2021/06/08

『スペクテイター』48号「パソコンとヒッピー」。

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パソコンとカウンター・カルチャーの関係を解き明かした力作。

スティーブ・ジョブスがヒッピーだったとか、ヒッピーの影響を受けたとかは、一時話題になったが。その話も出てくる。

2019年44号「ヒッピーの教科書」、同年45号「日本のヒッピー・ムーヴメント」を特集してきた『スペクテイター』の最新号は「パソコンとヒッピー」だ。

4日ほど前だったかな、編集部からの郵送でいただいた。赤田祐一さんのご厚意によるものだろう。ありがとうございました。

この特集タイトルには、少し意表を突かれたが、読んでいるうちに思い出したことがたくさんあった。過剰に加速する情報環境の中で、知識を積み重ね編んでいくことを忘れがちだ。それを『スペクテイター』編集部がやってくれている。ということだね。

60年代70年代のカウンター・カルチャー(対抗文化)については、「ヒッピーの教科書」と「日本のヒッピー・ムーヴメント」に詳しい。ただふりかえるのではなく、いま、の視点でとらえなおしている。まさに、編集だ。

そのカウンター・カルチャー、「ヒッピーには二つのタイプがあった」。

一つは、日本では、こちらのほうがよく知られている「自然回帰」を志向しテクノロジーを否定するタイプであり、もう一つはその逆、「テクノロジーの進歩が不可避的に社会を変えるというアナキストで、ジッピーのタイプ」(本書38)

『スペクテイター』2020年47号「土のがっこう」は、自然回帰志向の流れに位置するだろう。そして、今回は、後者の流れになる。そう、おれは読んだ。

この二つのタイプは、同じ根を持っている。とくに近代文明に対抗し、人間性の回復を志向することだ。

ヒッピーが、どうパソコンにつながっていったか。その発想からテクノロジーまでを語る「パソコンの発生とヒッピーの発想」関根美有(作画)+赤田祐一(原作)は、ほんと、ややこしい関係を上手にまとめていて、力作だ。まさに、編集力。

もくじで見ると。

0 「全地球(ホールーアース)」という世界観を求めて。

1 コンピュータとヒッピーを結びつけた『ホール・アース・カタログ』

2 ターニング・ポイントだったヴェトナム戦争

3 LSDとコンピュータは同じツールだ

4 サンフランシスコ・バークレーは学生運動とヒッピー文化発祥の地

5 コンピュータはソ連とアメリカの冷戦で成長した

6 「ハッカーは遅れてきたビート族、初期ヒッピー・カルチャーと同じ人種だ」とスチュワート・ブランドは笑った

7 「人民のためのコンピュータ」という思想が生み出された

8 パソコンは人と人がつながるための有用な道具だ

9 アルテアの衝撃。ミニ・コンがビートルズを唄った日

10 ハイ・テク時代のトリックスターがハッカーだった

LAST CHPTER もっと共生的に。人間とパソコンの関係

RE THINK われわれはスローなギークになれるか?(編集部による考察)

6と7のあいだに、講師:桜井通開(文とイラスト)による「コンピュータのABC」が「進法」やら「計算の歴史」やらコンピュータの仕組みのABCを解説、勝川克志の絵による「クロニクル・テクノロジー 1960年—80年」が、色ページで。

ロング・インタビューが圧巻。

「自然派ヒッピー?電子派ジッピー?真のカウンター・カルチャーを体現するのはどっちだ?!」ってえことで、能勢伊勢雄が登場。

能勢伊勢雄は、1995年に第三書館から発行の『サイバーレボリューション パソコン対抗文化の未来』金田善裕・編、に「カオスの縁」という論考を寄稿しているそうだが、こういう人を「発掘」してきて、『サイバーレボリューション』の先駆性やら能勢をめぐるジッピーの生態やら活動やらヒッピーとジッピーの比較やらを語る。

