2014/06/10

忙しいときは土偶で和んで、ちょっとだけ縄文の食。

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きのうきょうとなんとなく気ぜわしいことが続いている。こういうときは、縄文土器の写真を載せよう。

2014/05/19「「すみれ洋裁店・小口緑子の美術展」とミニ古墳部活動、一日目。」に書いたように、「北杜市考古資料館」へ行ったときのものだ。

ここで見た土偶は、素朴で楽しかった。そもそも縄文土器は素朴だろうに、「素朴」でない土偶なんてあるのかといわれれば、ある。縄文土器は、素朴とは限らない。それに、やはり、なんとなく土地によって異なる、土地柄や人柄がうかがえる。それを感じながら見るのが、また楽しい。

086ま、リクツはよい。上の写真は「中空土偶」といわれている。中が「空」なのだ。この資料館では、これを見たせいか、ほかの中が「空」の土器が気になった。もしかして中を「空」にする「伝統文化」があったのか?そのココロは?

土偶の顔の表情も、いろいろで楽しい。いまの子供たちが、紙にマンガを書くように、あまった粘土で楽しんだものもあるかも。

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縄文時代の食は、まだまだわからないことが多いながらも、いろいろな科学技術のおかげで、見えてきたこともある。縄文時代に、いまに伝わる、焼く、煮る、蒸す…などの基本的な調理法は、ほとんど完成していたが、道具や食べ方は変わった。それは、採取や農耕にも関係するが。

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食べ方に関していえば(といっても縄文時代は一万年以上あるのだが)、めいめいの食器はない。諸説を集めてみると、煮炊きの土器から、木をくりぬいて作ったレンゲ状のもの、というか取っ手と小さなお椀状のものが一体のもので、直接煮炊きの土器からすくって食べたようだ。しかも、一つのそれを、みんなでまわしながら食べたということだ。あまり大きくない中くらいの煮炊き用の土器の口が広いのも、うなずける。竪穴住居の炉端で、家族が煮炊きの土器を囲んで、順番にすくっては食べる様子が目に浮かぶ。

イチオウ、めいめいの食器で食べるようになるのは、弥生時代で、どこかの年代のどこかの人たちから広がり、それが弥生の食文化の一つの特徴となっているらしい。

それにしても、「豪華」な装飾の土器で、食事をしたものだ。その飾りの表現には、当時の人たちの、「食べる」ことについての、いろいろな気持ちや物語があるのだろう。

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2013/11/03

大阪でトーク2晩、あいだで盗難。

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2013/10/17「今月末は、大阪デーだで~。」に書いたように、30日と31日には、大阪でトークだった。

30日は「関西人のための「新潟のええとこ・うまいもんゼミナール」だった。午前9時過ぎに家を出た。大阪に着いて、ホテルのチェックインをすまし、140Bへ。江さんに挨拶、司会をやってくださる中島さんと打ち合わせ。メールで送ってあった画像などで、スライドを作っていただいたので、これを使用するのだ。

18時ごろ、梅田の富国生命ビル4Fにある会場「アサヒ ラボ・ガーデン」に移動。新潟県観光協会や新潟県大阪事務所、広告代理店などの関係者のみなさまと挨拶。大勢いらしていて、おどろいた。

参加者は50名。当初は定員30名で募集だったが、たちまち一杯になって、50名に増やした、それでも募集開始から3日で一杯になったのだそうだ。両親が新潟県出身という方が1人いたが、ほかは新潟県とは関係ない方ばかり。やはり関西から新潟は遠いんだな。なにしろ関西から新潟県を訪ねる観光客は2%に満たないのだとか。

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18時半ちょうどに中島さんの司会で始まり、スライドを使って話はすすむ。「炊きたて白飯の卵かけご飯こそ、新潟の至宝!」というタイトルで、米のめしと「ごはんのお供」の話が中心。自分でも話していて、ヨダレが出そうだった。参加者のみなさまの反応もよく、質問の時間には、農業の後継者はどうなっているのかといった、農業問題への関心もうかがえた。帰りには、魚沼産コシヒカリ1キロが土産。

20時終了。中島さんと天神橋筋の居酒屋へ。23時近くまで、熱燗を飲みながら、あれやこれや話す。

31日、10時少し前にホテルを出て、大阪駅御堂筋北口のコインロッカーに荷物を預けた。正確には、コインではなく、スイカを使うICロッカーというべきか。

017地下鉄で千日前のしみずへ。おかずをとり、ビールとめしと玉赤を頼む。午後に今夜のトークの相手である須田さんと落ち合うことになっているが、おれは携帯を持っていないから、昼頃おれから連絡を入れることにした。待ち合わせる時間と場所を決めるまでは、あまり動けない。ゆっくりビールを飲み、めしを食べくつろぐ。

しみずを出て、これまで場末な感じなところばかり歩いているから、たまには御堂筋を歩いて梅田に出てみよう、昔は、よく歩いたところだ。

大阪駅に着いて、須田さんに電話。16時に桜橋口のヒルトンの前で待ち合わせることになった。それまで4時間ほどある。どこに行こうか迷った結果、今城塚古墳へ行くことにした。

高槻にあるはずだと思って高槻へ。駅の観光案内に訪ねると、高槻からは歩けないし、バスも何本も出ていない、一駅もどって攝津富田からのほうがバスの本数があるという。もどる。バスは20分に1本で、ちょうど出たあと。歩くと1時間近くかかるようだ。バスを待って、今城塚古墳に着いたのが、14時40分ごろ。

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16時少し前には、大阪駅にもどらなくてはならない、古墳はデカイ。淀川流域最大級の前方後円墳だ。よく整備されていて、復元した埴輪が並び、墳丘も歩けるようになっている。写真を撮りながら歩いているうちに時間はすぎ、今城塚古代歴史館を見る時間はなくなった。でも、行ってよかった。

16時10分前ぐらいに大阪駅に着き、荷物を預けたコインロッカーへ行き、スイカを使って開錠し、ふたを開けると、なかの荷物がない。正確には、上着と大きめのザックを入れておいたのだが、ザックだけが無くなっている。上着のポケットには、最初から何も入っていなかったのだから、相手にされなかったのだろう。

一瞬、何が起きたのか、わからなかった。とにかく、ザックが消えている。

ってことで、アレコレあって、けっきょくたどりついたところが、大阪駅すぐそばの曽根崎署3階の刑事課。その前に、16時待ち合わせの須田さんの携帯に電話するが、何度かけても話し中。

刑事課では若い女性の刑事が相手をしてくれた。状況を説明、彼女がパソコンで盗難届を作成しながら、もしかすると金目のものが入っていないから捨てられているかも知れないと念のために遺失物拾得物の係に連絡をとってくれたり。その電話で須田さんとも連絡がとれ、署まで来てくれることに。

