2021/10/20

弁当をつくる。

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7月4日から週に4日(金・土・日・月)、弁当をつくっている。

3月末で定年退職した妻が、週4日ていどの出勤でパートの口を求めていたが、同じ会社の別の支店から声がかかり7月1日から任用になった。前の支店では弁当がくえる休憩室があったが、こんどの支店ではどうかわからない、一度出勤して休憩室をたしかめてから、弁当を持っていくことにした。こんどは時間給だから、前のように昼休みぐらいは外へ出たいなんていってられない。

つくり始めの頃は、おれは朝食前の空腹時(ということは朝食の1時間以上前)にのまなくてはならない薬があり、5時半頃から4キロ40~50分歩いたのち、6時半頃に薬をのんで弁当をつくっていた。

いつごろからだったか、微熱と痛みが断続的に続いたのち、右ケツの痛みが激しくなり歩くのがシンドクなり、8月の下旬には15分も続けて歩くと息が上がって歩けなくなるような状態になった。なので、早朝の歩きはできなくなり、朝は弁当だけをつくるようになった。

弁当づくりは日課になっていて、これがなければ日課といえるのは薬をのむことだけになってしまう。薬をのむことが日課だとしても、これだけでは「生活」というより「療養生活」「闘病生活」であり、「生活」とはいいがたい。ま、たしかに、「療養生活」「闘病生活」を送っているのではあるのだけど。弁当づくり、食事のしたくをして食べることは、「生活」の軸なのだ。

てなリクツはともかく、弁当づくりは、けっこう面白い。料理は面白いが、食卓の食事のための料理にはない面白さがある。制限や条件などが多い。

最近は、弁当づくりにかけられる時間は15~20分が身体的限界で、それをこえるとシンドクて、たまにこえるのだけど、そういうときはできあがるとドッと疲れ、「はぁ、やったぁ~」とすぐ横になって一休みする。そういう時間や身体の制限も、面白さに関係する。

リハビリのつもりで書いているから、これぐらいでオシマイにしよう。

写真は妻が撮ったもの。

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2021/05/22

出た!熱烈応援!『ぶたやまかあさんのやり過ごしごはん』(講談社)。

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きのう届いた著者からの贈り物。とり急ぎ簡単に紹介。すでに書店に並んでいる。

こんなにうれしいことはない。

料理(研究)家や料理人や食ライターなどのように料理をショーバイにしているのではない、趣味ともちがう、普通の家庭の中の人が、働き生きる日常のデキゴトとしての料理と食事を綴る。

こういう本がほしかった。

「丁寧/手抜き」といった価値観とはアサッテの方向、「やり過ごし」の概念と実践。実況中継あり、レシピあり。

ひとりもんの自炊も、この本から始めるといいと思う。

著者、会社員にして「やり過ごしごはん研究家」、夫と子供3人の、ぶたやまかあさんことやまもとしま。著者の盟友?金沢詩乃さんのイラストもいいね。

デザイン/細山田光宣+細山田デザイン事務所。

もくじや著者紹介は、こちら講談社のサイト。電子版もあるよ。
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000351830

ぶたやまかあさんのツイッター。
https://twitter.com/butayama3?lang=ja

当ブログ関連
2019/08/07
『暮しの手帖』に、ぶたやまかあさんとぶたやまライスが登場。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2019/08/post-00ec92.html

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2021/05/04

「平凡で普通の暮らしへの信頼」と「適宜料理」。

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昨日の投稿「料理と情報と文化」で言及した「現代化」によって損なわれたものといえば、「平凡で普通の暮らしへの信頼」だろうと思われる。

「食」の分野でも、「いいもの」「いい店」「いい仕事」がもてはやされ、平凡や普通は、とるにたらない存在にされてきた。

新型コロナ感染拡大にともない「エッセンシャルワーカー」なる言葉で、大多数の平凡で普通の暮らしを支える平凡で普通の暮らしの労働者を持ち上げたりする傾向はあるが、その言葉ばかりがムナシク響く。

やはり、自分自身で、失われた「平凡で普通の暮らしへの信頼」を取り戻そう。

それは日々の食べることからだ。

ってんで、今日の昼には、あるもので焼きそばをつくった。

適宜あるものを、適宜きりきざんで、適宜炒めて、適宜薄目に味をつけ、食べるときに適宜各自で味を調える。

それで、世の中には、完全なレシピに従わない「適宜料理」が存在することに思い至った。

たいがいが、平凡で普通の料理のはずだ。

ここから、「平凡で普通の暮らしへの信頼」を取り戻していこう。

と、狭いウッドデッキで平凡で普通のピクニック気分を出し、平凡で普通の発泡酒を飲んだ。陽ざしが強くて、「うめえ~」「うめえ~」だった。発泡酒が。いや、焼きそばも。

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2021/04/21

「ロスト近代」あるいは「ノンモダン」を生きる料理とは?

