹事たちの大きな部屋で。途中から記憶なし。

091朝6時ごろ目がさめ、温泉に入って、朝食。9時半ごろ、ホテル前で写真撮影をして解散。おれは、有志たち13名とホテルのマイクロバスで、外山康雄「野の花館」と雲洞庵をめぐって六日町へ出るコースへ。ひさしぶりに、「野の花館」と雲洞庵を見て、帰ってきた。

もうヨレヨレで、昨日まで疲れが残った。

はて、今度は喜寿か、その前にあるか、それまで生きているか。誰もが、そんな思いで、別れたようだった。

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2013/06/08

魚沼コシヒカリ十日町取材紀行番外編、おたまじゃくしも人間も水の子か。

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一昨日のエントリーに書いたように、今年は5月になってから、梅雨に入っても雨が少なくて、水不足の影響が危惧されている。

今日のNHKのネットニュースでも、「少雨 秩父市のダム貯水率2%余に」の見出しで、「関東地方は雨が少ない状態が続いていて、埼玉県秩父地方の水がめになっている合角ダムは貯水率が2%余りに減り、今後も雨が降らなければ農作物などへの影響が心配されています」と報じている。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130608/k10015162961000.html

合角ダムは、荒川の上流、秩父市と小鹿野町になる。荒川下流の東京周辺では、水不足など感じられないほどの水量であり、梅雨の下の晴天をよろこんで暮らしているが、上流へ行くほど、降水量の影響はすぐ現れるし、まずは人間より農作物への影響が懸念される。そして、水不足が解消されないまま、真夏の冷夏旱魃ってことになると、大都会の人間にとっては寝耳に水の、何年か前にあったような、米不足の騒動になる。

今年は、まだどうなるかわからないが、雨の気配のない晴れた空を見上げて、心配しているひとと、よろこんでいるひとがいて、よろこんでいるひとが多いのは、確かだろう。

だけど、人間も、水に群がるおたまじゃくしと同じようなものだ、水なしでは生きていけない。アタリマエのことだけど、田んぼのおたまじゃくしを見て、そう思った。

最初の写真は、田んぼの水の出口に群がる、おたまじゃくし。よく見ると、水の出口に近いほうは、まだ卵の状態が残っていて、孵化している最中。孵化したばかりのおたまじゃくしは、母乳にむしゃぶりつく赤子のように、水の出口に群がっているのだ。

046001その水は、1mばかり離れた枡の中で、水量を調節されて、田に落ちるようになっているが、水不足だから水の量は調節もなにも、上の湧き水から引いている量そのままが流れていた。

別の田んぼは、川のそばにある平坦地だが、信濃川の上流の清津川が造った河岸段丘の平坦地のため、すぐそばに川があるのに、汲み上げしなければ使えない。なので、ここを田んぼに開拓した昔のひとは、川の上流で取水し、トンネルを掘って水を通した。とうぜん、手掘りだったろう。高さ1メートルちょっとぐらいか、人間は立てない。いまでも、そのトンネルを使って、水が確保されている。

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水量を調節する枡は、じつに簡単な原理による簡単な造りだが、ここでの調節を誤ると大変なことになる。気温、水温、稲の育ち具合を見ながら、調整する。細かく神経を使っているようだが、かなり大雑把な調整装置である。精密な装置であればよいというわけではなく、というより精密な装置は不可能であり、そこを人間の細かい神経が補っているというか、そして神経質になりすぎても、構造的には意味がない。そこに「神頼み」のようなものが生まれたり、「無関心」が生まれたりするのではないだろうか。

なにか、人工のものを間においての、人間と自然の付き合いかたを暗示しているようで、おもしろい。人工の、河川や水道、ペットボトルの水を使いながら、どうアンバイしたらよいのか、そんなことを考えた。「自然に」といっても、自然まかせでは、ひとは生きていけない。そして、雨が降らなくては、現代文明も大騒ぎ。

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2013/06/07

魚沼コシヒカリ十日町取材紀行番外編、松苧のそばと大地の芸術。

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昨日の続き。愛しい米作りの話は、後日まとめて掲載するとして、番外編名所案内メモ。

5日は、12時38分、大宮発の新幹線に乗った。東京から、須田さんと木村さんが乗っているはずだが、越後湯沢で下車してから合流。駅弁を買い、ほくほく線に乗り、十日町へ向かう。弁当を食べながら見る外の景色は、おれの故郷、南魚沼市の田んぼだ。ほとんど、田植えが終わっていた。