書類ができ、印鑑は持っていなかったので、左指の人差し指で捺印を終わったところに、須田さんがあらわれた。

盗られたものは、被害総額の時価にすれば2千円にも満たないのだが、あまり出回ってないミレーの旧型復刻版のザックは使い勝手がよくて気に入っていたし、これまでの取材メモ帳が無くなったのは困るし、なんといっても問題は家の鍵が入っていたことだ。念のために家のドアの鍵を付け替えなくてはならない、これにかかる費用が一番の損害。

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とにかく、須田さんと福島に出て、まずは一杯。のち、さばの湯温泉に移動。大阪の初めての方ばかりの前で、須田さんとカウンターカルチャートーク。終わって、その場で参加者と打ち上げ飲み。解散のち、須田さんと参加者2人の方と、近くのおでんやで23時ごろまで。ホテルは近く。

11月1日。早く家に帰り、ドアの鍵の付け替えをするべく、5時に起床、帰宅。

曽根崎署の、しかも刑事課に入るなんていう体験はめったにないことで、面白かったが、鍵の付け替えが、あちこち業者に連絡とったり面倒で、くたびれた。

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2013/05/21

盛況御礼、古墳にこーふんナイト。

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006去る17日の「古墳にこーふんナイト」は、なかなか充実した内容で、大いに楽しかった。もちろんおれは、出演者は無料の生ビールを、たぶん5杯ぐらいは飲んで、十分楽しんだ。平日なのに、お台場なんていう、辺鄙なところまで、大勢さんにおはこびいただき、ありがとうございました。

東京カルチャーカルチャーでの古墳トークは、これで4回目だったかな?初回が、2010年12月21日だった。行くたびに、カルカル周辺の景色は変わり、ようするに、だんだん「街」のような感じが出来上がっていく。でも、ハコがあるだけで何もない街、まわりの人も「何もない街ね」とささやきあっているのだから、おもしろい。

ま、いちおう、お台場サンセットの景色を撮り、見上げれば空にはメーリーゴーランド、その下にカルカルがあって、案内板があるという光景。

005この日は、「古墳にこーふんナイト ~まりこふんの古墳ソングお披露目&奈良・群馬高崎の古墳めぐり旅~」という長いタイトルで、「まりこふんの古墳ソングライブ<新曲披露(箸墓古墳の歌)ほか>」がメイン。司会は、いつものように、テリー植田さん。まりこふんさんと、古墳にコーフン協会理事長の伊藤壮さん、そしておれ。それに、スペシャルゲストとして、まりこふんさんと共演するウルフルケイスケさん。という顔ぶれだった。

平日なので、お客さんの到着が遅れがちだったから、19時スタートを30分遅らせて始まった。トップバッターがおれ。あまり酔わないうちに、おれにしゃべらせようというコンタンか。

おれは「面白いぞ、関東の古墳」というスライドを用意した。おれの場合、古墳でどうコーフンするかについて語ろう、それはいってみれば「とりとめのないコーフン」だってことで話した。2013/02/24「NHKの番組のため古墳部活動。」に書いた、そのとき、スソ古墳部長が作った資料と、撮影した写真、そこから派生した「オオカミの護符」のおもしろさ、さらに、以前に古墳部活動で行った、千葉の「枕石」から天保水滸伝へと、縦横無尽というよりは、やっぱりとりとめなのないコーフンを語った。

A002ようするに、関東の大地の上に暮らしながら、この大地の暮らしの歴史については、あまり知られてない。どこそこにこんな店がある、こんなおいしいものを食べた、こんな物がはやっている、銀座や渋谷におけるファッションはねこうなんですよ、なーんて、上っ面のことを小利口そうに語っていれば、そこに街の暮らしがあるかのような錯覚をおかし続けている。って、これは『オオカミの護符』が指摘するところであるけど。関東という大地で暮らすことについて、とりとめのない面白さ発見の話なのだ。

つぎが伊藤壮さんで、おれはこの日初対面だった。東京に住んでいるけど、奈良出身の方で、この日のために、わざわざ里帰りして、いろいろ撮影してきた。これが、おもしろかった。古墳の一つ一つを丁寧に紹介するのではなく、とにかく、奈良にはたくさん古墳があるわけで、しかもそろぞれ特徴がある。そこのところを、動画もまじえてスライドでガンガン見せる。桜井市の茶臼山古墳だったかな?のそばにあるテリー植田さんの実家の写真もあって、愉快だった。

そのあと、まりこふんさんが、意外や意外、古墳めぐりしながら集めた古墳グッズなどを紹介。古墳チェアや古墳クッションの「大物」から小物まで、武人埴輪の最中もあるのだ。いやあ、おもしろい。

そして、少々の休憩をはさんでのち、まりこふんさんの古墳ソングライブとなった。爆音のような声量で、とうとうと歌い上げる、古墳愛。ちょいと宮内庁を皮肉るクスリもきいて、何度聴いてもよい。そして、そして、ウルフルケイスケさんが登場。もう、古墳ロックですよ。いや、おれの感じとしては、古墳ロカビリーって感じで、このナマの感覚は、1962年以来のコーフンだった。ケイスケさんは初対面だったが、すごくおもしろい人だ。

なんと、ケイスケさんの実家は、高槻市の今城塚古墳の近くとあって、トークが始まる前の控え室では古墳談義で、大いに盛り上がった。今城塚古墳は、「継体天皇陵」をめぐっていろいろ物議があることだし、行ってみたいところ。

ま、そんなこんなで、けっきょくおれは、飲み干すとスグおかわりが出る生ビールを5杯ぐらい飲んで、そのあと軽く打ち上げ飲み、電車の時間があるから、一足お先に失礼したのだった。

このトークの様子ぜんぶ、ユーストでご覧いただける。後半の古墳ソングライブだけでも、どうぞ。http://www.ustream.tv/recorded/32944011

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2013/02/24

NHKの番組のため古墳部活動。

18日(月)は、古墳部活動だった。とはいえ、NHKの「ビギン・ジャパノロジー」という番組に出演するもので、とはいえ、ふだんの古墳部活動のように自分たちのペースで勝手に楽しんでしまったのだ。

002最初は、このブログの古墳関係の記述を見たNHKの担当さんから、おれにメールがあった。古墳なら古墳部長のスソアキコさんだろうと、そちらにふった。しばらくしてスソさんから、話しがまとまったから、ついてはまいどの古墳部の顔ぶれ、瀬尾幸子さんとおれも一緒に出演できないかと話があった。収録の日は決まっていたが18日で、ちょうど忙しい最中だったけど、この日だけ空いていた。っていうイキサツがあって、9時45分に三鷹駅集合でロケ車に乗ることになった。朝から雨模様で、ロケが出来るかどうか危ぶまれた。

