2018/03/06

ものごとは多面的。

ひさしぶりにネットをウロウロした。ツイッターも昼間からシラフでのぞいた。

その伝手でたどりついたのが、これだ。かなり刺激的な内容。これは、なかなか面白い。

「ジェームス・フェラーロとショッピング モールの美学」のタイトルで、「消費者文化を映し、崩壊するアメリカンドリームのイメージを暴く、電子音楽家との対話」というサブタイトルがついている。文は、 Robert Grunenbergという御方。
https://www.ssense.com/ja-jp/editorial/culture-ja/james-ferraro-and-mall-aesthetics?lang=ja

『欲望と消費』を思い起こさせる。『欲望と消費』のこれから、という感じになるかな。

現代の食文化は、現代の消費文化や資本主義や民主主義と深く関わっている。これからどういうスピードでどう動いていくか。

このあいだから、五十嵐泰正さんの『原発事故と「食」 市場・コミュニケーション・差別』を読んでいる。ゆっくり、よく咀嚼しながら読んでいる。これは、根本的には、日本の「オーガニゼーション」と「コミュニケーション」が抱える問題になると思う。

五十嵐さんの著作は、そこそこ読んでいるけど、あまりにも分析と整理がうまいため、すらすら読めて、簡単に五十嵐さんに同化してしまい、自分は五十嵐さんと同じように「正しい見方」をしているもんね、という感じになってしまうキケンがある。それでは五十嵐さんの労作がむくわれないだろう。そうならないよう、よく咀嚼しなくてはならないのだ。ま、おれの頭のできがよくないこともあるが。

さきほど、ツイッターでエゴサーチなるものをやったら、『大衆めし 激動の戦後史』がヒットした。

先月のツイートだが、ツイッターもあまり見てなかったし、エゴサーチも長いことやってなかった。

この本のことだけではなく、備忘として残しておきたいツイートだったので、ここにまとめておきたい。

ツイートされていたのは、このアカウントの方だ。『食に淫する』は、タイトルだけは知っていたが目にしたことはない。

シャマダマ●
@syamada0504
『食に淫する』の制作に関わっています(モデル・寄稿・アシスタント)。日本文学研究。
http://aoi-monday.hatenablog.com/

この方が、以下のようにツイートしていた。江原恵の『庖丁文化論』にも、おれが好きな作家、津村記久子にもふれている。

とにかく、言及ありがとうございました。


https://twitter.com/syamada0504/status/961238094878998528
シャマダマ●
‏ @syamada0504

2013年に3冊の食に走る力線を浮き彫りにする本が出ている。畑中三応子『ファッションフード、あります。』(3月)、遠藤哲夫『大衆めし 激動の戦後史』(10月)、速水健朗『フード左翼とフード右翼』(12月)。2008年から連載されたこの仕事で、畑中はファッションとして食べてきた
22:59 - 2018年2月7日

シャマダマ●
‏ @syamada0504

1970年代以降の日本人の姿と、何が人々を動かす情報を作り出していたか、を大きく示した。速水が若い書き手として現状分析とマッピングを行うのに対して遠藤は70年ごろからマーケティング業界に身を置いた経験を踏まえて実感的に、また明確な地に足のついた「大衆」という問題意識を持つ。
23:00 - 2018年2月7日

シャマダマ●
‏ @syamada0504

『ファッションフード』がある意味一番「使える」のだけど、佐藤亜沙美(コズフィッシュ、ADに祖父江慎)のデザインも素敵な本としての魅力も兼ね備えている。3月に文庫化されるが、どうなるのだろう……。ちくま文庫から。解説は平松洋子。
23:02 - 2018年2月7日

シャマダマ●
‏ @syamada0504

「帝国のない未来を、もっと想像してみることにしよう」と呼びかける遠藤哲夫『大衆めし 激動の戦後史』は、何も思想的な闘争に誘っているわけではない。あくまでも「野菜炒めをつくり食べながら」。思想に先導/扇動されて食卓を明け渡し、自らの身体を植民地化する食べ方を批判する。
1:50 - 2018年2月11日

シャマダマ●
‏ @syamada0504

「大衆めし」という視点に拠って、日本料理が日本"の"料理ではないこと、食の薀蓄語りの貧しさ、スローフードや食育の言説が弄ぶ欺瞞が照らし出される。思想性やモノの豊富さから、食べるメチエによる豊かさを奪取せよ。「大衆めし」とは大地に接し、食べる身体を拠点化するための批評装置である。

https://twitter.com/syamada0504/status/968089007367192576
シャマダマ●
‏ @syamada0504

「水の月や砧巻は、変革期特有の料理人の類型的なレトリックである。そしてこのレトリックは、産業資本の確立がもたらした変革が、伝統的庖丁文化と交差したところに生まれた、一種のデフォルマシオンであり、料理人のモダニズムでもあった。」(江原恵『庖丁文化論』)

シャマダマ●
‏ @syamada0504

庖丁さばきを貴ぶ日本料理は食物を空疎化し、観念に拝跪せしめる権威主義に堕した。それとともに料理は家庭と料理屋に分断され、料理の概念もどこかに紛れてしまった。そうした情勢に、江原は大地へ向かうよう提起する。割から烹へ。烹のはじまりへ。言葉遣いからも芬々たる詩人による料理批評の奇書。
20:43 - 2018年2月26日

https://twitter.com/syamada0504/status/969214353227505664
シャマダマ●
‏ @syamada0504

津村記久子「粗食インスタグラム」をやっと読んだ。単行本には未収録で、『群像』2015年9月号に掲載。たしか藤原辰史との『ナチスのキッチン』にちなんだ対談で名前が挙がってて、きれいで美味しそうじゃない食べ物をインスタグラムに投稿したら?という発想に興味を惹かれて読みたいと思っていた。
23:14 - 2018年3月1日