最初の写真は、よく当ブログに載っている、大沢周辺からの撮影。奥の高いところは、上越国境の谷川連峰の一部、標高約2000メートルの巻機連峰。ここを過ぎて、まもなくすると、おれが生まれ育った六日町。

次の写真は、六日町を過ぎ、魚沼丘陵駅に着く手前。正面に魚沼三山のうちの八海山と中の岳。魚沼丘陵駅は、六日町盆地の西端にあり、このあたりは、六日町盆地のなかでも、大沢周辺と同じように、田んぼが広々と続いている地域だ。

ここを過ぎて、すぐ魚沼丘陵のトンネルに入る。抜けると十日町市。十日町市は、古い市で、地理的には中魚沼地方になる。魚沼産コシヒカリの産地は、魚沼市も南魚沼市も南魚沼郡も中魚沼郡も、「魚沼」がつくけど、十日町市だけは、コシヒカリの歴史より古い市にも関わらず、市名に「魚沼」がついてない。だけど、魚沼地域であり、魚沼産コシヒカリの産地なのだ。

12時10分ごろ、十日町駅に着いた。市役所の方が3人、出迎えてくださった。2台のクルマに分乗して、現地に向かう。その前に、人気の蕎麦屋で昼食をすることになった。

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最初に取材予定の田んぼは、十日町から西へ、上越市境に近い松代なのだ。そこへ向かう途中の、「松苧(まつお)」という蕎麦屋。ここは、古い大きな2階建ての木造の店だけど、大地の芸術祭のときなどは、1時間以上待つほどにぎわうとか。

入って、草木のにおいをはこぶ風通しがよい、広い座敷のテーブルに座った。そのテーブルに、アサツキを盛った器が置いてあった。これを見ると、おれは「頚城が近い」という印象を持つ。おれが育った六日町あたりでは、アサツキを齧りながら蕎麦を食べる風習はなかったからだ。

013ワレワレは駅弁を食べたばかりだったが、おれ以外は、若くていくらでも食べられる。おれは、蕎麦だけにしてもらったが、みなさんは天ぷら蕎麦。

蕎麦は、この地方独特の、ふのりを使った、いかにも土地のものらしい腰の強い蕎麦で、盛りもタップリあった。都会の、こじゃれ気取った蕎麦を食べて通ぶっている人に、「こんなのは蕎麦じゃない」と言われるときがある蕎麦だ。しかし、ほんと、蕎麦の味覚は、いろいろだし、好みはわかれるだろう。

とにかく、十日町の蕎麦というと、いつもおれがヘタな手打ちよりうまいとほめる、玉垣製麺の乾麺、妻有蕎麦ばかりだったが、ひさしぶりに地元の手打ちを食べて、大満足だった。

014天ぷらは、山菜の季節なので、コシアブラなどの山菜がタップリ。うーむ、天ぷらでビールを飲みたい。そうはいかない。

松苧のまわりの田んぼのなかに、妙なものがあった。聞くと、大地の芸術祭の作品が、そのまま残っているのだ。このあとも、移動の先々に、表示があったが、最初は津南だけで細々という感じだった大地の芸術祭は、いまや十日町を含む広大な地域で行われているらしい。

取材する田植えの準備が遅れているという連絡が入ったので、先に「星峠の棚田」を見ることになった。さらに、西へ、山地を走る。上越市との境になる峠の近くに、そこはあった。

南魚沼には、こういう重畳とした景色はない。おなじ魚沼でも、地形が、まったくちがう。十日町は、言ってみれば、シワや段々の多い山地の地形だ。南魚沼は、シワが少なく急な山地が、ゆるやかな傾斜の平坦地を屏風のように囲んでいる。

「星峠の棚田」は、約30戸ほどの峠集落の人たちが耕作をしている。もっとも、山地のことなので、見える範囲、ぜんぶが棚田になっているのだけど。見た感じ、休耕地は少ない。

「兼業農家」は、本気で農業をやる気がないように見られがちだが、偏見というものだろう。もともと百姓で食っていたのに、食えなくなった、だけど米作りは面白いし続けたいということで、兼業しながら続けている人たちが、けっこういるのだ。