ここで、ここだけではないが、「サイバネティックス」という言葉が出てきて、おう、そうそうとおれは思い出した。

たいして本のない本棚を探して、ノーバート・ウィーナーによる『人間機械論 第2版 人間の人間的な利用』(鎮目恭夫/池原止戈夫・訳、みすず書房1979年)を見つけたのだった。サイバネティックスについては、杉田元宜の『サイバネテックスとは何か 機械・生体・社会と比較システム論』(法政大学出版局1973年)で知って、この本をすり切れるほど読んで本棚のどこかにあるはずだが見つからない。

もうずいぶん、この言葉から遠ざかっていた。記憶の底に沈殿。この『スペクテイター』を読まなかったら、そのまま忘れてしまっていたかもしれない。

当時、仕事にしていたマケーティングとも関係あって、サイバネティクスにのめりこんだ。忘れても、身体のどこかに血となり肉となり骨となり、うっすらただよっているような気もする。

それはそうと、最後のロングインタビューは、「”指紋”と”コンピュータ”の知られざる関係」ってことで、高野麻子が登場する。「監視社会」や「監視文化」など、近未来も視野に入れた現代的な課題が提起されている。


みんなが使っているからと何気なく使っているパソコン、いつのまにかハマっているSNSやLINE。そこの、あなた!いや、このようにブログを書いているおれもだ。

この特集を読んで、よーく、考えてみよう。1100円は、すごくお買い得だよ。マジで。

2020/07/11
これからの台所をおもしろくするには。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/07/post-511a0d.html

2020/12/06
『スペクテイター』最新号「土のがっこう」。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/12/post-c65d23.html

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2021/05/22

出た!熱烈応援!『ぶたやまかあさんのやり過ごしごはん』(講談社)。

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きのう届いた著者からの贈り物。とり急ぎ簡単に紹介。すでに書店に並んでいる。

こんなにうれしいことはない。

料理(研究)家や料理人や食ライターなどのように料理をショーバイにしているのではない、趣味ともちがう、普通の家庭の中の人が、働き生きる日常のデキゴトとしての料理と食事を綴る。

こういう本がほしかった。

「丁寧/手抜き」といった価値観とはアサッテの方向、「やり過ごし」の概念と実践。実況中継あり、レシピあり。

ひとりもんの自炊も、この本から始めるといいと思う。

著者、会社員にして「やり過ごしごはん研究家」、夫と子供3人の、ぶたやまかあさんことやまもとしま。著者の盟友?金沢詩乃さんのイラストもいいね。

デザイン/細山田光宣+細山田デザイン事務所。

もくじや著者紹介は、こちら講談社のサイト。電子版もあるよ。
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000351830

ぶたやまかあさんのツイッター。
https://twitter.com/butayama3?lang=ja

当ブログ関連
2019/08/07
『暮しの手帖』に、ぶたやまかあさんとぶたやまライスが登場。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2019/08/post-00ec92.html

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2021/05/17

びっくりして、ひっくり返りそうになった。

2003年に早川書房から単行本で発行され、2010年にハヤカワ文庫になった、『食べる人類誌』(フェリペ・フェルナンデス=アルメスト・著、小田切勝子・訳)は、「火の発見からファーストフードの蔓延まで」という壮大なサブタイトルがついている。

だけど、いろいろ悩ましい記述も少なくない。

日本がらみでは、「格調高い料理の極致は、たぶん懐石料理だろう。皇室をもつ日本の伝統が生んだ優雅な料理である」というのだ。

読んでみると、いわゆる「わび茶」の流れの懐石料理と、それが決別したはずの朝廷や貴族たちの本膳料理の流れがごちゃまぜになっている感じだ。

それはまあ、料理にかかわる仕事をしている日本人だって、日本料理と懐石料理については、誤解は少なくないのだから、仕方がないかもしれない。権威争いや正統争いもあって、言説入り乱れややこしく、おれだって正確に理解しているかどうか。

だから、それは知らん顔するとして、つぎの記述には、びっくりして、ひっくり返りそうになった。

・・・・・・・

この伝統につらなる食事では、盛大な宴会と同じくらいの――より繊細ではあるが――肉体的快楽を得ることができる。辻静雄は大阪で調理師学校を経営していることで有名だが、彼のような偉大な料理人は、食卓にだす魚を「娘盛りの若い女性」のような舌触りをもつかどうかで選ぶことができる。

