2020/01/22

元旦、西日本新聞、北九州食堂物語のスタート。

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2019/12/02
5年ぶりの北九州。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2019/12/post-6d6cf4.html

に書いた、昨年11月28日29日の北九州は、このためだった。

元旦の西日本新聞に、カラー見開きで「北九州食堂物語」が載っている。これは、3日から始まる連載「北九州食堂物語」の一回目。その左端に「遠藤哲夫さんと食べ歩き」の記事があり、おれが登場しているというわけなのだ。

「西日本新聞北九州本社です。北九州市の食堂にまつわる記事を発信したく考えております。その取材過程で、遠藤哲夫様の著書を読み大変感動しました」という連絡をいただいたのは、11月13日のことだった。

北九州市のPR誌『雲のうえ』5号「食堂特集」は、もう10年以上前のこと、2007年10月の発行で、おれは文を担当しているのだが、それをご覧になった記者さんから。

連載のスタートにあたっておれに登場してほしい、ついては北九州に来て、一緒に食堂をまわってもらえないかと。

最終的に、『雲のうえ』に掲載の食堂の中から、北九州の食堂の特徴を語りやすい「まんなおし食堂」と「赤ちゃん食堂」選び、それに、気になっていた若い人が始めた新しい「水玉食堂」を訪ねることにして出かけたのだった。

おれは食べ飲み、しゃべるだけ。記事は、担当の27歳の記者の方が書いてくれた。

まんなおし食堂も赤ちゃん食堂も、まったく変わることなく健在だ。水玉食堂には、若い力の可能性を感じた。変わらない力、変わる力、どちらも必要なのだ。

カンジンの「食堂物語」は、黒崎の「エビス屋昼夜食堂」が大きく載っている。かつて労働者の街として繁栄した黒崎、24時間営業の背景には三交代勤務が普通だった街の歴史がある。いまでは、寂しすぎるほど衰退しているが、街が終わっているわけではない。そこには働き生きる人びとがいるし、24時間営業の食堂も続いている。

24時間のルポ。テレビなら「密着ルポ」とか大げさに打ち出すだろう。時間帯によって、お客さんが変わる。お客さんが語る言葉から、この街や人びとの暮らしと歴史が浮かび上がる。

ひとや何かを指して「おわった」「おわっている」などと簡単に決めつけて、何者かになったつもりらしい評論家的な傾向があるが、たいがい光のあてかたが間違っているのだ。モノゴトを見えなくするだけだ。

むしろ、そこに一人でも生きている人がいるかぎり、何もおわってはいないという視点が必要なのではないか。そのことで、見方や考え方が磨かれ、可能性が開ける。

ネタになりにくい、「とるに足らない」とされた存在。いつもは新聞や雑誌などで話題にされることがない「地味な存在」。話題になるときはエンターテイメントな消費か負の語りにしかならない、そういうふうにパターンにはめられ色付けされてしまった。しかしそれですましてはいけない街や人びとの生きる姿が、ここにはある。

「食べること」から見える真実。

若い記者の取り組みに、大いに期待。

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2019/11/12

産業化と市場化、「かんだ食堂」など閉店の事情。

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前のエントリーは5日だったが、その翌日6日、リニューアル仕立ての「ヨッ大衆食堂」のコーナーに「かんだ食堂」をアップした。

そこに書いたように、かんだ食堂は、昨年の3月18日に閉店した。ビルオーナーがビルを売却したことにともなう退去閉店だ。ビルは取り壊され「再開発」される。
http://entetsu.c.ooco.jp/00_syokudou/syokudou_tokyo/akihabara_kanda_syokudou.htm

たしか、かんだ食堂は、この近くで開業し、このビルができた1959年にここに移転したはずだ。4階建てのビルも老朽化しているが、古い中小のビルは耐震構造の問題もあり、建て替えか売却かの選択をせまられている背景はある。

そうであったとしても、中小のビルオーナーの選択肢は限られているし、店子の小規模経営者の選択肢など「無い」にひとしい。

東京は、オリンピックとオリンピック後をにらんでの「再開発」が活発だ。また、いつか通った道が繰り返されいるのだが、麻薬中毒のようにやめられない。

今年1月、拙著『大衆食堂の研究』にも登場した大正7(1918)年開業の、笹塚の常盤食堂が閉店した。店主夫妻の高齢化と後継者がいないことによる。

知っている限り、年内閉店予定の大衆食堂がもう一軒ある。昭和20年代の開業、店主が高齢もあるが、直接には道路拡張のために建物が取り壊されるためだ。この道路拡張は、以前から計画としてあったものがオリンピックを理由に実施された。

