六日町中学校同期会。
今月初めに発売になった、四月と十月文庫7『理解フノー』の最後の項「坂戸山」の書き出しは、こうだ。
「二〇〇一年十一月某日、ついでがあって故郷の六日町を訪れた。町の東側にそびえる坂戸山は昔と変らない、真っ赤な紅葉だった」
去る10月16日、六日町中学校昭和34年卒業の同期会があって、六日町へ行った。坂戸山の紅葉には、まだ早かった。
会場のホテルで、16時半から記念写真撮影、17時から宴会になった。参加者は約60名。二次会、三次会と飲んで、もう途中からよく覚えていない。
おれたちは中卒者が「金の卵」といわれた世代だ。高校進学率は40%ぐらい。
幹事の報告によると、同期の卒業生265名(5クラスだから1クラス50名以上)。うち物故者39名。39名のうち7名が、3年前の70歳のときの同期会以後に亡くなった。ひさしぶりに同期会で会って、また話したいと思っていたひとが、何人か亡くなっている。
物故者39名の名簿もあった。卒業後、最初に亡くなったひとのことは、よく覚えている。卒業した年の初夏に自殺したのだ。3年生のとき、同じ学級で、彼女は級長で、おれは副級長だった。彼女は成績がよかったけど、家庭の事情で定時制高校に通いながら昼は県立病院に勤めていた。
卒業前、働きながら勉強して看護婦になるんだ、それが一番いいんだ、というようなことをいって、フッと笑った。彼女が、にぎやかにほがらかに笑うところを見たことがない。いつもうつむき加減にしていたが、そのまま、かすかに風が吹いたようにフッと顔をほころばせるのだ。たぶん笑ったのだろうと感じるのだが、笑いだったのかどうかはっきりしないような。
あの彼女が死んだ夏のお盆休み、彼女と親しかった5名で、死後初めて彼女の家を訪ねた。そのときのことも、よく覚えている。
彼女が首をつった朝のことを、彼女の母親に聞きながら、おれたちはワンワン泣いた。いや、おれは泣かなかった。その母親に殴りかかりたくなる衝動をこらえていた。
その朝、彼女は二階の自分の部屋から降りて来て、朝の膳の前に座ったが、うつむいたままだったそうだ。なかなかめしを食べないので、母親は「ほら早く食べて行きな」というようなことをいったらしい。彼女は、「うん」といい、そのまま食べずに二階にあがった。そして二度と降りて来なかったのだ。
彼女の家からは、街中とは少しカタチのちがう坂戸山が見えた。彼女の家は、街のはずれから田畑のなかを突っ切る17号を10分ほど歩いたところにあった。農家で、彼女の下には弟や妹が何人かいた。
当時は、拡張されたが舗装されていなかった17号の広いジャリ道を、おれたちは行きも帰りもトボトボ歩いた。強い日差しの下で、一直線のジャリ道は真っ白に見えた。
同期会では、死んだひとのこともいろいろ話題になるが、彼女の話をするのは、なんとなくタブーだ。あの日、彼女の家を訪ねたのは、女3人と男2人だった。男は、おれともう1人で、彼のことは覚えているのだが、女3人が誰だったか思い出せない。話を切り出して聞ける「空気」でもない。ま、それでよいのだろう。
同期会には、『理解フノー』の「坂戸山」に出てくる、「マサオくん」も来ていた。岩登りで転落したが木の枝で命拾いした「ケンイチくん」も来ていた。
同期会に参加したのは、「クスリ自慢」のひともいるが、比較的元気のよいひとたちだ。元気がよくて、遠方に旅していて参加できなかったクボシュンのようなひともいるが、どこかしら身体のぐあいが悪く参加できないひとも少なくない。
「老老介護」も体験したり体験中のひともいる。誰もが、死をシッカリ見ているようだった。3年前より、その気配は、確実に濃くなっていた。
死だけは、すべてのひとに平等に、けっこう残酷にやってくる。そういう感慨を、酒漬かりの身体に抱いて帰って来た。
今年は、しっかり冷え込まずにグズグズ暑い日が続いたので、紅葉のぐあいがよくない、紅葉する前に枯葉色になってしまうと地元のひとがいっていた。そういえば坂戸山も、うっすら枯れた色が見えた。
つぎの同期会まで生きて参加できるだろうか。こんどは、いつ坂戸山を見るのだろう。
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