巡る古墳は、おれは初めてのところばかり。だけど、たぶん、いつものようにスソさんが資料を用意してくれるだろうと思い、なんの予習もなしに行った。スソさんは、やっぱり、すごい資料を作ってきて、三鷹駅の売店でコピーして、おれたちに渡した。な、なんと、A4で12ページ!もう熱中ですね。

目的地は、三鷹市の天文台近くにある「出山横穴墓群」と狛江の古墳群だ。これらは、支流の野川や仙川なども含めた多摩川沿いの古墳群になるのだけど、スソさんは多摩川台の古墳群がある下流域から、秩父山地、陣馬山などに連なる上流域の古墳群まで、しっかり書き込んだ地図と、100はあるといわれる狛江周辺の古墳群の詳しい地図、さらに野川中流域の3D地図に出山横穴墓群などを詳しく書き込んだもの、出山遺跡がある大沢地区の遺跡のリストと年代、出山遺跡から出土した縄文後期の13ℓ(一升瓶7本分とスソさんの解説がある)の大型注口土器の写真と説明など、とにかくこれだけ見ればすべてわかりそうな念の入った資料。これはもう、NHKのためというより、いつもの古墳部活動のため。いやあ、まずはこの資料に驚いた。スソさんの熱中がありあり。

052本当は16時ごろまでかかる予定だった。だけど、昼頃に雨が本格化する予報なので、それまでにポイントだけ撮ってしまおうと、ディレクターさん、カメラさん、音声さんと一緒に移動。

横穴墓は、古墳時代後期、前方後円墳が後退するのと入れ替わるように、出現する。たいがい川沿いの崖に穴を掘ったものだ。出山横穴墓群は野川中流域の、天文台近く、野川を前にした、いかにも古墳がありそうな丘の崖にあった。その麓の入口で、ロケ車を降り、おれたち3人はマイクを装着され、勝手なことをしゃべりながら歩く。カメラさんと音声さんが、それを撮る録る。ディレクターさんが、ときど何か言う。

横穴墓群のなかの8号墓が見学できるように公開されていた。そこまで少しだけど、遊歩道を登る。少しだけど息が切れる。古墳部活動は、けっこう運動になるのだ。

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コンクリートで囲われた「見学室」は、暖房が効いていて驚いた。ガラスごしだが、まんま見える。4体の人骨レプリカが見える。なかは意外に広く、4畳半ほど。石が敷き詰められ、その上に、とくに向きなど関係なく、4体の遺骨があった。きれいにドーム型に掘られた天井も意外に高く、生活ができそう。形がしっかりしていて、遺跡や遺物を見て、いつも思うことだが、古のひとたちは、もしかすると、生き抜くために、現代人より合理的な思考を持っていたのではないかと思うことが多い。

スソさんの資料には、スソさんのイラスト入りで、「横穴墓の構築手順」「横穴墓に埋葬された人々」「横穴墓で発見された遺物」があった。さらに「おまけ」のページがあって、それは一体の骸骨の、上顎に穴が開くほどの歯周病や虫歯にやられた有様の写真入り。この解説が面白かった。つまり、身分が高かったので、虫歯や歯周病になりやすい米など柔らかいゼイタクなものを食べていた可能性があるということなのだ。かなり痛くて苦しんだはずであると。さらに「おまけ」には、ほかの横穴墓にもあった遺骨の、推定死亡年齢や身長などのリストもあった。とにかく、スソさんは、スゴイ。

0738号墓は横穴を掘るに都合のよい丘の崖の中腹にあるが、さらに遊歩道を登ると、大型注口土器が発見された縄文遺跡があった。丘のテッペンあたりに、まず縄文人が住み着いたのだろう。弥生時代には稲作と畑作になるから集落は平地に移り、周辺のいまや住宅街になっているあたりで、古墳時代の集落もそうだろう。雑木の林が気持よい丘の上から、現代の様子を眺めて、しかし、それほど遠くはない縄文から古墳の時代を感じた。だいたい縄文遺跡や古墳がある場所は、眺めもよく気持のよい場所なのだ。そういう気持よさを感じるのは、現代のひとも古のひとも同じに違いない。

おれたちは、あれやこれや勝手にしゃべり、ときにはディレクターさんの質問に答えたり。しかし、マイクが装着されているのを忘れて、「早く終えて飲みに行こうよ」とか「腹がへった」など、余計なことも話して、それが全部筒抜けなのだった。でも、おれたちはひとの悪口を言うような人間ではないので、ディレクターさんの悪口を言ったりということはなかった。と、思う。

詳しく書いていると、スソさんの資料総動員になるので、やめて次の狛江古墳群へ。狛江には「狛江百塚」といわれるほど古墳があったが、多くが消失し、現在確認できるのは25ぐらい。移動の最中に、ときどき雨が強く降り、早く終わらせようという機運が、強まる。

0794ヵ所ほど巡る予定だったが、2ヵ所にってことになり、まずは兜塚古墳。狛江駅から10分ぐらいの、「高級」というほどではないが、洒落た家の多い住宅街のなかにある。南向きの道路を通して、多摩川に向かっての傾斜地の上の方だとわかる。やはり、古墳は、眺めのよい気持よいところに造られているし、現代人にとっては、かっこうの住みよい場所になるのだ。兜塚古墳は、これもスソさんの資料によれば、直径30m、高さ4m、6世紀中頃。古墳のテッペンに立つと、何も無いが気分がよい。出来た頃は、ここから多摩川や川原が見下ろせたに違いない。

087二つ目は、もっと駅に近い経塚古墳。直径40~42m、高さ5m、5世紀後半。周溝もあったと見られるが、ここは片側は道路、両側はマンション、もう片側は駐車場にザックリ削られ、ほとんど原型をとどめていない。高さも削られているようだった。それでもテッペンは気持がよく、なんだ高いところが好きなだけか、というような感じだが、土にふれてみると、古墳の上の木の枯葉が積もって出来た土だから、いい土だ。その気持よさかも知れない。この土の感じは、古から同じか似たようなものだろう。ここでひとしきり、ディレクターさんがくりだす、なぜ古墳なの?って感じの質問に、3人であれこれ答えた。いろいろ言い方はあるけど、ようするに、古と交信しながら、いまを、自身を、確認しているのである。

ちょうど雨脚も強まり、急いでロケ車に乗り込み、これにて終了、食事をすることになった。食事のあと狛江駅まで送ってもらい、制作のみなさんと別れ、おれたち3人は新宿へ。

