2006/07/22

なんだか、うまいものこだわりは切ないなあ

22日の、まもなく午前2時だ。梅雨の夜中はナントナク心もシトシトピッチャンで、しみじみ思うことがあるね。また20日に続いて清水義範さんの「四畳半調理の拘泥(こだわり)」なのだが。

「身はひとかどの料理評論家よろしくひとりよがりして、西によろしく鰻食はせる店ありと聞けば早速駆けつけ、東に新出来の仏蘭西料理店ありと知れば……出かけるなんぞは……正気の沙汰にあらず。唯食ひちらかすだけなればまだ可愛気のあろうものを、このソースには力があるの、あの鰻のたれは年輪のようなコクがあるのといっぱしの講釈しては悦に入るとは……をかしいやら恥ずかしいやら」

「そのうちには、およそ世のうまいものは食ひつくしたとうぬぼれつよくなり、いかなる名品逸品もまだひとつおのれの舌を満足させるには到らずと増長し」

「畢竟料理は胃を満たし口を満たさんがためのものなり。高級料亭の板前など、料理は人の目をもまた楽しませるものなりと言うは、味のみにては客は喜ばせる自信なきが故の邪道たること言うに及ばず。天才画家の才持つはずもなき者が、皿に料理並べたるのみにて人の目を楽しませるとは言うもおこがまし」

「またある食通の曰く、料理はただただ口を満たし舌を満たすのみが願わしく、できうれば胃を満たすことなければ食ひ飽くことなくして至上なりとや。……ひたすら舌の喜びのみを味覚と思ひこみ、胃の喜びを味と知らざりしは未熟者の考えである……」

こういった調子で、うまいものにこだわる、そのこだわりかたが、ある男の回顧という姿をかりたりしながら、嘲笑されるように並べ立てられる。そして、そのこだわりかたは、「思い入れ」というより「拘泥」であり、「拘泥」とは、「小さい事に執着して融通がきかないこと」だそうだが、その様が微細にわたって描かれる。だから、読んでいると最初はおかしく、そして悲しき気分になるのだな。

これは、どんな道楽でも陥るアサマシイ姿だと思うが、飲食の場合の切なさは、ことさらのような気がする。だいたい「をかしいやら恥ずかしいやら」「うぬぼれつよく」「増長し」「未熟者」などと言われてしまう現象は、A級B級に関係なく、うまいものこだわりに見られる傾向で図星ではないだろうか。でも、笑っちゃいられない。

そもそも道楽というのは余裕のあるカネ持ちがするもので、たいがいのモデルはそういうものだ。それを中流意識が真似ようとして無理が生まれたと思う。その無理を、まだ引きずっていると思う。つまり万事に余裕がないわけだ。うまいものこだわりは、その道の神様教祖様先生様になろうと、あせっているようにみえる。ま、誰でも人よりは何かで優れていたいと思うものかもしれないが。その姿が、とりわけ飲食の分野では嘲弄されやすいほどあからさまで、アサマシイ。なぜこうも増長なものいいになるのか。うまいものこだわりで粋がる姿も野暮になる。

ようするに無理があるのだな。もっと、なんてのかな、たとえば東京で生きていたら、都会暮らしの孤独とか屈託とか、さまざま、そこからくる感情の起伏などが、料理や食事の場にあるはずだし、そういうものと向いあっている自分がいるはずだ。そういうものが、なんか、ほとんど感じられないね。

無理するこたあねえよ。楽しいことシンドイことを抱えて、普通にうまく食べればいいのさ。ああ、こんな長雨の日々は、こんなもの食べると、猫になりたくなっちゃうよ~、とか、雨の中へ走り出したくなっちゃうよ~なんとかしろ、とか、こんなものをうまいと思う今日のおれはピハハハなのね、とか、そういう感想が言える「グルメ」になりたいね。そうすりゃ、清水義範なんていう名古屋ヤロウにからかわれることはないんだ。切ねえなあ。

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2002/12/21

「反グルメ論」

じつは、昨日の「日本料理はフレーバー系に敗北した」という断定ははやすぎる。日本料理はフレーバー系に「変容した」あるいは「進化した」と、いえるかもしれないからだ。

いずれにせよ、江原さんが「日本料理は敗北した」というときの「日本料理」は、大衆食堂にあるような料理ではなく、「日本料理屋」にあるような料理のことである。そのことはチョットおいといて、「反グルメ」を先にしよう。

ボブ・グリーンさんは、1985年の『チーズバーガーズ』で「反グルメ論」を書いている。ちょっと長くなるが引用する。翻訳は、1986年の井上一馬さんだ。

「断じて食べ物のために旅をしてはならない」この教訓は、かつて派手な装飾の仰々しい映画館を歓迎したときと同じようにレストランを歓迎するいまの社会、あるいはニーズにかなったレストランをタイミングよく出した実業家に莫大な財産をもたらす社会、さらにはレストラン批評家なるものが存在する社会では、奇異にさえ聞こえるかもしれない。すでにアメリカ人が、レストランに名誉を与え、その権威の前にひれ伏すばかりか、”本物の料理”を食べるためならどんなに遠くまでも出かけていくようになっていることはまぎれもない事実である。

と述べ。

だが、なかには私のように少しちがった考えかたをする人間もいる。われわれ反グルメ人間は食べ物になんの魔力も感じない。

といっている。

つまり、わが日本の「グルメ」なるものは、「アメリカ化」のあとに、じつにアメリカと酷似したかたちで始まったのだ。そして、おそらく、このサイトをごらんになっているかたのなかには、ボブ・グリーンさんのように、それとは「少しちがった考えかたをする」ひともいるはずだと思う。

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