シャマダマ●
‏ @syamada0504

しかし一発ネタじゃなかった。一日目の投稿は「クラッカー+水」だけれど、そうなった理由(何を食べればいいか分からなくてスーパーで二時間以上浪費した上、コンビニに行っても選べなくて最終的に無色な「水」に辿り着く)がみっちり書かれてるのがいい。翌日は「ソフトクリーム+コーンスープ」。
23:15 - 2018年3月1日

シャマダマ●
‏ @syamada0504

ネカフェの「食べ放題」に「なんだったら食べなくても良い」オープンさを感じて安心する。「私は、ソフトクリームを慎重に器に出して、コーンスープをマグカップに入れ、オープン席のテーブルの上に置いた。そしておもむろに携帯で撮影した。頭も体も悪そうな感じがしたが、不幸せそうではなった。」
23:16 - 2018年3月1日

シャマダマ●
‏ @syamada0504

書かれているのは食べ物がまわりに溢れて選択できるからこそ下さなければならない「判断」の苦しさ。「私」は「判断」する仕事をしていて、だから「その外では、判断をしたくない」と思う。この情報過多の場所に置かれたときの、選別できない「しんどさ」を書いていて素晴らしかった。
23:16 - 2018年3月1日

以上。

津村記久子「粗食インスタグラム」を読んでみたい。

ほかに、相互フォローの関係なのに気がつかなかった。1年ちょっと前に『大衆めし 激動の戦後史』について言及されていた方がおられた。相互フォローだが、存じ上げない方だ。

https://twitter.com/skyshouk/status/816435485505486848
skyshouk
‏ @skyshouk

『大衆めし 激動の戦後史』は料理につきまとう観念は外した方が良いと教えてくれる。「あるものをおいしく食べる」(p192)というのが食文化で、そこを見すえた方がいいよと。
その他、コールドチェーンが食の流通において世界だけでなく、日本を初めて統合した(p43)などの指摘も興味深い。
9:06 - 2017年1月4日

skyshouk
‏ @skyshouk

skyshoukさんがPost Foodをリツイートしました

前に言及した『大衆めし 激動の戦後史』を読んだ後では、彼女が生活に根ざした料理を作っていたと思しきこと(そしてそれが彼女があまり知られていなかった理由であると示唆されていること)が興味深い。

skyshoukさんが追加
Post Food
認証済みアカウント @WaPoFood
Edna Lewis' classic cookbook zooms up the charts after 'Top Chef' tribute http://wpo.st/829Q2
17:03 - 2017年1月8日

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2017/09/09

火と料理。

拙著『大衆めし 激動の戦後史』の第6章「生活料理と「野菜炒め」考」では、野菜炒めと台所とくに火の条件との関係で野菜炒めを見ている。

これは、きのうふれた『料理の四面体』からの影響があるが、ほかにも、まったく火の条件を無視した「料理の歴史」のようなものに対する批判もこめられている。

日本の料理や食べ物に関する話は、事実の積み重ねから離れた「非科学的」な偏りが多い。そのことの混乱は、いまではけっこう大きな問題をはらんでいる。こういうことについて、料理や食べ物に関して編集したり書いたりしている人は、少なくない責任があるわけだけど、あらたまる方向へ向かっているかんじがしない。

それでも、『料理の四面体』が2010年になってだが、中公文庫から復刊になったのは、あらたまる方向を期待してよいキザシかもしれない。だけど、その中公文庫にしたって、ほかのアヤシイものがはるかに多いのだから、どうなるのだろう。

とにかく、火と料理について、あらためて考えてみた。

いまさら気がついたのだが、おれは、薪と炭の料理の時代からIHまで、体験しているのだった。これは、日常的なことでは、おれたちの年代が最後かもしれない。

おれが小さい子供のころは、薪と炭で料理をしていた。その火の番をするのが手伝いで、かまどやいろりのそばにいて、親が教えてくれたように火力のコントロールをするのだ。

そのときは気がつかなかったが、火力のコントロールは、料理の本質に関わる重要なことだった。

しばらくして石油コンロや電熱器が入り、それは短いあいだ部分的で、やがて中学生のころには全面的にガスになった。ガスが長く続き、9年前に引っ越して、それからはIHと電子レンジの台所で料理をしている。

薪と炭の料理は、縄文時代からの延長線、というより継続だった。これは、薪や炭と空気のあたえかたで火力を調節する。炎のぐあいを見ながら、薪や炭を補充したり、空気を送ったり、こまめに手をうごかさなくてはならない。

ガスになると、ガスと空気の調整は、それほどこまめに手を動かす必要はない。ことによったら、火事になるのを気をつけさえすれば、そばを離れることができる。

だけど、炎が見える火だから、薪や炭の延長といえる。目で炎を見て、手を動かして、火力をコントロールするのだ。

これ、縄文時代からの継続と延長だ。おれが小さいころは、縄文人とかなり近かったのだ。

ところが、IHと電子レンジは、「炎」がない。もっといえば、「火」による加熱ではない。

言い方をかえれば、縄文時代から抜け出したのだ。

しかし、いまだに、IHや電子レンジを「化け物」のようにいう料理の「専門家」がいる。とかく「科学的現象」が理解できないと「化け物」に見えるということもあるようだ。それに、「電磁波」なるものを放射能なみに危険視する人たちもいる。

「炎」が見えないのだから、気持ちはわからんではないが、IHや電子レンジで、料理は、やっと料理の仕組みが理解され、料理が科学として広く認知されるような気がする。そう願いたい。