この日、取材した、棚田の兼業農家の方も、そうだった。そういう人たちによって、棚田は続いてきたのだが、いまや、経済効率の悪いお荷物のように言われるし、そんな中では、後継者も難しい。どこかで、なにか、逆立ちしてしまった。そして、棚田は「観光地」として、売り出し中であるのだが。

この日も、何組もクルマが来ていた。中には、鹿児島から来て、ビューポイントで泊まりの体制に入っている方もいた。

地方へ行くたびに、東京と地方の溝の深さを感じる。それは何度も書いている「社会的に食っている」ことの意識や感覚の欠落だろうが。生産者と都市の消費者とのギャップというかユガミというか。思いがけない大都会の無理解と横暴な言葉に出合うことがある。これは、なんという不正常と思うのだが、なにしろ、なにごとも中央目線のなかで、地方は東京に経済活動を押し付けているお荷物だ、ぐらいの感覚が、平然と首都を闊歩しているのだから、コトは簡単ではない。が、しかし、いま、その溝を埋めるような交流が、けっこう広がっているのも、事実なのだ。

「観光化」と「芸術化」は、いろいろ問題をはらみながらも、都市と地方が交流しながら生きることの可能性を広げているようではある。そもそも、「完璧な一手」などはないのだから、相互交流と理解を増やしながら、ってことになるだろう。とくに、民間レベルとしては。

まずは、観光気分で、東京からチョイと足をのばせば行ける、このあたりを訪ねるのも、よいのではないだろうか。「星峠の棚田」、名前からして、夜の星と棚田がきれいそうだ。

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2013/06/06

魚沼コシヒカリの産地、十日町市の田んぼと農家を訪ねた。

きのう、新潟県十日町市へ行き、田植え中の田んぼと農家を取材した。いずれも、評判の高い魚沼コシヒカリを作っているが、田んぼがある地形も、稲作の考えも、まったく違う。一方は、山の棚田、一方は川沿いの平坦地。一方は、種にコシヒカリを使用し、一方はコシヒカリBL。一方は、個人兼業営農、一方は、農業法人の営農。

そのように違うが、どちらも、無農薬あるいは減農薬で栽培し、販売は直販というのが、共通している。十日町は、山と川の町で、広い平野はない。農業経営が難しいといわれる、いわゆる、中山間地の農業だが、そこで、それぞれ土地にあった工夫をしている。ためいきが出るほど、よく手入れされた田んぼと出合った。ほんと、米作りは、土と人だ。

近年は天候の激変が多く難しい。今年は、水不足で田植えが遅れ気味だった、一部の水利の悪い田んぼでは、田植えのあと水をかぶっていなくてはならない田の土が露出しているところもあった。何日も、雨が降らないからだ。毎年一回だけの稲作りの勝負に、緊張の日々を送っている。田植えがすむと、毎日が草との格闘になる。都会地でうまい米が食べられるのは、その結果だ。

これからTPPで、日本の農業、とくに米作は、ほんとうに正念場を迎える。大きく様変わりする可能性がある。米を食べている人たちが、どんな農業、どんな米を望むのか、農家まかせにしておかないで、考えなくてはならない。

ということで、詳しくは、後日、こちらのサイト「遠藤哲夫の愛しい俺の米たちよ」に掲載します。
http://www.nippon1-project.com/241

きのうは、プロデューサーの須田泰成さん、写真の木村聡さんと、日帰りだった。現地では、昼ごろから、夕暮れが深くなる6時ごろまで、動きまわった。終わったあとのビールのうまかったこと。

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2012/09/16

六日町行、きのうの続き。万盛庵で酔っ払って帰宅。

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書こうとしたら、記憶の中で大阪屋での話と万盛庵での話が混ざってしまって分けられない。とにかく、100歳の大阪屋のかあちゃんをショートステイ先のホームにお見舞いしたあと、あっこちゃんの運転するクルマで田中町にある万盛庵へ行った。

六日町の古い商店街がある中心部は、三国街道に沿って発達したのであり、最も上手(南)が上町で「かんまち」と呼んでいた。その隣が江戸期からの旦那衆が多い、長い間役場などがあった仲町、そして北の端が田中町だ。

仲町と田中町の境目あたりから西に曲がる広い通りは、三国街道に比べたら歴史は新しいが、上越線六日町駅の駅前通りで旭町、大阪屋がある。おれが住んでいた伊勢町は、仲町の西の裏側、旭町の南の裏側にあたる。