去る4月15日、ツイッターで、このようにつぶやいた。もっぱら、早朝歩きと飯くった薬のんだだけのツイートだったが、チョイと自分にとっては必要なメモなので、こちらにも転載しておく。。

https://twitter.com/entetsu_yabo/status/1382563861362921473
エンテツこと遠藤哲夫
@entetsu_yabo
2か月前に『「家庭料理」という戦場 暮らしはデザインできるか?』の著者、久保明教さんとお会いし話している最中にヒラメキがあって、俺も「ぶっかけめし」を「作って、食べて、考える」をやってみようかと、アレコレ「ぶっかけめし」をいじりまわしていて、最近は毎日のようにぶっかけめしだ。続
午後2:18 · 2021年4月15日

最初の写真は昨日の夕飯で、あったかいめしに、サバ水煮缶を汁ごとかけ、ありあわせのキムチとタラコとカイワレ少々ずつ、ポッカレモンをかけまわし、適当に混ぜながら食べる。無難な味(つまり近代風)の「ワンプレート・ノンクッキング」。続

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2枚目の写真は、先ほど食べたばかり。冷や飯に、市販のコールスロー、スライスしたキュウリとシラス干し、目玉焼をのせ、野菜ジュースとプレーンヨーグルトをかけ、ブラック・ペッパーをふり、適当に混ぜ合わせながら食べる。なかなかエキセントリックなワンプレート。

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ツイッターでは文字制限があるので面倒で書かなかったが、2枚目の写真の物もありあわせでつくったのだが、「無難な味」なんぞ無視している。とはいえ、シラス干しは余計だったし、何かが足りず、何を足せばよいかぐらいまでは見当がついた。

「ぶっかけめし」ではあるけれど、冷や飯の量は少なめにしてある。こうすると「めし」より「サラダ」に近い。「ぶっかけめし」と「サラダ」の境を越える。

めざすところは、「一汁一菜」だの「一汁三菜」だのという、ようするに「米の飯」を軸にした「和」の「形」とかいうものからの「離脱」あるいは「解放」でもあり、「和」と離れがたく結びついた「中」や「洋」の概念からの「離脱」あるいは「解放」でもある。

なーんてね。

これは、2020/10/19「料理や食事と、エンジニアリングやブリコラージュ。」に書いたことに関連する。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/10/post-197393.html

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2020/12/17

ブリコラージュな「やきめし」。

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今年は「分解」という言葉を抱えて、考えたり考えなかったりしていることが多かった、といえるようだ。

なんとかこの言葉を噛み砕いて自分のものにできないか。

このブログには、こんなことも書いている。

2020/10/19
料理や食事と、エンジニアリングやブリコラージュ。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/10/post-197393.html

んで、大衆食堂の画像を整理していたら、十条の天将の「やきめし」が目にとまった。

この「やきめし」、これはブリコラージュではないか。

やきめしの楽しさはブリコラージュにあるとひらめいた。

あまりものをテキトウにぶちこんで作る「やきめし」、うまいんだな、これが。おれが父親に最初に教わった料理が「やきめし」だった。

ひらめいた脳ミソに「パッチワーク」という言葉も浮かんだ。そうだ、パッチワークはブリコラージュ、やきめしはパッチワークでありブリコラージュだ!

そうそう、藤原辰史『分解の哲学』には、「金繕い」の話があったな。あれも、同じ類ではないか。

と考えているうちに、だんだんだんだん、見えてきた。

料理は、食材や熱や欲望などいろいろな関係を繕うものであり、その料理を食べて人間は身体や気持を繕い、料理を一緒に「食べる」ことで人との間を繕い……てなぐあいに、「繕う」という言葉を置いてみると、食事と料理をめぐるブリコラージュが、「分解」が、見えてきた。

ような気がしている。

「料理」について、大きなカンチガイがある。

それは、エンジニアリング力で提供される「いいもの」を消費する、近年の「消費社会」の中で、拡大してきた。

一方で、やせほそるブリコラージュ力。つまり、「家庭料理」という言葉で語られるところのいろいろ。

この「やきめし」を見ながら、そう思った。

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2020/11/14

思いつき…「レシピのいらない料理」

いま「カレーライス」をつくりながら「レシピのいらない料理」というのを思いついた。

「カレーライス」はよくつくる。月に1回以上ぐらいのことだが。

ふりえってみると、ずいぶん「カレーライス」をつくってきたが、二度と同じものがつくれない/できない。だいたい、何かのレシピ通りにつくるということはないし、自分がつくったレシピも残してない。いつも、かなり気分しだいの出たとこ勝負だし、一発で決まらなくて取り繕いながら仕上げることも少なくない。