・・・・・・・

この魚は、おそらく鮎のことではないかと思われるが。それにしても。

悩ましい。

解説の小泉武夫によると、著者は、「英国人の歴史家で、とりわけ人類の文明史の研究においては、世界的に知られた学者」なのだそうだ。

いやはや。

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2021/05/11

つぎつぎと労作、力作、傑作。

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去る5月5日、伊那の黒猫から、ドーンとお宝が届いた、近日中に紹介すると書いたばかりだが、パソコンの調子が悪いこともあってグズグズしているうちに、昨日、さらに「日本のレコード2」が届いた。

おれのほうは元旦に届いたレターパックの中身すらまだ紹介していないのに、あいかわらず、すごい馬力だ。

そして、あいかわらず、どれも面白い。

5月5日に届いたものは、全国に散在する34名の方々の作品が袋詰めの「季刊黒猫」(上の写真上段)、毎日なにかを鑑賞している黒猫店主・田口史人さんが見たりふれたり考えたり感じたりしたことなどを綴る「観々日」2020年度下半期、お馴染み円盤のレコブック・シリーズの「アリスは不思議な飛行船」、そして新規の「日本のレコード」だった。

レコブック・シリーズ、田口さんの円盤寄席で買ったものも含めて10冊近くになると思うが、元旦にいただいたのは「青春を売った男達 小椋佳と井上陽水の七〇年代」だった。そして、70年代といえば、はずせないのが今回のアリス。どちらもタイトルからひきつけられるし、内容も裏切らない。

「日本のレコード」については、「「レコードと暮らし」(夏葉社)やレコブック・シリーズのベスト版であり、それらの間口を広げるというか、一度入口をふっ壊してみるというか、そんなものになる」らしい。前回1回目は、50年代はじめのビニール盤からスタートしている。今回は、子門真人「およげ!たいやきくん」(キャニオン一九七五年)など子供たちをターゲットにしたレコードだ。週刊で思いつくままに書き、本にするとき、年代順にまとめるようだ。

いずれも、「盤」から入って、盤の周辺の人びと(歌手やレーコド会社の人たちもちろん、求めたり買ったり聴いたりの人たち)を綴り、時代というか、「存在」に迫り検証していく。その洞察も鮮やかで、うなってしまう。

音楽(あるいは歌手や奏者など)とレコードの関係における70年代の前半と後半の変わりようは、料理と料理本の関係に似ていると思った。ようするに、在るものをレコードにしたり、在るものを料理本にしたりではなく、ある種のスターシステムのような「ギミック」が支配的になった。80年代は、その手法が確立していく過程とみることができそうだ。どの分野も、そうかもしれない。それだけで世の中が成り立っているわけではないんだが。産業や経済優先の結果としては。

60年代後半から70年代の検証は重要だね。

ってことで、ここまで入力するのに時間がかかったので、これぐらいで。

田口さん、人生の蓄積があってこそできることを、のりにのってエネルギッシュにやっている感じだけど、身体には気を付けてほしいね。無理していると、必ずドカーンとくるから。

当ブログ関連
2021/01/02
元旦のレターパック。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2021/01/post-4bbaf2.html

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2021/04/13

「往復書簡」による間口の広さと奥深さ、平松洋子×姜尚美『遺したい味 わたしの東京、わたしの京都』

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「わたしの東京、わたしの京都を遺したい味で綴った本」というのが、この本の中身であり、「わたしの東京」を綴るのは平松洋子、京都を綴るのは姜尚美さんだ。

1月末発行で、その頃、姜さんからいただいた。

姜さんとは、前のエントリーで紹介した『雲のうえ』22号「うどん特集」で初めてお会いした。「うどん特集」は、姜さんとおれとで文を担当したからだ。

身体の調子もあったが、内容が濃いので、読むのに時間がかかった。

単なる「遺したい味」ではないこと、「往復書簡」という方法、「東京」と「京都」、平松洋子と姜尚美という組み合わせ、このあたりは企画レベルのことだろうが、とてもうまくいって、ふくらみがあって奥行きのある内容、「東京」と「京都」の違いはもちろんそのあいだにあることまで浮かんでくる面白さがある。