万盛庵のことは「まんせ」と呼ぶ人が多い。まんせに向かう途中でクボシュンの家の前を通ったので、もしかすると一緒に飲めるかと思い、クルマから降りて家の戸を開けて声をかけてみた。シュンスケはいたが、膝から下が包帯で倍以上の太さになった右足を引きずりながらあらわれた。元気はいいが、とても酒は飲めない。よく見ると顔にも怪我の跡がある。あとであっこちゃんに聞いたら、バイクで転んだらしい。口は達者でも、もうバイクをブイブイふかすトシじゃねえよな。

まんせに着いたのは16時ごろだったと思うが、もちろんこの時間に客はいないが、店は一日中開いているのだ。とうちゃんもかあちゃんのえっちゃんも息子もみんないた。

店内の一隅に、タカノツメのすだれが下がっていた。

暑かった。六日町は盆地で、夏は昔から蒸し暑い。さっそく生ビールをもらう。あっこちゃんは飲めないのでソフトドリンク。大きなテーブルに3人で座って、おしゃべり。えっちゃんは何かのアレルギーだそうで、目はショボショボ鼻はグスグスだったが、そのうちとうちゃんが注いでくれた酒を飲みだす。

来年の10月には70歳になる中学の同期会がある。えっちゃんもあっこちゃんもクボシュンも、その幹事なのだ。先日も、幹事の集まりがあって、やっと場所が決まったらしい。60歳の時も大勢が集まったが、大勢が集まれるのは、これが最後だろうという思いがある。地元に住んで幹事をやる人も大変だ。

同期会は、本来5年に一度で、60歳、65歳つぎは70歳でということだったが、きょねん誰が言い出したか70歳までガマンできない死ぬかも知れないってことで、急遽10月に開催された。おれも参加したが、急だったにもかかわらず60人ぐらい集まった。その時の幹事に、キイチがいた。

去年の同期会の幹事と来年の同期会の幹事の引継ぎが、今年になってからあった。キイチも出席していた。その数日後、キイチは夜中に酒に酔って飲み屋から帰る途中、用水のように岸をコンクリートで固められた小川に落ちて、朝になって凍死体で発見された。おれもその知らせを電話で聞いたときには驚いたが、幹事の人たちは数日前に会合を持ったばかりだった。といったことで、キイチの話になる。

高校進学が5割を切っていたころの中卒だし、それぞれのその後は、おれは高校を卒業して町を出て、しかも親も家業に失敗して家を手放して町を出たぐらいだから、あまり付き合いもなく知らないことが多い。えっちゃんが高校を中退していたのも知らなかった。あっこちゃんは、一度町を離れ、またもどったのだということも知らなかった。

それに高校卒業まで町で過ごしていても、町のことは上っ面しか知らない。地元が長い彼女たちは、詳しい。もっとも、彼女たちが知らないで、おれが知っていることもあるのだが。話していると、女子たちの付き合い方や町に対する関心の持ち方と、男子とは違うところもあるようだ。そんなあれこれが気がつくぐらい、あれこれおしゃべりした。たったこれだけでも、書き切れないほどの、それぞれの人生。

50年食堂を続けて身体のぐあいが悪く閉店する夫妻、100歳のかあちゃんに会ったあと、来年は70になる面々の人生語り。みんないくつまで生きるか知らんが、ま、ようするに人生に意味なんかなく、それぞれの「生きる」があるだけだな。時代も意味がない。やっぱ、気取るな力強くめしを食え!だな。と、なんだか大いに充実した気分で酒がすすんだ。

025おれは生ビールを飲んだあと、まいどのように地元の酒、高千代、鶴齢、八海山を順次飲むには時間が早すぎるので、「万盛庵」のラベルの焼酎を注いではウーロン茶で割ったりしながら飲んだ。

養殖ではないアユを久しぶりに食べた。身のしまりが、まったく違う。ほかに、とうちゃんお得意の漬物や、いろいろ。そして、この時期ならではの、もうそろそろ終りの、カグラナンバン肉詰めを食べた。まんせのこれは、肉詰めを煮た汁でソースを作ってかけるところが特徴なのだ。丸ナスの漬物も出たが、チョイと歯の都合が悪くて食べられない。いずれにせよ、カグラナンバンとナスの漬物で、ああ今年の「ふるさと」の夏も終りだなあ。