「カレーライス」に限らず、毎日のように何かしらつくっているわけだけど、ベーコンエッグのようなものは別として、かなりの割合で、「ちゃんとしたレシピによる料理」からすれば、「のようなもの料理」になってしまうことが多い。

ようするに「教科書通りではない料理」とでもいうか。

そういうやり方の料理はけっこうあるはずだと思うが、世の中には「料理のレシピ」が満ちあふれている。

巷にあふれる「料理本」や「レシピ本」にケチをつけるつもりはないが、そんなにレシピが必要なのか、もっと自由に自分なりにやっていること/やれることがあるんじゃないか、「教科書通り」にやろうとすることで失うものがありはしないか、という気がしないでもない。

って書いているうちに鍋の前にもどらなくてはならなくったので、ここまで。

今日は、「寺井尚子THE BEST」を聴きながらつくっているので、それ風のカレーになりそう。どんなんだ?

2020/10/19
料理や食事と、エンジニアリングやブリコラージュ。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/10/post-197393.html

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2020/03/03

「生活工芸」。「鑑賞料理」と「伝統料理」そして「生活料理」。

次の本の原稿に取りかかっているのだが、今度のテーマは資料がたくさんありそうでいて少ない。そこが、面白くもあり、考えることが多い。

とうぜん「生活料理」がらみのことで、ネットでもあれこれ検索していたら、「生活工芸」という言葉にぶちあたった。知らんかったなあ。でも、この言葉、割と新しいのだ。

「やまほん」のWEBサイトに、ギャラリーやまほんで行われたトークイベントの書きおこしが載っているのだが、そのタイトルが「生活工芸の思想」だ。
http://www.gallery-yamahon.com/talkevent/seikatsutalk1

このトークイベント、いつ行われたのか記載がないのでわからないのだが、2017年からこちらのことらしい。

「1. 言葉の誕生とその背景 安藤雅信 辻和美 三谷龍二」「2. 生活工芸とは 川合優 安永正臣」「3. 器とオブジェ 内田鋼一 三谷龍二」「4. 工芸と社会の関わり 菅野康晴(工芸青花)森岡督行(森岡書店)」「5. 生活工芸のこれから 安藤雅信 内田鋼一 辻和美」というぐあいで、4回にわかれている。

その1回目を見ると、「生活工芸という言葉は、辻和美さんがディレクションをされて2010年に金沢で開催された「生活工芸展」から始まっています」とある。

そして辻和美さんは、「つまり金沢においては、生活工芸という言葉は、鑑賞工芸、伝統工芸と区別するための言葉として分かりやすかったようです。自己表現のための工芸、素材の可能性に挑戦する工芸というより、人間の生活を中心に考えられた道具を中心としたモノたち、そういうものとして一般の方に認識されやすい。そういうスタートで生活工芸という名前を使い始めました」と語っている。

金沢ローカルで始まったということも面白いし、2回目以降のトークでは登壇者が入れ替わりながら、生活工芸の思想が深められていき、最後のまとめらしきところで、安藤雅信さんが「その時代時代に問題を見つけてそれを解決していく」「ボブ・ディランのように70歳過ぎても常に戦っていきたいと思うんですけれども、社会に対して常に問題提起をし、自分なりの答えを提案し続ける。それをやっていくことが生活に寄り添う工芸ということではないかと思います」とのべていて、多いに共感するところがあった。

ようするに、生活の問題を解決するのが生活工芸の思想である、と読めた。これは、おれの生活料理の思想と重なるところがあると思った。それに、メディアの権威に頼って仕事している人物が、浅はかな知識でエラそうに定義し意味づけするのではなく、「共通点を探していくことで生活工芸の輪郭が見えてくる」という方法も共感できる。

昨日のエントリー「気分」は続く。今日の日常。」と、その前の「ただよう「気分」と「言葉」。」で書いた、「気分」な文学や飲食とは、えらいちがいだ。

そういうわけで、またもや小便をチビリそうにコーフンしながら、「鑑賞工芸」を「鑑賞料理」に置き換え、「伝統工芸」を「伝統料理」に置き換えて考えてみた。「伝統料理」という言葉は、以前からあるのだが、「工芸」と「料理」は、共通するところと異なるところがあるから、そのあたりから考えが広まるのも、面白い。