そびえたっている味、あるいは、そびえたっているように書かれた味ではなく、暮らしと絡みあっている「わたしの」「まちの味」が綴られる。

しかし、「わたし」と「くらし」と「東京」と「京都」の絡みぐあいは、ずいぶん違う。

姜さんは、京都市生まれで京都市で暮らす。平松洋子は、岡山県倉敷市生まれで、大学入学で上京したようだ。

とうぜん「味」も違えば、「味」とのふれあい方も違う。

それらのことによって生まれる、内容の濃さやふくらみは、一人のワザではできないことだ。

東京は新宿のハズレ2丁目にある「隨園別館」は、おれもかつてよく行った店だ。それが「新宿」にあることは自然だったし、行くと必ず食べたそこにしかない「合菜戴帽」も、そこにあるのが自然で、よく考えたことはなかった。そのあたりが、本書で合点がいった。

ご主人の張本さんは、こういう。

「高級な店って、つくろうと思ったら誰でもつくれちゃうと思うんです。でも、歴史の深い店は、すぐには絶対につくれない。みんな高級な方向を向きたがるけれど、うちは飾り気がなくて、ボロだけど味がよくて、歴史を感じる店になりたい」

合菜戴帽は高級な食材は使ってない。したがって、ときどき、家でもそのモドキを作って食べている。モドキであって、あの味には遠いが、うまい。

京都の「平野とうふ」では、姜さんが、こんなことを書いている。これは「ひろうす(がんもどき)」の話に続いてあるのだが。

「京都は分業制のまちです。着物でも、お菓子でも、お香でも、分業制の各段階で究められた仕事が折り重なるようにしてものが出来上がっています。それは「受注部分しか知らない」という分業ではなく、「全体を知りつつ、部分を担う」という分業のあり方です。それぞれの段階の職人が、「最終的にこうなってもああなっても大丈夫」という練度の高い余白を持たせた仕事をした結果、「なんとものういい(なんとも言えずよい)」、濃密な余白を持つものがそこに出来あがるわけです」

なるほどねえ。

「鼻息荒く商うのではなく、むしろ気配を抑えて土地の力に委ねてきた」(グリル富久屋/京都・宮川町)という言葉にも通じるようだ。

鼻息荒く自己主張する仕事がぶつかりあう東京と、京都はだいぶ違うのだが、平松洋子の「わたしの東京」は、けっして鼻息荒くない。

ただ、東京は、全体像がわかりにくくなっているし、余白がすくなくなっている、そういうことも感じる。そこに「わたしの東京」があるわけで。

平松洋子は長く住んでいる西荻窪の「しみずや」というパン屋を綴るときだけ、「わがまち」という言葉を使っている。

姜さんが、自分の暮らしがしみこんだような、分業制の網の目のようなまちを、自転車に乗ったり、あるいは闊歩し、うまそうに食べているようすが目に浮かぶ。

鼻息荒くないデザインと写真もいい。

淡交社 2021年1月30日発行。
デザイン 有山達也、岩淵恵子、中本ちはる(アリヤマデザインストア)
写真 キッチンミノル(東京) 佐伯慎亮(京都)

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2021/04/11

一年ぶりの『雲のうえ』33号に、身体がゆさぶられた。

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きのう紹介した『四月と十月』と一緒に北九州市のPR誌『雲のうえ』33号が届いた。

32号の発行が2月末で、そのあと新型コロナ感染拡大がドンドン進行。たしか最初の緊急事態宣言の最中だったと思うが、編集委員の牧野伊三夫さんと電話で話したときだったか、「雲のうえ、次号どうなります?」と聞いた。なにしろロケハンから本番まで、取材で、すごく動き回るのだから、どうするのだろうと思ったのだ。