03420時近くなって、そろそろポン酒を飲んで泥酔してもよいだろうと、高千代、鶴齢、八海山を飲む。歩いて駅まで10分かからないところを、あっこちゃんにクルマで送ってもらって別れたときには、かなり酔いがまわっていた。「ふるさと」にも酔っていた。

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2012/09/15

六日町へ行って、今月閉店の大阪屋食堂と100歳のかあちゃん。

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きのう、六日町へ行って来た。10時過ぎに家を出て六日町に着いたのが12時45分ごろだった。大阪屋のあっこちゃんに電話して、駅で落ち合って、すぐ駅前にある大阪屋へ行った。

「大阪屋のあっこちゃん」という言い方は、小さいときからで、大阪屋食堂の大阪屋は、食堂を始める前から屋号だったのだ。あっこちゃんはおれと同じ齢で、とっくに大阪屋の家を出て独立しているので、「大阪屋のあっこちゃん」というのは昔の呼び方だ。小さいときから「ちゃん」をつけて呼び合っていると、いまさら「さん」とも言いにくい。それに昔は苗字より屋号のほうが通用していた。

おれの家は、「かんろく新宅」と呼ばれていた。つまり父親が本家「かんろくどん」の次男坊で分家したので「かんろく新宅」であり、「かんろく」は確か「寛六」と書いたのではなかったかと思う。いまではおれのうちも本家も没落して無い。

「ナントカどん」という呼び方は、百姓だけだったようだ。ナントカは先代の名前で、たとえば無くなったおれの生家の近所は、みな百姓で「くにきちどん」「とらまつどん」であり、短く「くにきっとん」「とらまっとん」とか呼んでいた。父の場合、分家してしばらくしてからミシン屋を家業としていたので、しだいに「ミシン屋」と呼ばれるようになった。なのでおれは、大阪屋のあっこちゃんたちからは、「ミシン屋のてっちゃん」と呼ばれていたし、いまもそうなのだ。

それはともかく、13時すぎに大阪屋へ行ってみると、大混雑で店内で待っているお客さんもいた。あっこちゃんのお兄さんでご主人の「勇ちゃん」は、顔を合わせるなり、「閉店のことがフェイスブックに載った日から忙しくなって、普段の3倍ぐらい」と、大汗かいていた。「普段からこれぐらい入っていたら、閉店しなくてもよいのだけど」。つまり家族の身体のぐあいが悪くても、誰かを雇って店は続けられるということのようだ。いかにも閉店が悔しく残念そうな印象だった。

020おれとあっこちゃんはチャーシューメンを頼んだ。これが大阪屋の「名物」で、これを目当てに来る人が多かったらしい。おれは、それを知らなかったので、これまでカツ丼とラーメンしか食べたことがなかった。麺の量も多いが、チャーシューが大きくて、1センチ近くありそうな厚さなのだ。濃い目の味で、食べ応え十分。なるほど、人気なのもうなずける。しかし、近頃は食が細くなっているので、食べ切るのが大変だ。

お客さんが一段落したあたりで、カウンターごしにご主人とあれこれ話す。片づけをしながら奥さんも話しに加わる。勇ちゃんはおれより2歳上のだけだが、小さいころの昔の記憶は、2歳ちがいが大きく、いろいろなことを思い出した。あっこちゃんの話と合わせると、いろいろ昔の記憶がもどった。まったく思い出せないこともあった。

とにかく、大阪屋は駅前だけど、昔の駅前通りは、まだ田んぼがあったのだ。おれが高校を卒業して町を出るまで。そのあと、地元選出の田中角栄の「日本列島改造論」もあたりして、大きく変わった。

021おれが『大衆食堂パラダイス!』に書いた、高校生の頃よく大判焼きを食べた大阪屋は、まだ食堂ではなくて、大判焼きを焼いてるそばで食べられるようテーブルを一つとイスを置いたりしたのが「原型」のようだ。それ以前、戦後まもなくは、かあちゃんがポンせんべいを焼いたり、端切れを売ったり、駄菓子屋をやったりだったらしい。勇ちゃんは、東京の甘物屋で修業して帰り、甘物を始めたけど、田舎町のことで、そんなに流行らない。そこで、かあちゃんと、当時人気が出ていたラーメンを教えてもらいに行ってきて、ラーメンを始めた。そのころから「食堂」らしくなった。ということのようだ。