「秘伝」だの「愛情」だの、あと「誠実」だの「丁寧」だの「真摯」だの、料理を精神や道徳やさまざまな観念の檻にとじこめてきた言論や思想などから、解放されるのだ。

ヤッホー。

という気分なのだが、はたしてどうだろう。とくに職人的な手作業にこだわって、いまや工作機械産業やAIまで遅れをとってしまった日本のことだから、19世紀ぐらいのままの言論と思想の大勢に流されて、ああ、どうなるのだろう。

「火」は文明をもたらした、といわれている。しかし、宗教行事に「炎」の演出がつきまとうように「炎」は「神秘性」と相性がよい。

炎を使う料理は、とかく神秘的に扱われやすく、神秘的なウンチクをかたむけるほどありがたがられた。ありがたがられ「芸術」扱いにされることも多かった。この構造は、陶磁器などのやきものにも通じるが。

「炎」に興奮しても、IHのガラス面に鍋がのっているだけでは、なんの感動もないからなあ。でも、それで加熱が成り立つのだから、感動ものだ。

真実は、見えないところにある。とかね。

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2015/10/26

熊本日日新聞の記事に載っているよ、高岡さんからメール。

Kumamoto0011

今月で、ここ東大宮に引っ越してから7年たったが、生来の無精者で住所変更の知らせを出してなかった。年賀状も出してないから、おれの連絡先がわからなくなってしまった方もいる。熊本県は三角の高岡オレンジ園の高岡さんも、その一人で、すごくお世話になった方なのに、連絡をしてなかった。ほんと、失礼ばかりで、申しわけない。

と言いながら、無精は改まらない。なんでも、自ら反省し改めることは、20歳代ぐらいまでに身につけないとダメだそうで、そのあとは、加齢と共に柔軟性を失い、反省ができないガンコでゴウマンな動物になっていくらしいのだ。ということが、最近読んだ本のどこかに書いてあった。はあ、もう手遅れだ。

それはともかく、その高岡さんから、メールをいただいた。去る10月11日のこと。おれはザ大衆食のサイトに公開しているメールアドレスがあるから、それをご覧になったのだろう。

その日の熊本日日新聞の1面のコラムに、おれの書籍からの記事があったので添付しますと、画像まで付いていた。

ありがたいことだ。不義理ばかりを重ねているのに、うれしいやら、すまないやら。

高岡さんとの出会いは、忘れられないし、その年のみかんシーズンに、高岡さんのみかん畑を訪ねたり、一緒にみかんの販売をしたことも、忘れられない。

あれは1990年ごろ。まだ「無農薬有機栽培」は、ほんの一部のことで(いまでも、メディアで騒がれる割には、一部のことなのだけど)、高岡さんも取り組みだして、たしか5年ほどだったか。

土壌から変えて、せっかくうまくできたみかんを「見た目が悪いから」と農協は引き取ってくれないし、たいがいの消費者にも相手にされないという状況だった。いまからは想像つかないほど、困難なころ。

高岡さんと初めて会ったとき、高岡さんは、こんなにちゃんと作っているのにと、やりばのない怒りのようなものを込めながら、虫除けに使う自家製の木作液を、おれの前で飲んでみせ、人間が飲んでも大丈夫なものを使っているんだと言った。

あのころ、宅配便という巨大システムがあったから、助かったともいえる。おれは、「見た目が悪いのがうまいしるし」だったかな、そんなコピーを書いて、当時の知り合いルートを発掘し、販売の手伝いをした。主に、東京の人たちが、相手だった。

なんでも「無農薬有機栽培」でありさえすればよいかのようにチヤホヤされる昨今からすると、考えられないことだ。

高岡さんも60歳を過ぎた。続いているのは、素晴らしい、よかった。そればかりでない、東京圏にいた息子さんが帰り、就農しているとメールにあった。こんなにうれしいことはない。いやあ、よかった。

ほかの例にもれず、みかんも市場は縮小している。楽ではないだろう。でも、なんとかする道はあるだろう。オレンジ自由化があっても生き延びてきたし、「無農薬有機栽培」に対する無理解の壁も乗り越えてきたのだ。

高岡さんとは1シーズンだけの短い付き合いだったが、濃い付き合いだった。
ザ大衆食のサイトに掲載の「熊本県三角町、高岡さんのミカン」もご覧ください。
これは、2002年10月28日の掲載だから、13年前。いまでは、高岡さんのみかんは、大人気。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/takaoka.htm

おれは「無農薬有機栽培」でありさえすればよいという考えではないし、実際をいろいろ見て来て、誰でもどこでも「無農薬有機栽培」で経営が成り立つとは思っていない。ハヤリだからと取り組んで、栽培的にも経営的にも失敗した例もある。人的要素、自然的要素に左右されやすい。まだまだ、これからだし、大多数の日常の食生活を支える、慣行栽培の向上も必要だと思う。

その話はともかく、高岡さんが送ってくれた、熊本日日新聞のコラムは「新生面」というのだが、食べ物の豊かさやうまさにふれて、おれの『大衆めし 激動の戦後史』から引用があり、つぎのような文章になっている。

「▼衣食住の豊かさとか言われるが、食と衣住は違う。「食は(食べられて)カタチを無くし、良しあしの判断は味覚にゆだねられるところにある」と「大衆めし 激動の戦後史」は書く(遠藤哲夫著、ちくま新書)▼当然と言えば当然の話だが、食べる人の気分や懐具合などで食べ物の評価は違ってくる。そこがおもしろいところだ。本格そばでも立ち食いそばでも、うまいときはうまい」