小規模経営の大衆食堂は、産業化や市場化の「圏外」に位置していた。いわゆる「生業店」であり、その空間は、近代合理主義的なマネジメントやマーケティングの影響が少ない、生活的存在だった。

そういう小規模経営が街角から消え、生活的空間だったところは産業と市場に組み込まれ、近代合理主義的なマネジメントやマーケティングが支配するところとなる。これが、とくに1980年代以降の「再開発」といわれるものだった。

東京の消費者は、こういう「再開発」に、すっかり飼いならされた感じもある。街は、キレイにスタイリッシュになるし、とても便利、と、失われたこと排除されたこと、その先に何があるか、といったことについては目をつぶり、快適で愉快なことだけを見て過ごす。これも、麻薬的効果か。

いまここにあげた三つの食堂は、経営に行き詰まっていたわけではない。かんだ食堂は、大にぎわいだったし、常盤食堂などはそこより駅に近いほうにチェーン店が何軒かできても生き残ってきたし、年内閉店予定の食堂も駅から10分以上離れていても生き延びてきた。統計はないが、1980年代以降の大衆食堂の閉店は、再開発と後継者難によるものが多いと思う。

世間的には、産業化と市場化が資金力にものをいわせ圧倒しているようだし、産業や市場サイドからの情報が圧倒しているから、小さな生業店などは経営能力も低いのだからなくなって当然という見方もある。

そのように見方や考え方まで産業的市場的になり、仕事の成果に直結する能力や技術などの評価だけが問われ、あるいは仕事の実績や成功を強調したりするが、「人間としてどうか」「暮らしとしてどうか」「街は誰のものか」なーんていう問いかけは、どうなるんだろうね、いいのかね。

とはいえ、産業化や市場化は、すべてを支配できるわけではない。そこが、おもしろい。

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2019/02/27

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」76回目、深川・七福。

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またもやここでの掲載が遅れに遅れてしまった、これは先月の第三金曜日18日朝刊のぶんだ。

すでに東京新聞のサイトでご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2019011802000184.html

たまには正月らしい店名の食堂にしようと、「七福」にした。住所は白河だが、昔から深川と呼ばれている地域で、周囲には深川七福神がある。

七福は、1995年の『大衆食堂の研究』にも載っている。「『七福食堂』――江東区高橋のたもとにある。いかがわし度2。暖簾に「実用」の文字がいい」というぐあいだ。

「高橋のたもと」というのは、「たもと」に近いぐらいで、すぐそばではない。ところが、おれ自身も「たもと」にだまされてしまい、以前に再訪したときには、高橋のたもとすぐのあたりをうろうろし、住所は控えてなかったし、探したが見つからなかったことがある。

とにかく、このあたりは大変貌した。とくに七福がある清洲橋通りの大きな交差点の周辺は30階ぐらいはある高層マンションがニョニョキ建って、空が広かった下町の面影はない。

七福も、二階建ての木造から建て替わった。外見は変わったし、中も壁は板張りで「デザインされた」内装になったが、そこまで。

暖簾と看板の「実用洋食」は、そのままだし、実用のイスとテーブルで、実用の洋食を食べる。

かつて、というのは半世紀以上は前になるか、「実用洋食」が流行ったらしい。まだ詳細に調べてないが、そういう記述は見かけた。

「実用」という言葉の意味は、なかなか深長で、このばあいの判断は難しいが、おそらく、当時ごちそうで高級なイメージだった洋食に対してのことだろう。

1960年前後ぐらいまでは、東京の洋食は「ハイカラ」などといわれ、けっこう上位概念だったのだ。

七福の「実用洋食」は、大いに納得する。日替わり定食の盛り合わせを始めとする各種盛り合わせメニューの充実に、なんだかお店の洋食への「熱」を感じる。

オムライスを食べたことがないのだが、一人で入ってくる近所の会社員らしい女性たちは、ほとんどこれを食べている。

そのオムライスからして、たいしたボリュームだ。定食のごはんの量も多く、おかずのボリュームもある。フライ類は、ボリュームがあっても、油が気になることはなく、サクサク食べられるが、おれはめしの量にまいってしまう。なのに、まわりでは、大盛りを注文する客もいる。くそ~っ、大食いできないジジイになってツマラナイな~と思うのだ。