まだ14時ごろだったか。さあ飲むぞと、乾杯。そうそう、おれだけ、すでに狛江の食事のときにビールを飲んでいたのだった。

スソさん帰り、瀬尾さんとおれは、もう一軒。さらに18時ごろ、もう一軒と開店早々のバーに入り、ここで21時半ごろまで飲んで、ようするに、酔っ払った。酔ったので、東大宮に着いて、ちゃぶだいに寄ってしまい、泥酔ヨレヨレ帰宅だった。

本当は、もっといろいろなことを話し合い、重大な「告白」もあったり、いろいろなことを考えて、今日になっても、古墳にふれた刺激がおさまらず、あれこれ妄想しては興奮し、調べている。大きくは「日本人」といわれるひとたちは、どこから来て、どこへいこうとしているのか。小さくは、おれはどこから来て、どこへいこうとしているのか。そして、いま、『オオカミの護符』(小倉美惠子、新潮社)を読んで、興奮している。

この番組は、海外に向け日本の文化を紹介するNHKの国際放送とのことで、国内向けにはBS1だったかな?で放映されるらしい。4月28日の予定とか。古墳を紹介する30分番組のうちの、われわれはほんの少し登場するぐらいだろう。ま、古墳部活動が面白いのであり、放送のことは、どうでもよいのである。

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2012/02/05

よく歩き、よく呑んだ、泥酔記憶喪失帰宅、古墳部活動の一日。

今日は、夕方まで、昨日の酒が残った。朝早くに出かけ、千葉県富津市の青堀駅に10時7分に着き。周辺で、古墳を4か所見て、歩いたのは6キロていどか。13時半ごろに中華屋に入って、ビールと紹興酒。それから都内に向かってもどり、小岩の野暮酒場で大いに呑み泥酔。それでやめておけばよいのに、酔えばもっと呑みたくなる悪癖。23時ごろ東大宮に着いてから、ちゃぶだいへ。生ビールのあとに呑んだ、鶴齢がうまくてうまくて、おかわり。泥酔記憶喪失帰宅となった。

古墳部活動は、去年の暮れの27日に千葉へ行ったばかりだが、昨日もまた千葉へ行った。今回は、富津市にある、内裏塚古墳群のなかの西谷(にしや)古墳の現地説明会に参加するのだ。内房線の青堀駅に10時7分に着く電車で行く。遠い。朝6時に起き、45分ごろ家を出た。雪をのせた富士山が赤く染まっているのを見ながら駅へ。

前日、サキさんにメールで、ホリデーパスを買うとお得であると教えてもらったので、2300円でそれを購入。なるほど最低でも千数百円は得する。

千葉駅で立ち食いそばの腹ごしらえをしてから内房線に乗った。乗る直前に、スソアキコさんと瀬尾幸子さんと合流。木村衣有子さんとサキさんも同じ電車に乗るはずだが、姿が見えない。スソさんに遅刻のメールが入っていた。10時50分に青堀着であると。

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青堀駅に着いた時は、まだ寒かった。だけど、快晴、日差しは暖かくなりそうな気配だった。駅の陸橋から、駅広場の向こうに墳丘のようなものが見えた(画像の左端)。スソさんが「あれ、古墳じゃない、きっと古墳だよ」と言う。なるほど、古墳らしくは見えるが、駅のまん前にあるなんてと半信半疑で改札を出る。現地説明会の案内の看板が出ていた。その向こうに古墳らしいものがある。スソさんが走る。「やっぱり古墳だよ」と言う。さすが、古墳部長。

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説明板を見ると上野塚古墳。ホタテ貝型で45メートルあるが、石室があるはずの墳丘の中心部を残して、大部分は駅前広場や駐車場に削り取られて無残な姿。地形を見ると、ここから海岸のほうへは下りの坂道で、昔は海だったところが埋め立てられたとわかる。つまり、古墳ができたころは、海に近い砂丘の上で、目立ったにちがいない。

西谷古墳へ行くため、陸橋を渡り駅の反対側へ。するとすぐ「古墳の里 ふれあい館」なる建物があった。新しい、そのあたりだけ、古墳は壊すが無駄に金をかけてキレイにしたような、よくある土建先行の「まちづくり」。もっとも、土建先行であるがゆえに、西谷古墳も、県道建設のために発掘調査が行われた。そうでもないと、調査はされず、いつのまにか消滅しちゃうということもある。ここは、調査が終われば、消滅し県道となる。

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内裏塚古墳群は、この地域に47の古墳があるとされている。その半分近くが消滅している。名称である内裏塚古墳は、南関東で最大規模、144メートルの前方後円墳だ。西谷古墳は円墳で28メートル。その墳丘の頂上の向こうに、内裏塚古墳の木立が見える。

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現地説明会といっても寂しいものだろうと思って行ったが、とんでもない。地元の老若男女がつぎにつぎに来るのだ。ちょいとした祭り会場のよう。あるていど人数がまとまると、学芸員の方が案内し、説明してくれる。

Dscn02147世紀つまり600年ごろのもので、古墳時代後期だから、豪華な感じはない。岩石の乏しかった土地であるからだろう、横穴式の石室は、近くの海岸の崖から切り出した砂岩が使われていて、石の表に海岸の砂岩独特の穴ぼこがある。こういうのは初めて見た。石に、四角に形を整える加工を加えた形跡が、あまりない。天井石も、削って形を整えると、岩が小さくなってしまうからか、切り出したままのような形をしていて、いかにも海岸から運びましたという、そのままの感じだった(下の画像)。

Dscn0216それに、石室からは、いまのところ13体もの人骨が見つかっており、ぎゅうぎゅう詰め込んでいるのだ。学芸員さんに聞いたら、おそらく最初は木棺を使ったかも知れないが、あとからは布にくるんだだけで埋葬したのではないかということだった。古墳の建造も含め、だんだん埋葬が簡略になった様子がわかる。

副葬品の須恵器が、プレハブの作業小屋のようなところに展示されていた。この頃になると、その形や薄さなど、ほとんど今に近い。「このあたりから、もう現代だね」と冗談を言いながら見たが、実際そんなに遠い時代の感じがしない。平瓶などは、まさに酒を注ぐのによさそうで、欲しくなる。だけど、縄文土器を見るときのように、熱くはなれない。現代、あるいは現代的、というのは、タイクツなのだ。

一通り見終わったころ、古墳部活動初参加のサキさんと木村さんが到着して、学芸員の説明の輪のなかに入った。二人は、このあいだ多治見へ行って、多治見や土岐や瀬戸を見てきたばかりなので、須恵器などにも興味があったようだ。