とかくアタリマエのことを書いても、アタリマのこととして見過ごされやすいのだが、アンガイそのアタリマエをわかっていないことが多い。うまく引用していただいてうれしいね。

「食べる人の気分や懐具合などで食べ物の評価は違ってくる。そこがおもしろいところだ。本格そばでも立ち食いそばでも、うまいときはうまい」。そのように、もっと自由に食を楽しみたい。

高岡さん、ありがとうございました。死ぬまでに高岡さんに会いに行きたい。

Kumamoto0011001

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2015/09/06

『大衆めし 激動の戦後史』にいただいた、お声、その7。

『大衆めし 激動の戦後史』に対する評価は、読んだ方の食文化や料理文化そして生活への関心の持ち方と度合が、わりとはっきりあらわれる。

とくにおれの文章は変化球を多用するから、その読み方のあらわれぐあいは、また一冊の本が書けるぐらい面白い。さまざまなレビューを集めて見ると、いまの食文化状況が見えてくるからだ。

そして、発売時より時間がたってからの読者のほうが、ハヤリの情報に流されない、食に対する自らの関心にもとづいて深い読み方をされるので、それを読んで、また別の意味で一冊書けそうな気になる。

久しぶりにサーチしてみて見つけた、このレビューは、そういうもので、当ブログに掲載した評者からの引用や、『大衆めし 激動の戦後史』に引用した本などにまでふれ、とくにほめそやすわけでもなく、表現方法がどうのこうのでなく、内容を把握し要点をまとめ充実しているので、ありがたい。

こういうレビューを書いてくださる方が増えると、出版文化にとってもプラスになると思うね。

もちろん、本の内容に関係ない中傷のような酷評や、見当違いのどうでもよいようなレビューも、けっして無駄ではなく、ありがたいものだけど。

というわけで、こちらを、是非ご覧ください。

muse-A-muse 2nd
覆水梵に還る
遠藤哲夫、2013、「大衆めし 激動の戦後史」
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/425007585.html


今日から一週間は、いろいろ、忙しい。

当ブログ関連
2014/05/27
『大衆めし 激動の戦後史』にいただいた、お声、その6。

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2015/05/24

食の本つまみぐい。

すっかり忘れていたが、以前、書評のメルマガに「食の本つまみぐい」というのを連載していた。ここのところ、2度ばかり続けて、そのことが話題になる機会があって、おお、そーいえば、と思い出した。

『大衆めし 激動の戦後史』と、この連載をあわせて読むと、ますますおもしろい、とも言われた。『大衆めし 激動の戦後史』を、ボロボロになるほど読んでくださったうえ、そのように言われると、恥ずかしながらライターをしているおれとしては、とてもうれしい。

しかし、『大衆めし 激動の戦後史』を書いているときは、「食の本つまみぐい」のことなど、完全に忘れていた。忘却の彼方。光陰矢のごとし、忘却矢のごとし。

そういうわけで、久しぶりに、ザ大衆食のサイトに全文掲載してあるそれを読んでみた。

03年8月のvol.128から09年12月のvol.436まで隔月の連載で、全35回。

1回目が江原恵の『庖丁文化論』、最終回が玉村豊男『料理の四面体』だ。まさに、『大衆めし 激動の戦後史』の重要な部分を占めている2冊。

最終回では、このように書いている。「この連載は、これが最後。連載を始めるときに、最初は江原恵さんの『庖丁文化論』で、最後は本書で締めくくろうと決めていた。日本の料理の歴史のなかで、もちろん万全ではないが、「画期的」といえるのは、この2冊だろうと思う。」

当時は、書評なんぞ書くのは初めてだから、どうやって書くべきものやらわからないまま書いている。出来不出来はあるが、いま読んでもおもしろく、タメになる。食、とくに料理の本質について考えるによい。

ま、大勢はあいかわらず、食というとグルメや外食を中心に食風俗に関心が傾斜していて、料理の本質なんぞに関心のある人は少ないと思うが、料理そのものを中心に「まちづくり」にまでふれ、料理をめぐるコンニチ的な事柄を広く見渡している。

食と料理を、表層ではなく、突き詰めて考えてみたい人には、読んでもらうとよいかも。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/hon/syokubunkahon.htm

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2015/03/17

『ロッパ食談 完全版』と「日本料理の二重構造」。

001

昨年9月に発売になった『ロッパ食談 完全版』(古川緑波、河出文庫)を、先日買って、パラパラ見ている。パラパラ見るによい本だ。カバーデザイン・装画が、牧野伊三夫さん。

この中に、「食書ノート」というのがあって、ロッパが読んだ食の本の、感想メモといったところ。

『荻舟食談』(本山荻舟、住吉書店 昭和28年10月)について、アレコレ書いているが、おっ、と目を引く指摘があった。

引用………

「常食は重点的に」
 この本で、一番感心したのは、これだ。
 ==外国では家庭とレストランとの料理献立が、ほとんど共通しているから==
 とあり。その通りで、わが国では、それが判然と区別されている。そう言われて、はじめてこの事実を認識した。
 この点、わが国の主婦は、幸福だと言えるかも知れない。とにかく、これは大きな問題である。

………引用終わり。

これは、『大衆めし 激動の戦後史』で述べている「料理」と「おかず」のあいだにある、「日本料理の二重構造」のことだ。本山荻舟も古川緑波も、それを構造的にとらえているわけではないが、現象面はとらえ、古川緑波は「大きな問題」としている。