「鑑賞料理」は、いわゆる「気分=趣味」のグルメや飲食のための料理と重なるところが多いようだ。

しかし、問題は「生活」という言葉だろうなあ。「生活」は抽象だから、けっこう複雑で、複雑ということは多様で、いろいろな要素や要件がからむ。だからこそ、「共通点を探していくことで輪郭が見えてくる」という方法が必要なのだが。

この「生活工芸」の作品に見られる「生活」は、おれの考える「生活」とはチョイとイメージがちがうような「気分」も残った。そのあたりは、おれのなかの「生活」という概念の幅の問題なのだろう。

とにかく、「生活工芸」と「生活料理」、面白い。ようするに「業界」の外、社会や歴史や自然などに対して、どういうテーマと方法で臨むかなのだ。この、問題の多い時代に。

当ブログ関連
2020/02/17
「惣菜料理」×「宴会料理」

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2019/03/14

おかずをパンにはさんで食べる。

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おかずをパンにはさんで食べるということは普通にやられている。ただ「洋風」のおかずが多いようだ。「サンドイッチ」という呼び名が「洋風」だからだろうか。

やきそばは、コッペにはさんで「やきそばサンド」になるが、あれは「何風」なのだ。

林真理子の『食べるたびに、哀しくって…』には、たしか、ひそかにあこがれていたか尊敬していた美人の女性が、納豆を食パンにはさんで食べるのを見て失望した、というような話があった。

「和風」の納豆をパンにはんさで食べるのは、おれは昔、そうだねえ高校のころからやっているが、うまい。バターをぬったトーストにはさんだり、マヨネーズをちょっとたらすのもいいね。いろいろなものを一緒にあわせられる。

なんでもパンにはさんで食べられる。切干大根の煮物だって、糠漬けだって。

ただ、ごはんを食べるために作られたおかずは、パンにはさむには味付けが濃すぎることが多いから、ほかに野菜などを合わせて塩味加減を調節する工夫が必要だ。

糠漬けと生野菜にオリーブオイルをたらしたりするのもいいね。

とにかく、「和風」「洋風」なんか関係ない。たいがいのおかずは、ごはんでもパンでも一緒に食べられる。そこがまたおかずのよさだ。さば味噌煮サンドなんか、缶詰でもいいが、いい酒のつまみにもなる。タレまでパンにつけて食べる。

もっと自由にやって、普通からの逸脱を楽しむのもいい。そこからまた何か開ける。

てなことを話していた。

おかずの世界は、作るのも食べるのも、自由で広い。それを生かし切っているだろうか。へんな観念にとらわれていないか。

サンドイッチ食べながら味噌汁飲むのもいいさ。

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2018/11/12

大革命。

近ごろは、あんまり「革命」ということばを聞きもしないし見もしないな。どうしたの、みんなビビっているのか。

80年代前半の中曽根内閣のころから「改革」がハヤリになり「革命」は廃れた、ように見えるが、そうでもないな。

いまの家に引っ越したのは、10年前の10月21日だった。

それで何が変ったって、台所のレンジがガスからアイエイチになったのだ。

それまでは、炎が見える火力を使って料理をしていた。

その火力のもとは、薪が炭や石炭、石油からガスになっても、太古の昔から炎が見えていたのだ。

「火」とは、見えるものだった。

それが、炎がないアイエイチってやつになった。これは「火」のようだが「火」ではない。つまり「火」を使わないで料理をするようになったのだ。

有史以来の大革命に、おれは遭遇した。

「火」は見えないが、「熱」は得られる。

「火」から「熱」へ。

「ファイアー」ではなく「カロリー」。

この「ファイアー」と「カロリー」のあいだには、いろいろありすぎる。電磁波じゃ~とか、波動じゃ~とか。なんじゃそれ。

とにかく、なれるのに、けっこう時間がかかった。とくに炒め物は、最近ようやっと、なんとかなったかな、という感じだ。

そのなんとかなったかな、ってのは、ようやっとアイエイチの前ぐらいになったかな、ということではない。もっとちがう次元の、なんとかなったかな、という感じなのだ。

この比較はヒジョーに難しいが、革命とは、そういうものなのだな。たぶん。

ようするに、「見える火力」と「見えない火力」が、認識できたし自覚できた。まだ、よく理解しているかどうかは、わからない。

おれは革命に参加して、悪くないネ、やりようだネ、ていどの感想は持った。だからといって、これはゼッタイにイイと、ひとにすすめはしない。革命が悪いからではなく、それぞれが判断することだからな。