このあたりは、かつては、中小零細の事業所が多かった。いまでもビルの一階が工場だったりするところもある。

七福の客には大盛り確率が高い作業服姿の労働者が多くみられる。大盛を食べるスーツ姿の労働者もいる。

ガッチリめしを食いたい人はいるのである。それは「実用」という「文化」を支える人たちでもある。

そして、「実用」の「文化」によって、さまざまな「産業」や「文化」が支えられている。

実用万歳。

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2012/10/21

東京新聞で月に1回「大衆食堂ランチ」の連載が始まりました。

この連載は、東京新聞のサイトに掲載され、どなたでもご覧いただけます。こちら。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/

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2012/01/16「きのうの東京新聞、この本この人に登場」でお世話になった東京新聞で、「エンテツさんの大衆食堂ランチ」ってのを月に1回の連載でやらせていただくことになった。

じつは1回目が、19日の金曜日でした。

これは、首都圏情報の欄で、毎週金曜日に「週替わりランチ」という連載があり、おれは第3週を担当するということです。ほかの週は、どなたがやるか、まだ知らないのだけど。

そう確かに、第3週の金曜日掲載ですってことで、このあいだの締め切りに原稿を送ったのだが、掲載の前に校正があるだろうと思っていたのに、ないので、もしかすると第4週になったのかな?と思っていたら、ちゃんと掲載になっていたというわけ。

はて、いつまで続きますか、とにかくよろしくお願い申す。

初回は、当ブログやおれの本の読者にはおなじみの、十条の天将さん。「大衆食堂」の切り抜きの文字の看板やサンプルショーウインドーなど、外観からして大衆食堂をアピールしやすいし、大衆食堂が最も勢いがあった時代のメニュー、ビーフステーキが残っているので、これを取り上げた。あいかわらず、グルメな書き方ではないけどね。400字という制限のなかで、個性それぞれの大衆食堂の楽しみや文化が、うまく書けるとよいのだが。

次回からは、左下囲みのおれのプロフィール紹介は無くなり、お店のデータがもっと詳しく入る予定。11月16日の掲載になると思います。

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2009/01/01

大衆食堂関係リンク

カテゴリー「大衆食堂」に関係するエントリーが増え、読みにくい状態になったので、リンクにまとめました。なお、ここには、大衆食堂のお店のレポートは含まれません。お店の一覧などは、ザ大衆食のサイトをご覧ください。

『大衆食堂パラダイス!』(ちくま文庫)については、こちら…クリック地獄

2008/02/15「「宮沢賢治の詩の世界」と「大衆食堂の研究」の出会い。」

2006/10/26「大衆食堂の呼称と歴史」

2006/07/26「「そこにいる」視線と「チェック屋」の視線」

2006/07/24「「学び」嫌い「教育」「説教」大好き人間」

2005/07/03「『大衆食堂の研究』のころ その2「特殊」な」

2005/06/23「『大衆食堂の研究』のころ」

2005/06/21「力強くめしをくえ! で10年」

2005/04/05「大衆食堂は地域のイキモノだ」

2005/03/19「悩ましい「田舎者」」

2005/03/10「悩ましい「優秀な経営コンサルタント」」

2005/02/21「「大衆食堂の研究」とレトロブーム」

2005/01/07「『大衆食堂の研究』の発端」

2005/01/05「人生山あり谷ありのなかでの「大衆食堂の研究」」

2005/01/04「オッ「大衆食堂の研究」から10周年」

2004/12/09「『東京いい店うまい店』と「ヤル気のない」食堂」

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2006/05/12

秩父市 パリー食堂

きのう小鹿野町からの帰り、秩父市内でパリー食堂を見つけた。その名前、その建物、戦前のモダニズムの気分を貯えて、しかし、うーむ、「レトロ」というより落剥の風情色濃い。入ってみた結果は、ザ大衆食のサイトに掲載……クリック地獄

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