本山荻舟も古川緑波も、食について見識のあるひとらしい指摘だ。

食文化と料理文化の視点から、その構造的な問題に踏み込んだのが、江原恵で、そのことについては、『大衆めし 激動の戦後史』にも書いた。

最近、戦後の料理史や、「普通」「日常」の食が話題になることが増えているようだが、この「二重構造」のことは、食料供給環境の変化もあり、ますます避けて通れなくなるだろう。

台所と料理は、とくに明治以降に「家庭」と「主婦」が生まれてからは、長い間、山の手の中上流の家庭の台所が、アコガレをリードするモデルだった。

それは、普通や日常ではなく、特別のごちそうをアコガレとして、そのアコガレにふさわしい、料理店や料理学校や山の手中上流の主婦が、「先生」として牽引したきた。

日常の食である大衆食堂もだが、いわゆる「下町」の日常である飲食店がメディアで注目されだしたのは、ほんのここ20年ばかりのことにすぎない。正確には、2000年ごろからだろう。しかも飲食店は注目されても、その家庭の台所が注目されることはない。メディアに登場する「料理研究家」や「料理家」などは、まさに「山の手」、昔の「第一山の手」から鎌倉・湘南まで含む「第四山の手」の人たちが圧倒してきた。

「二重構造」は、そのようにして食文化のさまざまな面に温存されてきたのだが、2000年ごろからのいまは「激動」している。

江原恵は、この「二重構造」の矛盾と問題を、「生活料理学」を指向することで、「体系化」を試み解決しようとした。おれは、「生活料理学」や「体系化」ではなく、「生活料理」をスタンダードとして考え、たびたび述べているように、「近代日本食のスタンダードとは何か」に興味を持ってきた。そこは、同じ「生活料理」を指向しているようでも違いがある。

「スタンダード」と「アコガレ」。

「アコガレ」を指針とした生活は、近代日本の国策のようなものだったから、料理に限らず、上昇志向に凝り固まった「いいモノ」志向は、とくに1970年ごろからの消費主義のなかで、広くゆきわたった。それが「生活の向上」であり「生活の成熟」だったのだ。

「上昇」は悪いことではないだろうが、スタンダードがないと積み重ねにならない。日本の場合、とくに戦後は、アコガレの「いいモノ」を求め、右往左往につぐ右往左往、迷走につぐ迷走だったといえる。

スタンダードという根がない、宙に浮いて上を見て下を見て、「いいモノ」だけを見て追いかける。スタンダードのない生活と社会は、あわただしく、ガツガツカリカリして、余裕がない。

スタンダードは、いいかえれば「標準」ということになるだろう。地図を作るには、標準点が必要だ、そこから東西南北、高低をはかり、図ができる。そして一歩一歩あるく。

スタンダードがない生活や社会は、いつも「落ちる」不安と「上に向かわなくてはならない」焦りに、追い立てられる。「不安と焦燥の文化」といえるか。

なーんて、話がメンドウになったから、このへんで。

まずは、わが国では、家庭とレストランとの料理献立が、判然と区別されてきた、「この事実を認識」することだろう。

当ブログ関連
2015/03/13
食料自給率問題はどうなる。『大衆めし 激動の戦後史』ですなあ。

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2015/03/13

食料自給率問題はどうなる。『大衆めし 激動の戦後史』ですなあ。

今月になって初めてのブログ更新か。本の原稿書きにボットウしていて、その割にはあまり進んでいないのだが、脇道へ入って調べだすと興味がそちらに移り…といった調子のボットウが続いている。

昨日は、サラリとだが、大きなニュースが流れた。これは、まさに『大衆めし 激動の戦後史』に関係すること、「「いいモノ」食ってりゃ幸せか?」問題なのだ。

ネットに掲載のニュースから拾うと、産経新聞 3月12日(木)12時8分配信では、「食料自給率の目標を45%に引き下げへ 農水省、実態踏まえ5割断念」の見出しで、本文は以下の通り。

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 農林水産省がカロリーベースで50%を目指す食料自給率目標を現在の50%から45%に引き下げる方向で調整していることが12日、分かった。今後10年間の農業政策指針とする「食料・農業・農村基本計画」に明記する。実現可能な目標に見直すことで、自給率の向上を追求する政策から収益力重視へと転換を図る。

小麦製品や肉類が浸透した日本人の食生活は多くの食料を輸入に頼っており、食料自給率は平成25年度まで4年連続で39%と目標を大幅に下回っている。農水省はこうした実態を踏まえ、先月まとめた食料・農業・農村基本計画の骨子案で現行目標から引き下げる方針を示していた。

 農水省は新たな指標として食料の輸入が途絶えた際に、国内でどれだけ食料を自給できるかを示す「食料自給力」を設置する方針。補助金で生産力を高め自給率向上を目指す現在の農政から脱却し、付加価値の高い農作物の生産を促し、収益力の高い農家を育てる政策に切り替えていく。
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毎日新聞 3月12日(木)21時47分配信では、「<食料自給率>45%に目標引き下げ…財政難でてこ入れ困難」の見出しで、本文は以下の通り。

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 農林水産省は、食料自給率(カロリーベース)の目標を現行の50%から45%に引き下げる。財政難で大型補助金によるてこ入れが難しい中、2013年度で39%にとどまる自給率を現行目標まで引き上げるのは困難と判断した。

 食料自給率は、国内の食料消費が国産でどのくらい賄えているかを示す指標。1965年度に73%あった自給率は、89年度に50%を切り、2010~13年度は4年連続で39%だった。背景には、国民の食生活の変化で、自給率の高いコメの消費量が減り、自給率の低い肉類など畜産物の消費が増えていることがある。