Dscn0226つぎに、見えているし、最大規模という、内裏塚古墳へ向かった。見えていても、道はぐるりと、新しい家古い家の住宅街の中を抜ける。

なるほど大きい。墳丘に登る道があって、円墳の上へ。木の間から、埋立地の煙突が見えた。この古墳ができたころは、海からも、あたりのどこからも、よく見えたことだろうと想像がついた。竪穴式石室が2つあって、1つには1体、もう1つには2体が埋葬されていた。5世紀中頃の、かなりの有力者のものだから、埴輪をめぐらし、鉄剣をはじめ副葬品も豪華だったようだ。

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墳丘を被っている木の実であるドングリは、やや長形で、瀬尾さんがこの形のものは、さらさなくても食べられると言って拾っていた。さすが、料理研究家。

つぎは、三条塚古墳だ。汚れた水の堀をめぐらした、荒地と化した飯野陣屋跡に隣接してあるのだが、入り口が見つからず、うろうろした。墳丘に登る途中に、天井石らしいものが見えた。やはり四谷古墳と同じ石だ。その下に石室があるらしい。

千葉は温暖だ。道端には、タンポポが咲いていた。真昼であり、歩いているうちに熱くなり、汗ばむほどだった。がまんならず、重ね着の一枚を脱いだ。

三条塚古墳へ行く途中にあった、〈大公〉という中華屋で昼めし、兼、新年会となった。ここの盛りは、普通でも大盛で食べごたえあったが、いろいろとって、最初はビール、のち紹興酒のボトルを空ける。歩いたあとでもあり、よい酔い心地。

Dscn0257たしか15時ごろの電車に乗って千葉へ、千葉で乗り換えて、小岩へ。野暮酒場は店主の野暮タノさんが1人だったが、われわれ5人が押しかけて一気に賑やかに。例によって、隣の〈肉の津南〉の揚げ物を各種買って、宴会となった。本日の店主が厳選の旬の安酒は、あの越後杜氏の山崎忠一さんが腕をふるう、北関酒造の純米酒だ。なんと、純米酒が、安酒か。そうなのだ、この北関酒造は、純米酒も安い。安さに首をひねりたくなり、首をひねりながら、ビールを小びん2本呑んだあと、これを5杯呑んだまで覚えているが、そのあとはわからない。

タノさんの知人があらわれ、コンさんがあらわれ、スソさんと瀬尾さんは先に帰り、泥酔でもう呑めない状態になるまで呑んで、木村さんとサキさんと一緒に野暮酒場を出た。東大宮に着くまで、記憶なし。東大宮の改札を出るときは記憶があり、23時ごろだった。まだ早いと、ちゃぶだいへ向かったのだった。

よく歩き、よく呑み、にぎやかで、楽しさ満載の一日だったが、今日は死んでいた。

関連
2011/12/29
千葉県立中央博物館「古墳に眠る石枕」展に行った。

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2011/12/29

千葉県立中央博物館「古墳に眠る石枕」展に行った。

Dscn0056一昨日のことだが、ひさしぶりに古墳部活動に参加、千葉県立中央博物館で開催中の「古墳に眠る石枕」展に行った。

11時20分、千葉駅改札集合だった。余裕を持って9時前に家を出た。早く着きすぎたので、立ち食いそばなんぞを食べて時間をつぶす。部長のスソさん、瀬尾さん、宇田さん、畑井さんが揃い、まずは昼食ということで、少々歩いて「阿づ海」というそば屋へ。おれは立ち食いをやったばかりだったが、カツ丼をガツンと腹に詰め込む。古墳部は、よく歩くし、立ちっぱなしの時間が長いから、腹ごしらえは十分すぎるぐらいがよい。初対面の米沢さんが合流。

Dscn0059_3総勢6名、千葉駅にもどり、バスに乗る。千葉大病院前のバス停で降りて、10分ほど歩く。そこは、広大な台地の上だ。千葉の台地の上では、海の風と太陽の光を感じることが多いが、今回もまた。埼玉とは風土がちがうと思う。歩くと、右前方、住宅が切れて森林が広がる。「青葉の森公園」という、その中に、博物館はあった。かなり広い敷地に、石造りの平屋の建物。「千葉は無駄に広い」という感想で、贅沢に思ってしまうのは、日頃がセコイ環境にいるからにちがいない。

Dscn0067_2畑井さんの知り合いの学芸員さんとの待ち合わせに時間があったので、敷地内にある荒久古墳へ。とにかく無駄に広い、博物館の受付でもらった公園の案内図を見ながら行くのだが、途中で方向がわからなくなり、掃除のおじさんに尋ねる。すると、「その道を上がったところ」と指差す。そちらを見ると、まぎれもない古墳の姿が。誰からともなく、「あったー」と声が上がり、おじさんにお礼もそこそこに、われ先にと駆けだす。なぜか古墳の姿を見ると気分が高揚するのだ。古墳は初めての米沢さんが、「わかったぞ、この高揚感」とか言いながら早足、もう古墳にハマった感じ。

荒久古墳は、この公園でも最も見晴らしがよいと思われる場所にあった。一辺が20メートルほどの方墳(円墳という説もあるようだが)。この件については、日をあらためて、写真を掲載する。今日は、石枕。

Dscn0077_2石枕は、埋葬のときに、遺体の頭をのせた、まさに石の枕。西日本や北陸では石棺に造り付けや別に造ってはめ込んだものもあるが、千葉では、木棺から石枕だけが多く発見された。滑石という比較的柔らかい石を削って作られている。全国に「120例ほどありますが、そのうちの約半数は千葉県内から発見されており」というもの。

しかも、千葉では「5世紀前半頃に始まり、6世紀の前半頃で姿を消す」、約100年間だけのもの。もっとも、他の地域では、それ以前に多く、この時期には姿を消しているようだ。古代のセレブの流行現象か。それが、ズラリ展示されている。

Dscn0104千葉では、特定の地域に集中的に発見された。つまり、房総は、現在の水位が10メートル上昇すると島になるといわれるが、かつては島であり、海面の後退と共に現在の姿になった。古墳時代には、霞ヶ浦や印旛沼や手賀沼などは一つであり、銚子のへんで外海とつながる大きな内海を成していた。「香取海(かとりのうみ)」と呼ぶのだが、その房総側の海沿いの古墳に、石枕が集中的に発見されているのだ。石枕は、粗っぽい造りのものもあれば、かなり丁寧に造られ文様が入ったものもある。

石枕と共に、「立花」と呼ぶ石細工品が見つかっている。これは、石枕の周辺部にある小さな孔に立てられたものだとわかっているが、発見の状況や調査によって、埋葬の以前の「もがり」と推察できる葬喪の礼のときに、そのように使用されたあと、孔からはずされ、一緒に埋葬されたようだ。それも、孔の数と立花の数は不揃いなので、テキトウだったと思われる。