熱源のちがいが料理の「味」に影響することはたしかだろうけど、それをコントロールする人間の文化があり、さらに食べる文化がある。熱源は科学だが、味覚には文化がからむ。

アイエイチを批判するひともいるし否定するひともいる。そういうひとには、たくさん遭遇した。おれは、素直に聞いていた。まあ、人類が「火」を使いはじめて以来の初めての革命だからねえ。フランス革命やロシア革命どこじゃないわけ。

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2017/09/09

火と料理。

拙著『大衆めし 激動の戦後史』の第6章「生活料理と「野菜炒め」考」では、野菜炒めと台所とくに火の条件との関係で野菜炒めを見ている。

これは、きのうふれた『料理の四面体』からの影響があるが、ほかにも、まったく火の条件を無視した「料理の歴史」のようなものに対する批判もこめられている。

日本の料理や食べ物に関する話は、事実の積み重ねから離れた「非科学的」な偏りが多い。そのことの混乱は、いまではけっこう大きな問題をはらんでいる。こういうことについて、料理や食べ物に関して編集したり書いたりしている人は、少なくない責任があるわけだけど、あらたまる方向へ向かっているかんじがしない。

それでも、『料理の四面体』が2010年になってだが、中公文庫から復刊になったのは、あらたまる方向を期待してよいキザシかもしれない。だけど、その中公文庫にしたって、ほかのアヤシイものがはるかに多いのだから、どうなるのだろう。

とにかく、火と料理について、あらためて考えてみた。

いまさら気がついたのだが、おれは、薪と炭の料理の時代からIHまで、体験しているのだった。これは、日常的なことでは、おれたちの年代が最後かもしれない。

おれが小さい子供のころは、薪と炭で料理をしていた。その火の番をするのが手伝いで、かまどやいろりのそばにいて、親が教えてくれたように火力のコントロールをするのだ。

そのときは気がつかなかったが、火力のコントロールは、料理の本質に関わる重要なことだった。

しばらくして石油コンロや電熱器が入り、それは短いあいだ部分的で、やがて中学生のころには全面的にガスになった。ガスが長く続き、9年前に引っ越して、それからはIHと電子レンジの台所で料理をしている。

薪と炭の料理は、縄文時代からの延長線、というより継続だった。これは、薪や炭と空気のあたえかたで火力を調節する。炎のぐあいを見ながら、薪や炭を補充したり、空気を送ったり、こまめに手をうごかさなくてはならない。

ガスになると、ガスと空気の調整は、それほどこまめに手を動かす必要はない。ことによったら、火事になるのを気をつけさえすれば、そばを離れることができる。

だけど、炎が見える火だから、薪や炭の延長といえる。目で炎を見て、手を動かして、火力をコントロールするのだ。

これ、縄文時代からの継続と延長だ。おれが小さいころは、縄文人とかなり近かったのだ。

ところが、IHと電子レンジは、「炎」がない。もっといえば、「火」による加熱ではない。

言い方をかえれば、縄文時代から抜け出したのだ。

しかし、いまだに、IHや電子レンジを「化け物」のようにいう料理の「専門家」がいる。とかく「科学的現象」が理解できないと「化け物」に見えるということもあるようだ。それに、「電磁波」なるものを放射能なみに危険視する人たちもいる。

「炎」が見えないのだから、気持ちはわからんではないが、IHや電子レンジで、料理は、やっと料理の仕組みが理解され、料理が科学として広く認知されるような気がする。そう願いたい。

「秘伝」だの「愛情」だの、あと「誠実」だの「丁寧」だの「真摯」だの、料理を精神や道徳やさまざまな観念の檻にとじこめてきた言論や思想などから、解放されるのだ。

ヤッホー。

という気分なのだが、はたしてどうだろう。とくに職人的な手作業にこだわって、いまや工作機械産業やAIまで遅れをとってしまった日本のことだから、19世紀ぐらいのままの言論と思想の大勢に流されて、ああ、どうなるのだろう。

「火」は文明をもたらした、といわれている。しかし、宗教行事に「炎」の演出がつきまとうように「炎」は「神秘性」と相性がよい。

炎を使う料理は、とかく神秘的に扱われやすく、神秘的なウンチクをかたむけるほどありがたがられた。ありがたがられ「芸術」扱いにされることも多かった。この構造は、陶磁器などのやきものにも通じるが。

「炎」に興奮しても、IHのガラス面に鍋がのっているだけでは、なんの感動もないからなあ。でも、それで加熱が成り立つのだから、感動ものだ。

真実は、見えないところにある。とかね。

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