 農水省は10年、自給率目標を45%から50%に引き上げた。ほとんどを輸入に頼る小麦の国内生産拡大を自給率向上策の柱に据えたが、目立った成果はなし。昨年10月には財務省の審議会が「財政負担に依存した国内生産への助成措置のみで自給率を引き上げるのは困難」と批判していた。

 政府は、3月末にも新たな自給率目標などを盛り込んだ「食料・農業・農村基本計画」を閣議決定する。生産額ベースの自給率をより重視していくことや、国内農林水産業の潜在的な生産能力を示す「食料自給力」を新たな指標に加えることも打ち出す。自給力では、凶作や輸入の急激な減少などの有事に備えるため、農地面積や農業従業者などを最大限に活用した時の生産量を示すという。「いざという時に生産できれば、自給率が高くなくてもかまわない」との考えとも言え、自給率向上を軸としてきた日本の農政が大きく変わる可能性がある。【田口雅士】
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読売新聞 3月12日(木)14時36分配信は、「食料自給率目標「45%」に…初めて引き下げ」の見出しで、「「2020年度までに50%」としていた目標を、「25年度までに45%」にする。食料自給率の目標を下げるのは初めて。食料自給率は39%で低迷しており、現実的な路線に転換する」と。

ようするに、実態に即した現実路線に転換ということだが、単に数値目標を下げたのではなく、「小麦製品や肉類が浸透した日本人の食生活」を実態として容認する含みを読み取ることができる。これは、『大衆めし 激動の戦後史』にも書いた、かつて江原恵が指摘した「日本料理の二重構造」と「日本料理は敗北した」実態を認めることにも、つながるだろう。

『大衆めし 激動の戦後史』で述べた実態に即した「生活料理」を軽視あるいは無視してきた、「食文化」や「グルメ」と無関係ではない。

食料自給率政策をカロリーベースだけで考えることの問題は、このブログでも指摘してきたが、『大衆めし 激動の戦後史』の「食料自給率「四〇パーセント」は危機か」では、「日本人の食生活は、すでに「国土」を超越したグローバルな関係のなかにある。食料自給率を危機にしてしまわない方策を、つねに追求すべきだろう」とアレコレ書いた。

「自給率向上を軸としてきた日本の農政が大きく変わる可能性がある」と毎日新聞は書いているが、そうなれば、まさに「激動」だろう。

カロリーベース固執の背景には、食育基本法や「和食」世界文化遺産登録などで活躍した、偏狭な「愛国思想」や「ナショナリズム」も見られる。これは「日本料理の二重構造」の問題ともからみ、単純ではない。

今回は、「財政難で大型補助金によるてこ入れが難しい中」という事情があるので、財務省の押しで変わらざるを得ないという感じでもあるが、「健全なナショナリズム」が育つのかどうかも関係しそうだ。そう考えると、昨今の「右傾化」など、困難のほうが大きいようで、複雑な激動になりそう。それはそれで、めんどうなことだ。

ま、多くの人々の実態である生活料理のことを、長い間ないがしろにして、「いいモノ」やらグルメやら食料政策やら農政やら食育基本法やらとやってきたのだから、しかたない。

それにしても、いわゆる「農協改革」との関連を考えると、じつにウサンクサイ動きが気になる。

それにしても、カロリーベースの食料自給率を錦の御旗に、ずいぶん無駄なカネをつぎこんできたものだ。もし「財政難」でなかったら、実態に即さない政策が許され続いてしまう実態も大いに問題だな。「健康」「安全」「安心」「グルメ」ばかりでなく、自分たちの食と食文化について、もっとちゃんと考えられるようになりたいものだ。

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2014/06/03

「和食」…ユネスコの無形文化遺産に登録されたけれど。こんな「和食」に誰がした。

2014/06/01「5月のハンセイ。」に書いた四谷の飲み会では、最後に、やはり「和食」の件になった。ま、文化遺産に登録されたけど、意気があがらないね~、かえってめんどうなことになっているような、てなことで簡単に片づけられたていどだったのだが。

おれも食育基本法批判をやったときほど、この件については意気があがらない。もう、ほとんど無視、という感じだ。

というのも、「和食」そのものが迷走していて、墓穴を掘っているからだ。「和食」を「日本人の伝統的な食文化」と唱えるほど、矛盾が露呈し泥沼が生まれているからだ。放っておいても、迷走泥沼状態。それは、チト悲しいことではあるが。

それに、食育「国民運動」のように、「和食」のカネや権威にたかって、テキトウなことをいって稼いでいるひとたちがいるのも、セツナイ。

とにかく、当初から「和食」の「範囲」がハッキリしていないのだ。たとえば、昨年12月2日の読売新聞は、3ページにわたって(農水省と「和食」文化の保護・継承に取り組むキッコーマンと伊藤園の広告が半分を占めているから実質1ページ半だが)、11月24日に開催された「和食文化の保護と継承について考えるイベント」を伝えている。その「専門家によるシンポジウム」を見ても、何が「和食」かについてはバラバラだ。

無形文化遺産に登録が決まり、「日本食文化のユネスコ無形文化遺産化推進会議」から「「和食」文化の保護・継承国民会議」に衣替えした組織の会長である、熊倉功夫さんの基調講演では、「和食で大事なのは、まずご飯です。ご飯だけでは食べられないんで日本人は汁を非常に大事にします。それからおかず」といっている。

ところが、その「和食の範囲」について、パネラーの伏木享さんは、「日本でできて日本人しか食べない洋食は、外国人から見ると和食になる。ラーメンやお好み焼き、カキフライといった料理も含めて、和食の裾野は広い方がいいと思う」といっている。

そもそも、あらかじめ「和食」の範囲を決めて登録しているのではなく、アイマイのままだし、「和食」なるものは、このひとたちが、こんな話しをして決めるものなのかと思うが、とにかく、「和食」の範囲などは、はっきりしてない。