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Dscn0081立花は勾玉を平らに削って、背中あわせか向かい合わせに結んだような形をしている。これを枕石の孔にさすと、死者の首飾りのようでもある。生前の勾玉の首飾りを連想できそうだが、それなら、なぜ生前使用のものを、そのまま首にかけるなりして埋葬しなかったか。そもそも、これは花を模ったものなのか。謎だらけ。

おれが興味を持ったのは、立花と一緒に発見された石製模造品だ。これは石の斧や刃物などの道具や飾りのミニチュア。これらと石枕や立花と合わせて考えると、いずれも技術が必要な石細工のものなのだ。しかも、その石は、もともと房総地方では石の産出が乏しく、秩父や群馬など、よその地域から運ばれたもの。石は重いものだから、香取海を利用して舟で運ばれたのであり、石枕が発見された地域では、たくさんの玉作遺跡や石製模造品製作遺跡が発見されている。つまり、海運の海人や、石の工房があり工人がいたにちがいないのだ。香取海の海人そして石の工房と工人。

さらに、石枕が発見された古墳の多くは、数十メートル以下の比較的小さなものだ。強大な権力や、畿内とのつながりの強さを思わせる、埋葬品も派手な、大型の前方後円墳ではない。見ていても、強い「国力」を持った武人の面影は浮かばない。となると、古墳の主は、この地域の海人や石の工人の親方のような豪族の長か親族あたりだろうか・・・と、おれの妄想は、いま茨城つまり常陸と、千葉つまり房総の境目になる、この「常総」地域へと、どんどん広がるのだった。香取海、常総・・・、なにかありそうだ。香取神宮と鹿島神宮と、その周辺を、あらためて見直したいなあ、とか。

Dscn0074学芸員さん、すみません、スソさんは名刺交換していたけど、お名前を思い出せません。たしか、課長さんでした。2時間ほど、展示場を歩きながら、丁寧に説明くださり、お疲れだったと思う。ありがとうございました。

おれたちは、まいどのように遠慮なく質問したり自分の考えを述べたり。いま、ここに書いたのは、その話も含め、ほんの一部。いやあ、楽しかった。大いに刺激になった。古のことは現代に通じているし、おもしろい。いろいろ妄想もわいて、さらに行ってみたいところができた。

Dscn0103_2学芸員さんと記念撮影をして別れたあと、常設展の縄文弥生を見て、夢中から醒め気がつけば、喉はカラカラ、疲れた。16時がラストオーダーの喫茶室にギリギリ入り、みなさんはクリームソーダー、おれだけビール。

バスで駅にもどり、近くの沖縄料理店が17時開店というのを、無理矢理15分前に開けてもらい、カンパーイ。ビールがうまい、腹減った。沖縄料理スタンダードを次々に食べながら、大いに呑んで楽しい語らい。まいどのことだが、これが、いいんだなあ。はて、21時頃までいたか。家に帰り着いたのは23時頃だった。

いずれ、「ほぼ日刊イトイ新聞 スソさんのひとり古墳部」でスソさんの正確かつ楽しい報告があるでしょう。…クリック地獄

千葉県立中央博物館のサイトは見にくいが、この展示は2月26日(日)まで。…クリック地獄

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2011/11/28

墓も古墳も死生の妄想か、それとも一夜の酔夢か。

001きのうは、東京カルチャーカルチャー@お台場で〈「墓マイラーと古墳めぐり」トークバトル!〉ってことをやった。これで、カルカルでの古墳がらみは、3回目かな。

出演者は、あきやまみみこさん(墓マイラー)、小嶋独観さん(墓マイラー)、まりこふんさん(古墳シンガー)、おれ遠藤哲夫(大衆食堂の詩人)、司会:テリー植田さん(東京カルチャーカルチャー・プロデューサー)という顔ぶれ。
http://tcc.nifty.com/cs/catalog/tcc_schedule/catalog_111026203756_1.htm

17時半開場で18時スタートだが、リハーサルがあるので、16時半集合ちょうどに着いた。当初は、あきやまさん、おれ、休憩のち、小嶋さん、まりこふんさんの順序だったが、スライドを見た結果、まりこふんさんとおれは入れ替わった。さらに、「墓マイラー」という名の生みの親であるカジポン(梶本修)さんが大阪から駆けつけ、加わることに。

スタートと同時に呑みはじめる。テリーさんに「呑んでください」といわれていたし、いわれてなくたって呑むのだが。隣に座った、まりこふんさんも、おれと同じペースで呑んでいる。古墳組は大丈夫か、酔ってしゃべれなくなるんじゃないかという勢い。

あきやまさんは、ニースの墓から始まり、沖縄の墓、国内有名人の墓、最後に沖縄の神様の墓など。墓ってのは、生きること死ぬことに関わる文化の集約場所なんだなあ。そういう意味じゃ古墳も同じ。とくに沖縄の神様の墓と、その場所は、ほとんど古墳のような気がした。

まりこふんさんは、古墳のかたちなど、古墳の基本的な話から、野毛山古墳祭りのレポート。あらためて、文字も普及してない時代に、よくあのようにデザインされた大きな構造物を造れたものだと思う。しかも、記録はないため、そこにどんな死生観が込められているかは、想像するしかない。いや、その勝手にアレコレ想像できるってのが、古墳の楽しみでもあるのだが。野毛山古墳祭り、世田谷区の学芸員さんが頑張って企画し、今年で4回目のようだが、ぜひ続けてほしいと思った。ドングリなどを使う古代食もあって、楽しそう。

休憩をはさんで、後半。小嶋さんのトークは、「珍しい墓」というテーマ。田んぼの中の墓。埼玉県でも見られるし、小嶋さんのスライドも埼玉県吉川市の田んぼの中の墓だった。時々見かけてはいたが、こうやって見ると、じつに不思議な風景。なんといっても面白かったのが「樹木葬」というもの。岩手県一関にある例の紹介だったが、墓地は、そのまま自然の山。といっても、もちろん原生林ではないが。埋葬した上に木を植えるというもの。もちろん墓石などはない。これはお寺さんのニュービジネスで、近頃人気らしい。そして、日本のイスラム教徒の墓。イスラムは土葬なので、どこでもよいというわけにはいかない。ところが、なんと、土葬ができる地域というか自治体があるのだな。知らなかった。また、その墓の様子も興味あるものだった。

と、小嶋さんのあとに、カジポンさんが天皇の墓めぐり。時間が短いので23ヶ所だったかな?怒涛のスライドあんどトーク。いやあ、その迫力に圧倒されました。

最後は、おれ。たぶん中生を4杯ぐらいは呑んでいたけど、そこそこ、うまくやれたと思う。

026ajpg古墳の楽しみはいろいろあるが、今回は「妄想編」。もっといえば、東京妄想編であり、アースダイバー的娯楽編なのだ。上野と鳥越と浅草の、妄想をたくましくしないと古墳には見えない古墳を紹介しながら、スカイツリーが、あそこに出来たワケを、中沢新一さんの『アースダイバー』の話などをこねくりながら、妄想する。自由な妄想こそ、想像的遊びの極致。