建物は、平成の始めごろ建て替え、店内を広くしたが建物の敷地は変わっていない。おれはカウンターの一番端に座って話していたのだが、勇ちゃんが「そこが大判焼きを焼いていたところ」と指差した。おれのちょうど背中のところで、その角だけ空間になっていて窓があった。かつては、窓越しに、かあちゃんが大判焼きを焼く姿が見えたのだ。一挙に懐かしさがこみあげた。

駅前通りや町のこと、変化の様子、個人店の難しさ、いろいろ話した。忘れていたこと、知らなかったことも多い。勇ちゃんは、チョイと引っ込んで、戦前のものと思われる、上町の手書き地図のコピーを持って来た。「ナントカ屋」「ナントカどん」、忘れていた記憶が、あれこれよみがえった。

022001奥さんが、いまでは珍しくなった、昔の黄色いマクワウリを切って出してくれた。冷蔵庫はなく、井戸水で冷やした時代、夏はこのウリだった。ほんのりした甘味、サクッとした歯ざわり。懐かしい。気がつけば、おれはチャーシュー一切れと麺を少々残したまま話に夢中になっていた。

お店の休憩時間でもあり、100歳の「かあちゃん」に会いに行くことにした。かあちゃんは、この一週間は、店も忙しいことであり、介護老人ホームの泊サービス(ショートステイ)のため、そちらにいるのだ。あっこちゃんはクルマで来ていて、乗せてもらう。

かあちゃんは、転んでから両足のぐあいが悪くなり、車椅子の生活。テーブルに向かって、菓子を食べ茶を飲んでおり、ベッドに寝込んでいるものと思い込んでいたおれは、元気そうでおどろいた。認知のぐあいは、その日の調子によるそうだが、あっこちゃんの顔を見て、最初は「どこんしょだ」と言ったが、すぐわかったようだ。

だけど、おれのことは思い出せない。なにしろ50年のブランクもあることだし。「せっかく来てもらったのに思い出せなくて申し訳ない」と何度も言う。肌はきれいで、言葉もしっかりしている、腕から手も年寄り臭さがなくしっかりしている。大判焼きを焼いていたかあちゃんだ。

そのあとは、万盛庵へ。16時ごろだったか。えっちゃんとあっこちゃんと3人で、20時半まで、ゆっくりおしゃべりしながら、酒を飲む。こんなに六日町のことや、同期生たちのことを話すのは、高校を卒業して町を離れて以来のことではないかと思う。

あっこちゃんがクルマで駅まで送ってくれて、20時50分ごろの上越線に乗って越後湯沢で新幹線に乗り換え帰って来た。万盛庵でのことは、また明日。

最後の写真は、往きに、上越線大沢駅あたりの車窓から撮影。最も高値がつくといわれる魚沼コシヒカリの田んぼが、刈り入れ直前といった様子。

このあたりからの景色が好きだ。中央奥に巻機連山、右の方は谷川連山に連なり、左の方は尾根伝いに下がると金城山から坂戸山に至る。おれが高校を卒業まで、よく足を踏み入れた山々が一望できる。そして、この地域の、つまりおれの成長と深く関わっている、「コスモロジー」について、いつも考えさせられる。

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2012/09/04

故郷六日町の大阪屋食堂が今月で閉店。

『大衆食堂パラダイス!』にも登場する、おれの故郷、南魚沼市六日町の大阪屋食堂が今月で閉店する。一昨日、フェイスブックで知った。

去る7月、2012/07/04「祝・故郷の大阪屋のかあちゃんが100歳!」に、おれが高校のときお世話になった大阪屋のかあちゃんが100歳を迎えたことを書いたばかりでもあり、突然の閉店ニュースにおどろいた。

考えれば、かあちゃんの息子さんである、いまのご主人は、たしかおれより6歳ほど年上のはずであり、そろそろ引退なのかと思いながら、おれと同じ齢のご主人の妹にメールをして確かめた。

すると「もう限界」という返事があった。「高齢化」する個人経営・家族経営が抱える困難が、言葉少なに語られており、その悲痛が伝わった。

ほかにもおれの身近に増えているのだが、介護と介護しながら生活するための営業の負担で、家族の身体が壊れていく。そうなりながらも「限界」までがんばらなくてはならない。介護は美しい物語になるが、生活の現実は残酷だ。

それはともかく半世紀以上つづく地元人気店の閉店だから、田舎町とはいえ、大混雑しているらしい。

とにかく、近いうちに訪ね、100歳のかあちゃんにも会っておこう、と思っている。

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2012/07/04

祝・故郷の大阪屋のかあちゃんが100歳!