だから、『AERA』 2014年3月31日号でも「カレー、ラーメンは「和食」なのか? 専門家の意見は」といったことが記事になり、これがインターネットにも載って、話題になったりした。
http://dot.asahi.com/aera/2014033100064.html

この記事の「専門家」は、原田信男さんと江原絢子さんで、お二人は日本の食文化について真摯に研究を重ねていて、ひとやカネの顔色を見ながらものをいったりしない、見識のあるひとだと思うが、意見がわかれている。

こういうことになってしまうワケは、2014/02/02「明日3日は、朝10時から文化放送「くにまるジャパン」で、生活料理の白熱トーク!」で、少しふれている。……

「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録され、「文化遺産」けっこうなことだけど、インターネット上にも「「和食」の無形文化遺産登録を手放しで喜べない理由」といった記事があるように(http://diamond.jp/articles/-/44360)、「和食」と「日本料理」と「家庭料理」のあいだが、あらためて見直されたり論議になっている。

これは、『大衆めし 激動の戦後史』にも書いている「日本料理」の歴史と「二重構造」が関係することで、そうは簡単にスッキリ解決はしない。だけど、まあ、働き生きるための「大衆めし=生活料理」は、日々行われているのである。その生活料理について、もうちょっと考えてみようってことだね。

……と書いているのだが、『大衆めし 激動の戦後史』を読んでもらえば、混乱の原因も、そもそも、和食は、なぜ「保護」だの「継承」だのといわなけれならない事態になったのか、わかるはずだ。

今日、ツイッターで、このようにツイートした。
https://twitter.com/entetsu_yabo/status/473668385645932544

「何度もいうけど。汁かけめしや大衆めしに関する俺の著述は、生活を基本に料理を「機能論」的に述べているが、世間で圧倒的に通用しているのは「発生論」や「系譜論」であり、素材や庖丁を原理としている。以前書いたブログから https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2010/07/post-6484.html

RTやお気に入りが、けっこうあったが、‏@allman3369さんから、「@entetsu_yabo さんの、料理が機能ではなく発生論として語られる、というのはつまり「必要性の充足」ではなくて「正統性のゲーム」になってしまっている、ということなんだろうと思う。」と返信ツイートがあり、

おれは「@allman3369 なるほど、「正統性のゲーム」って表現、いいですなあ。料理にかぎらず、発生論や系譜論の「正統性」が、古事記や日本書紀、でなければガイコクになってしまうってのが、サミシイですが。」と返したりした。

これまでもそうだったが、「和食」は、その「正統性のゲーム」の泥沼に陥っている。

先のおれのツイートのリンク先は、当ブログの2010/07/23「梅棹忠夫『文明の生態史観』と『汁かけめし快食學』。」だが、そこでは、瀬尾幸子さんがいった「結局、大衆めしってみんな和食なのね。スパゲティナポリタンだって」も引用している。この「大衆めし」は『大衆めし 激動の戦後史』に書いたように「生活料理」とイコールだ。

ようするに、料理を「発生論」と「系譜論」で見ているうちは、「和食問題」の解決の糸口はつかめない。

まずは、発生論や系譜論のほかにも、機能論の見方ができるし、そうすべきだということを、料理や味覚に関心のある方には、ぜひ知ってほしい。料理は生活、に、立ち返ることだ。

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2014/05/27

『大衆めし 激動の戦後史』にいただいた、お声、その6。

いま関川夏央の『昭和三十年代演習』(岩波書店)を読んでいる。関川夏央の本は、けっこうよく読んでいると思うが、「好き嫌い」をいえば「嫌い」な作家であり、「反面教師」としては優れた教師だと思って、よく読んでいる。

ま、おれは昔から、自分が共感できたり、自分をほめてくれる人より、ちょっと違うなあ、イタイところを突いてくるなあ、イヤなやつだね、なーんていう避けてしかるべき人に自ら近づいていったり、よく酒を飲んだりするクセがあった。30代には、おれのことをボロカスにいうやつと、よく酒を飲んだし仕事もよく一緒にやったことが、けっこう糧になっていると、いまも思う。

自分が共感できたり、自分をほめてくれるひとは、自ら近づかなくても、自然に縁ができて近づきになれるものだ。言葉尻や上げ足をとってくるようなやつはツマラナイ人間で相手にする必要もないが、明確な考えを持った、ちがう立場からの批判などは、必ずしも「反面教師」とはいえないにしても、最もよい「教師」だと思う。関川夏央の本を読むことは、おれにとっては、そういう「教師」とつきあうようなものなのだ。

それはともかく、おれは、「文章がわかりやすい」だの「感動した」「感動的」だのといったほめ言葉をいただく気は、まったくない。文章の「わかりやすさ」や「感動」を求めている方には興味はないのだ。おれも誰かの本に、文章の「わかりやすさ」や「感動」を求める気はない。ましてや本の体裁など、どうでもよいとはいわないが…体裁を気にする方にも興味はない。

なので、このようなツイートを見ると、うれしくなってしまう。

ochaseijin ‏@ochaseijin 0:26 - 2014年4月6日
https://twitter.com/ochaseijin/status/452467293604569088

ブックスルーエ、大盛堂、八重洲ブックセンターの3店合同フェアで買った、遠藤哲夫さんの『大衆めし 激動の戦後史』が面白い。ちょっとクセのある語り口だが、中身は王道。 http://instagram.com/p/macKu7OOE6/

「ちょっとクセのある語り口」のところを読んでいただき、中身に評価をいただく、ありがたいことだ。
なので、

エンテツこと遠藤哲夫 ‏@entetsu_yabo 4月6日
@ochaseijin ありがとうございます!