ま、東京の古墳のある場所は、『アースダイバー』を持ち出すまでもなく、縄文海進の頃の海岸線に多いのだが。東京タワーと芝丸山古墳の関係を『アースダイバー』的に考えれば、スカイツリーにも古墳が関係するわけだ。てな、ことを、理論的に?展開した。21時半ごろ終了。

こうして、墓マイラーと古墳はバトルにならず、いっそう墓も古墳も面白いことを確認する結果になった。こんな生と死もある、楽しい夜だった。めでたし。

030帰り、渋谷まで行くというカジポンさんと、東京テレポート駅から大崎まで一緒に。大宮まで直通のちょうどよい電車がなく、乗り継いで東大宮に着いたら23時。腹が減って、ラーメンが食べたく、ちゃぶだいへ。着く直前のおれの前で、店の看板灯りが消える。のれんも仕舞われていたが、中には客がいた。なら大丈夫。無理をいって、ぎょーめんを作ってもらって食べて、呑んだ。帰る途中で酔いがまわったのか、記憶が無い。

12月17日土曜日、さばのゆ@経堂で、まりこふんさんと古墳ナイトをやります。トークと、まりこふんさんの古墳ブルース。きのうは、まりこふんさんの古墳ブルースはなかったので、この日、大いにうたってもらおう。ま、忘年会のつもりで、みなさんご参加ください。

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2011/03/05

読売新聞に「いとしの古墳」と、まりこふんさんたちが登場。

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きのう、知人から3月2日の読売新聞が届いた。おおっ、「くらし・家庭」の欄に「いとしの古墳 1」。「謎に興奮 ロマンに夢中」「「石舞台」「仁徳陵」歌い上げ」の見出し。

昨年12月21日東京カルチャーカルチャーの「古墳でコーフンナイト」で古墳ブルースを熱唱するMARIさんことまりこふんさん、いや、まりこふんさんことMARIさんか、とにかく、まりこふんさんの写真が堂々と。

リード文「古(いにしえ)のロマンを感じさせる古墳。歴史好きはもちろん、一般の若い女性ファンも増えている。魅力を紹介するトークショーが開かれたり、出土品が街おこしのキャラクターに採用されたり。暖かくなってきて古墳巡りに適したこの季節、今風の楽しみ方を探してみた。」

んで、まりこふんさんが、熱く語る。いやあ、いいねえ。鍵穴形の前方後円墳、かっこいいよな。おっ、古墳部長のスソアキコさんも登場して、「古墳部」を語っている。おっ、東京カルチャーカルチャーのプロデューサーで、「古墳でコーフンナイト」の司会者にして、「古墳銀座」といいたい奈良県桜井市の、しかも古代の天皇陵墓に関する定説あるいは伝説をくつがえすような発掘が昨年あった茶臼山古墳を遊び場にして育った、テリー植田さんも語っている。「グルメに詳しいフリーライターは当時の食べ物について話が膨らむ」ってあるけど、これは、おれは「グルメに詳しい」ことはないが、おれのことらしい。

とにかく、古墳や弥生、縄文については、これまでのジジイクサイ考古学的談義じゃない、もっと自由で新鮮な感性の楽しみ方があってよいと思うね。その時代は、何度か当ブログにも書いたように、エラソウな文字文化がないわけで、ロマンと想像力の、いい遊びと鍛錬にもなる。それに、いずれも目で見るアートってわけで、おかしな評論家たちや文筆家のおかげでおかしくなったアタマを矯正するにもいいのさ。それから、流布しているインチキな縄文料理に関するアレコレも、現場を見れば、インチキ加減もわかる。

おれたちは、文字文化によって、いろいろ難しく堅苦しく狭くめんどうくさいアタマになっている面もあるわけで、とにかく、古墳や太古の土器などにむかうと、いろいろ解放され、おおらかに気分よくなれる。

ああ、暖かくなってきたから、これから古墳巡りは、いいねえ。行きたくて、身体が疼く。

それで思い出したが、昨年のドン末12月31日の埼玉新聞、たまたま移動の最中に駅で買った。すると、「古代解明の資料続々」「考古学この1年」の見出し。「今年の主な考古学ニュース」という一覧には、たしかに、ほぼ毎月、大きな発掘発見があったのだ。「古墳時代 甲冑には大量の金」「飛鳥時代 正倉院宝物と判明」「奈良県の古墳で成果 陵墓指定揺るがす発見」「旧石器ー弥生時代 3センチの縄文ビーナス像」の記事。

これから、まだまだ古墳とそれ以前は、おもしろくなる。

ってことで、つぎの東京カルチャーカルチャーでの古墳トークは、4月24日日曜日の午後ですからね。まりこふんさん、スソアキコさん、テリー植田さん、おれが、たぶん揃ってテキトウにしゃべり、テキトウではないまりこふんさんの古墳ブルースが聴けるでしょう。

読売新聞さん、たまーに当ブログでチクルけど、どうもありがとうございました。

2011/01/13
「古墳でコーフンナイト」ライブレポートと大仙陵古墳周遊。

2010/12/22
やっぱり古墳はおもしろい、古墳にコーフンナイト。

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2011/01/13

「古墳でコーフンナイト」ライブレポートと大仙陵古墳周遊。

0032011/01/08「大阪・天満濃い街泥酔取材、のち東京・新橋新年会泥酔帰宅。」に書いたように、大阪・天満の取材は午後2時からだったので、朝5時起きして出かけ、堺市の大仙陵古墳へ行った。

大仙陵古墳または仁徳陵古墳と呼ばれるが、仁徳陵かどうかは調査が不十分で確認できない。その基底部の面積は世界一の墓ともいわれ、エジプトのピラミッドや中国の秦始皇帝の墓とならぶ三大ナントカという宣伝もあるぐらい、とにかくデカイことで有名だ。以前に一度、見ているが、デカイだけで、まりこふんさんが歌っているように、デカすぎるゆえに全体像がわかりにくいうえ、宮内庁のために中にはいることもできない。ただの小山というかんじで、隔靴掻痒とまでもいかず、まったくツマラナイものという印象しかなかった。

ところが、市庁舎の21階展望台から、全体が見られるというので、とにかく行ってみようということだったのだ。

そりゃそうと、2010/12/22「やっぱり古墳はおもしろい、古墳にコーフンナイト。」に報告した、東京カルチャーカルチャー@お台場における「古墳でコーフンナイト」は、次回がありそうな気配。