故郷の新潟県六日町から、うれしいメールが届いた。

『大衆食堂パラダイス!』にも登場する、おれが高校生のときにお世話になった大衆食堂の大阪屋のかあちゃんが、先月百歳になったそうだ。「白寿」というらしい。いやあ、めでたい。

親戚や近所の人たちに祝ってもらったそうだ。それに通っているデイ・サービスの先生方にも祝ってもらい、メッセージを一杯書いてもらったそうだ。そのメッセージに、大阪屋の歴史の綴りをコピーした物が添えられていたそうだ。それが、おれが書いた物からのコピーだったそうだ。というのも、介護士さんの中におれのファンの方がいて、その方が作ったものだそうだ。

書いた物がそんなふうに使われるなんて、しみじみうれしい。
知らせてくれた、あっこちゃん、ありがとう。

大阪屋のかあちゃん、もっと長生きしてね。
長生きして大阪屋の繁盛を見守ってね。
大阪屋も、かあちゃんのように長生きしてほしい。

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2012/05/13

故郷の南魚沼市六日町で温泉、山菜、酒、級友、ふるさと三昧。

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5月は、全国高千代ファンの集い「高千代五月まつり」があるのだが、最近は、ちょうど都合が悪く参加できないでいる。今年も、20日の日曜日に開催との案内をもらったが、都合が悪い。うーむ、しかし、この季節、故郷の山菜で故郷の酒蔵の酒を飲むのは、他に代えがたい魅力だ。考えているうちに、どうしても行きたくなって、昨日行ってきた。トツジョ思い立って行ったのだが、出たとこ偶然だらけで、めったに会わない中学同期の連中と飲むやら、じつに楽しく充実した日帰り小旅となった。

めざすは、まいどおなじみの、老舗の大衆食堂的蕎麦屋の萬盛庵だ。ここのとうちゃんは、自他ともに「山菜きのこ採りの名人」を認める。

前日、六日町中学同期のクボシュンさんに電話した。彼は最近は夜中の勤務をやっているので、15時ぐらいには帰って寝なくてはならないが、昼めしでも一緒に食べようということになった。10時少し前に東大宮を発ち、新幹線を利用、11時45分六日町着。クボシュンさんが駅に出迎えてくれた。東大宮も風が冷たく寒かったが、六日町は、当然もっと寒かった。しかし、雨の予報が、暗い雲のあいだに明るい白い雲や青空も混じり、どうやら晴れに向かっているような空だった。

Dscn0696_2駅から近いが、クボシュンさんのクルマで、まずは「さわだ食堂」へ。ここは、おれが故郷にいるあいだはなかったので知らなかったが、フェイスブックの「南魚沼!六日町!」に載っていたのを見つけ、気になっていった。40年ほど前にできた食堂らしい。いずれ、目下リニューアル作業中のザ大衆食のサイトに載せるとしよう。

とにかく、まずは、この町この季節ならではの、木の芽を食べる。アケビの芽のことだ。店主に玉子を落とすか訊かれたが、ナマの味と思い、抜きにしてもらう。これで、ビールを飲む。シャキッとした歯触り、やわらかな緑のような甘味に苦味がピリッと効いて。うーむ、これぞ、この町の春の味覚だ。

クボシュンさんはカツ丼、おれはオムライスを頼む。食べてアレコレ話しているうちに、上の原温泉に行って温泉に入ることになった。上の原は町からはずれ、西の山の中腹の高原といった雰囲気のところだ。池があって春には桜が咲く、昔から町の人の行楽地であり、高校卒業するまでは、時々遊びに行った。高校卒業して以来、初めてだ。スキー場ができ、温泉が湧き、あたりは大きく変わったが、町中よりは、風景に昔の面影を残していた。龍気という温泉旅館で、風呂に入る。はあ、温泉は、いいねえ。

まだ雪が残っている周囲の山々が見える龍気の前の畑には、この季節この地域独特の菜がなっていた(一番上の写真)。クボシュンさんは「大月菜」といったが、おれには、みな同じ菜に見えて、区別がつかない。大崎菜、長岡菜など、いろいろあるが、やさしい甘味があるやわらかい春の味覚だ。