と、お礼の返信をした。
すると。

ochaseijin ‏@ochaseijin 4月6日
@entetsu_yabo あぁっ、恐縮です。「野菜炒め」考がとても示唆に富んでいて、食にとどまらない広がり(住居、生活、家族、文化まで)を感じます。

と、具体的な感想をいただいた。

最近もありがたい読者がいて、ツイッターにこのように投稿してくださった。ツイッターは、1回140字までしか投稿できないので、5回にわたっている。ありがたいことだ。

Hikaru_Saitoh ‏@hikaru_sth 17:16 - 2014年5月21日
https://twitter.com/hikaru_sth/status/469028928984588288

『大衆めし 激動の戦後史』(遠藤哲夫、ちくま新書、2013)を『ラーメンと愛国』『フード左翼とフード右翼』の流れで読む。速水の2著に比べ、圧倒的に面白くけた違いに勉強になった。書手の蓄積と根本の違いがこう出るとはびっくり。速水のは『大衆めし』の前菜としてすばらしい、という位置。→

Hikaru_Saitoh ‏@hikaru_sth 17:58 - 2014年5月21日
https://twitter.com/hikaru_sth/status/469039512434135040

『大衆めし』(遠藤哲夫、2013)で勉強になる点は多数あるが、現代「食」日本思想史での重要な切断面をあげている点は必押え事項。二つある。①江原恵『包丁文化論』出版、これは1974年。②玉村豊男『料理の四面体』出版、これが1980年。遠藤の意見は説得力がある。→

Hikaru_Saitoh ‏@hikaru_sth 18:52 - 2014年5月21日
https://twitter.com/hikaru_sth/status/469053082064547840

遠藤哲夫は、『大衆めし』(筑摩書房、2013)で、現在の食現象を見る上で重要な二つの概念の興隆について、年代などを示しつつ、また、関連文献を提示して、整理している。独自にリサーチする必要はあるとはいえ、意味があるし便利。その二つの概念は「食文化」と「グルメ」。→

Hikaru_Saitoh ‏@hikaru_sth 20:13 - 2014年5月21日
https://twitter.com/hikaru_sth/status/469073501228236800

遠藤によれば(@『大衆めし』(2013))「食文化」がブームになるのは、1970年代。中心人物は石毛直道。起点として押さえるべき文献は、石毛の「錦市場探訪」(『ミセス』1971年6月号)であるという。石毛を中心として「食文化」は学術化の道も歩んでいく。→

Hikaru_Saitoh ‏@hikaru_sth 20:13 - 2014年5月21日
https://twitter.com/hikaru_sth/status/469073540180762625

遠藤によれば、「グルメ」が流通し始めるのは1980年あたりから。急速に広めた中心人物は山本益博。ポイントの文献は『東京・味のグランプリ200』(講談社、1982)らしい。山本を先駆として「グルメ」によって食現象は、ファッション化、ゲーム化、大衆化、ポピュラーカルチャー化していく。


この方のほかのツイートを見ると、読書感想が多く、自分にとって「勉強になる」本の評価が高いようだ。何を勉強したいかにもよるが、おれの本が、そのような期待に多少なりとも応えられたのだろう。

「勉強になる」本を求めてよく読んでいる人は、「学ぶ力=読む力」もあるようだから、こういう読者にであえるのはうれしい。

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2014/03/01

大盛堂・八重洲・ルーエ三店合同フェアに、『大衆めし 激動の戦後史』が選書された、3月一杯。

八重洲ブックセンター八重洲本店 ‏@yaesu_honten さんのツイッター、3月末まで1ヵ月間開催される「大盛堂・八重洲・ルーエ三店合同フェア!」告知の写真を見たら、棚の上段左端に『大衆めし 激動の戦後史』の書影があった。

渋谷・大盛堂さんのサイトによると、このフェアは、「三店まわってサクマ式ドロップもらっちゃえフェア」で、八重洲ブックセンター本店の内田俊明さん、吉祥寺のブックスルーエの花本武さん、渋谷の大盛堂書店・山本亮さんの三人による選書フェアだそうだ。
http://taiseido.co.jp/fair2014.html

「10のお題に沿って書籍を選び、各店の特設コーナーにて三店合同選書フェアを開催」ということで、サクマ式ドロップのほかにも特典がある。

「出版不況」がいわれるなかで、チャレンジを続けている書店員さんのフェアに選ばれるなんて、光栄。

大盛堂書店さんのツイッターで、山本さんが、「『大衆めし 激動の戦後史』は「色々言いましたが、実はこの本が一押しです。」というお題で選書しております。」と。
https://twitter.com/taiseido/status/439603135439335424

山本さんには、こんなに推していただいていいのかなあ、と恐縮しながら、ただただありがたい。本は「楽器」のようなものだから、うまく鳴らせる方にであえると、とてもうれしい。

大盛堂書店さんで開催の、速水健朗さんとの対談「「食」の周辺を語る」も、3月15日と迫ってきた、よろしくお願い申す。予約は、こちらで。
http://taiseido.co.jp/event20140315.html

昨夜は、浦和のクークーバードで鈴木常吉さんのライブがあって、行った。やはり生で聴く常さんは、一段と素晴らしい。感動して酒を飲みすぎた。

常さんは、テレビ「深夜食堂」の主題歌を歌っているが、『大衆めし 激動の戦後史』も読んでくださって、音楽仲間の食堂の息子さんに、「この本を読むと食堂に誇りが持てるよ」と言って差し上げたとか。その話にも、感動した。

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