その「古墳でコーフンナイト」のライブレポートが、東京カルチャーカルチャーのサイトに掲載されています。
http://tcc.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-2d6c.html

以下、大仙陵古墳周遊写真。下車駅は、阪和線の百舌鳥駅を利用した。

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大仙陵古墳のほかにも、履中陵古墳、反正陵古墳などを中心に大小47基あるそうで、百舌鳥・古市古墳群と呼ばれている。

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駅から50メートルで、古墳の隅に着く。道路の右側がそう。駅は小さいが古墳はデカイ。

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宮内庁が、エラソウに天皇の古墳と人びとのあいだを遠ざけ、本当に宮内庁を信用していいの?という不信をもたらしている。

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ひたすら堀のまわりを歩くより仕方ない。足の疲れと共に宮内庁への不信が高まるばかり。

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おれは、この食堂の発見が、うれしかった。たくさんあって関西では有名だからね。でも、時間がなかったので、写真だけ。

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市庁舎の21階で、ゼンボウをと思っていたが、周囲の掘は見えず、やっぱり小山があるだけ。でもまあ、古墳群や生駒山の位置関係などがわかって、いろいろ想像がふくらんだ。現場にふれるのは大事だ。

しかし、これだけ都市に囲まれてしまっては、古墳群としての風景や姿かたちは、周囲が田んぼのさきたま古墳群のほうがよいね。

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大仙陵古墳のなかには、いくつかの小さなコブのような古墳がある不思議。このデッパリもその一つの茶山古墳。歩道橋の上から撮影した。

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歩道橋の上から、ふりかえると、下の写真、ラブホが美しかった。

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酒とセックスに興味がなくなることは、生命の危機だという説を最近なにかで読んだことを、ここで思い出した。古墳の近くにラブホがあることは、まさに死生や生命の理にかなっている。むかしから神社仏閣の近くに色町が栄えたのもうなずける。

ああ、おれも、酒だけじゃなくラブホをもっと力強く利用するようにならないと生命の危機であると、歩道橋の上から、ラブホと古墳を拝んだのだった。

古墳は墓だから、生と死に思いをめぐらすにもよい。古墳巡りは、ほんとうに楽しい。宮内庁さえ邪魔しなければ、もっと楽しいにちがいない。

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2010/12/22

やっぱり古墳はおもしろい、古墳にコーフンナイト。

どーも、みなさん、寒い雨の中、ありがとうございました。おもっていた以上、たくさんの方にご来場いただきました。東京カルチャーカルチャー@お台場の大ハコが、さみしくならずよかった。

やっぱり、古墳は、おもしろい、楽しい。

プロデューサーの、テリー植田さんには、このような機会をつくっていただき、ありがとうございました。まりこふんさんの、新曲、石舞台古墳のうたも、なんど聴いてもよい仁徳陵のうたも、ほんと、すばらしい。スソアキコさんは、1月2日からの帽子展を控えて忙しい中、ありがとうございました。やっぱ、古墳の話は、スソさんがいて、おもしろくなる。なんと、特別出演、エジプト大使館のガドさんのピラミッドの話もありました。どの国の「墓」も、おもしろい。あせって、バタバタ作ったスライドだが、それなりに役に立ってよかった。

出演中の飲み物はタダで、生ビールが残りわずかになると、すぐ次が出てくるのには、大感激。そうですねえ、6杯ぐらい飲んじゃったでしょうか。

映像がユーストリームで見られますよ~…クリック地獄

雨がいまにも降りだしそうな空だった。「お台場」なんぞには、まったく縁がない。18時リハーサル集合だが、チョイと早めにと思い、東大宮16時8分の電車に乗った。新橋経由ゆりかもめで青海へ。電車降りて改札出れば、なにか案内板があるだろうと、よく地図を確かめもせずに行ったら、建物がいろいろあって、どこに東京カルチャーカルチャーがあるかわからない。ウロウロしても見つからないから、テリー植田さんに電話してみようかと、案内板を見ていると、ちょうどスソさんが来た。スソさんが「そこ」と指したところは、すぐ前。田舎者は、きらきらサインがたくさんあると、目が回って、サインの区別がつかないのだなあ。けっきょく、18時近くに中に入ったら、まりさんが、うたのリハをやっていて、のびやかで天井知らずのような大声量が響き渡っていた。

朝から一滴も飲んでないイマイチの調子で、パソコンとスライドをセットし、司会のテリーさんスソさんとトークの打ち合わせ。終わって、とにかく一杯と、生ビールを頼む。それを飲みおわらないうちに、スタートになったので、持って壇上へ。

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テリーさんの司会で、簡単な自己紹介のあと、作っていったスライドで、トーク開始。

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予定は45分、なくなれば出てくる生ビールを飲みながら調子をあげ、話をスソさんにふりながら、おれは酔っ払いの気楽な司会の感じ。時間は少しの超過で、無事に終わる。

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休憩のあと、エジプト大使館のガドさんの、エジプトの大古墳ピラミッドの話。

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つぎ、まりこふんさんは、ブルースのMARIさんのステージ衣装に着替え、先日の奈良古墳めぐりのトーク。

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とにかく飲みながら、楽しく話しに加わる。

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まりこふんさんは新曲、先日の奈良古墳めぐりで出あった憧れの石舞台古墳を滔々とうたいあげる、古墳ブルース「遥かなる石舞台」。もう時間は、22時をまわっていた。だけど、スロコメでの古墳ナイトで聴いて、どうしてもまた聴きたい「麗しの仁徳陵」を無理矢理お願いし、アンコール。いやあ、よかった。

終電時間が迫っている。アタフタ、みなさんに挨拶も満足にせずに、会場を出る。出て、またもや田舎者のドジ、りんかい線東京テレポート駅に行くはずが、ゆりかもめのお台場駅へ。アワテテもどって、東京テレポート駅を見つけ、ホームで電車を待っていると、スソさんがあらわれ一緒の電車に。

東大宮に着いたのが、24時チョイすぎ。改札出たら、身体が東口側に傾く。のれんの片づいたちゃぶだいに押し入って、もつ煮込みに、ビールと鶴齢。心地よい酔いで帰宅。かなり強い雨が降っていた。

東京カルチャーカルチャーのサイトに載せる、ライブの様子を撮影してくださる、「大仏ハンター」の大北浩士さんと初対面挨拶。奈良まほろば館や奈良の会の方とも、初対面の挨拶。

たくさんの初めての方のほかに、いつもの野暮連、やどや関係、スロコメで会ったことがある方など、ほんと寒い雨の中、ありがとうございました。

さきほど、テリー植田さんからメールがあって、次回の打ち合わせ予定、ってことは、次があるのだ。さらにまた、よろしくお願いします。

写真は、同行者が撮影。

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