上の原の帰り、六日町高校の前のケンチャンことケンイチくんの家の前を通った。中学の同期であり、高校の山岳部でも、彼は3年になってから入部したのだが、一緒だった。ちょっと会ってみたくなって、いるかどうかわからないが、クルマから降ろしてもらい、帰って夜の勤務に備えて寝るクボシュンさんと別れる。クボシュンさん、ありがとう。

Dscn0716ケンチャンは在宅だった。家は建て替えたが、彼は生まれたときから、ここに住んでいる。家に寄らせてもらうのは初めて、奥さんと会うのも初めて。あとで萬盛庵で聞いたのだが、同期のトコチャンの妹さんだそうだ。そういえば、どことなく似ていた、気性の明るく楽しいところまで。これまたひさしぶりの、この季節の味覚、チマキと先ほど畑で見たばかりの菜の漬物をいただく。

あれこれ話しているうちに、ちと思い出の場所を散策したくなり、辞す。ふらふら歩き、写真を撮ったりする。

Dscn072617時すぎ、萬盛庵に。ここに来ると、故郷に帰った、という気になる。町中の雰囲気は、かなり変わったが、萬盛庵の中は、人柄まで、昔の空気のままという感じがするからだろうか。テーブルに座って生ビールを頼むと、早速、木の芽が出てきた。生玉子落とし。別の小鉢のぬたは、食べたけど、なんだかわからない。女将のエッチャンに聞くと、ウルイとトリノアシだという。昔から食べていた山菜だという。ウルイを持って来て見せてもらったが、まったく覚えがない。人の記憶はあてにならないというが、そんなことがあるのだなあ。

Dscn0728おれが入った時は、にぎやかに飲んだり食べたりしていた、町内の会社の御一行さんという感じのみなさんが、持ち帰りのチャーハンなどを作ってもらって帰った。何度か電話が鳴り、出前の注文が入る声がする。おれは、土地の酒蔵の酒、高千代、鶴齢、八海山を飲むべく、まずはラーメンを食べて整える。ウドのキンピラが出てきて、高千代辛口の燗をもらう。

意外な展開になったのは、帰りの列車の時間が近づいてきた、20時少し前だ。仕事が一段落した萬盛庵のとうちゃんとエッチャンも一緒に飲み始めていた。ちょうど話が、昨年10月1日の同期会の幹事をやり、今年の冬の寒いとき、酔って側溝にはまって凍死したキイチくんのことになっていた。おれの背中で店の戸が開く音がして、エッチャンが、「チャーボー」と言った。振り向くと、同期のチャーボーと、もう一人は、やはり同期のミノルくんだ。お互いに、「やあ、なんで、ここに」と言いながら、握手を交わす。なんと、同期会では会っているが、こういう場所では初めてだ。もう、それからは、にぎやかなこと。

中学時代はよくおれのウチにも来て一緒に遊ぶことが多かったが、高校からは別になり最近の同期会以外は会う機会もなかったミノルは、横浜に住んでいるが、やはり、この時期になると山菜が食べたくなるらしい。前夜から家族と六日町の町内の温泉旅館に泊まって、今夜はチャーボーに電話して一杯やっての流れ。木の芽をほおばりながら、「これこれ、これだけは、こっちに来なくては食えない、これが食べたくて来るんださ」。同感、同感。

チャーボーとミノルが店に入ってきたとき続いて入ってきた若い男性が、おれの前に座っていたのだが、彼が、先ほど話題になっていたキイチの娘婿とわかる。そういえば、キイチとは、ここで何度か会ったことがあるが。そうかそうかと、また一段と同期の連中の話になる。すると別のテーブルにいた若い男性が、やはり同期のマツゴロウの息子だという。

チャーボーは地元で医者をやっているが、「死ぬときはこっちで死にたいだろう」と言う。そんな気になる夜だった。とにかく、なんだかんだ、にぎやかに盛り上がる。いったい、今夜は、どういうことだ。なんの引き合わせか。ふるさとの食堂の味と人のつながりのなかで、酔いは深まる。

が、泊まるわけにはいかない、帰らなければならない。20時50分ごろ六日町発の列車に乗らなければならない。フキノトウとコゴメとウドを、たっぷりみやげにもらい、エッチャンに電車の中に忘れないようにと念を押され、萬盛庵をあとにした。

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