そしたら、「これまでの読者からのおたよりでつくる」というような返事があった。

おお、その手があったか。

それが出来あがったのだ。3月末の発行。

編集委員に復活した大谷道子さんによる巧みなラジオのDJのノリのリード文に続き、読者のおたよりが紹介される。という仕掛けもよい。

「特集 皆さまからの おたよりで綴る 「雲のうえから こんにちは」」

――いきなりですが、
岩手県盛岡市在住・56歳女性からのおたよりをご紹介します。タイトルは「忘れていました」。

と、読み上げられる。いや、書き始まる。いや、読み上げられる。

「コロナ騒ぎで、北九州の皆さんも大変だと思います。私もすっかり『雲のうえ』のことを忘れていました。困った状況が続く中にあっても、『雲のうえ』をなんとか続けてほしいと願っています」

――思い出してくださって、ありがとうございます。

このように進行するのだが、本誌は創刊から15年だそうだ。

ほんとに、こんなふうに思い出してもらえるなんて、編集者冥利だろう。表紙の牧野さんによる版画では、アートディレクションを担当する有山達也さんと思われるひとが、おたよりを見ながら涙を流している。ウルウルウル。

そして、読んでいくうちに、おお、そんことが載っていたか、ああ、あそこ行きたいなあ~、と、バックナンバーを探し出し、見入ってしまい、なかなか前へ進まない。

「特別企画 北九州「あの人」はいま」では、18号「北九州市未登録文化財」に登場した、「デコチャリ」少年のイマが。

17歳だった彼は、あれから8年、25歳になり、運送会社に勤めながら、デコチャリから「祖父の持っていた古い軽トラを改造」したりして、現在は愛車2トントラックを改造中。今後の夢を尋ねると、「とりあえずいまの車をコテコテに飾りたい。車をずっと改造するのが永遠の夢……みたいな感じですね」と。

15号から32号までの「おたより」が、号をさかのぼりながら2通ぐらいずつ紹介されたのち、「ああ、懐かしの 北九州 あの店・あの人・あの場所」「『雲のうえ』読者の大意識調査 北九州って どんな街」「人に物語あり、はがきに人生あり 私と北九州」そして、「15年?いやいや100年続けよう 『雲のうえ』にお願い!」とテーマ別に展開する。

順に読んで、「人に物語あり、はがきに人生あり 私と北九州」にいたると、表紙の画のように感動に涙腺が刺激される。ウルウルウル。

「地に足を着けて、しっかり生きていきましょう。そんなことを『雲のうえ』読後に思いました」といったおたよりがもらえるなんて、(たかが)フリーペーパーのPR誌なのに、すばらしいことだと思う。

「100年続けよう」というのも、編集サイドの手前みそではなく、読者の言葉なのだ。そっくり引用させてもらおう。

「やあー、早いもので28号ですか。1号からずっと愛読していますよ。はじめて出したおたよりが掲載されたのが第3号でした。/当時47歳、あれからもう11年、子どもだった、少女だった娘たちもいまや成人して社会人。歳月を感じます。これからも50号、いや、いっそのこと100号を目指して気張ってください。チェストですよ。(福岡県遠賀町・58歳男性)

おれが文を担当したのは、2007年の5号「食堂特集」と2015年(取材は2014年)の22号「うどん特集」だった。おれにとってはめったにない、いい経験をさせてもらったし、わずかでも編集委員や読者や北九州市のみなさんと『雲のうえ』に参加できたことがうれしい。感謝。

悲しいこともあった。

最後のページに、「編集委員より感謝を込めて」では、牧野伊三夫さん、有山達也さん、大谷道子さんがお礼を述べ、そして「お知らせ」があって、前号32号が最後の仕事になった、つるやももこさんが亡くなったことを告げている。

つるやももこさんは、創刊号から編集を担当していた大谷道子さんに替わって、編集委員になった。

今号では、復活した大谷道子さんの文による、「街のうた/街で、ひとり」も復活。しなやかな視線と名調子も円熟期へ。

読者の「おたより」だけでも、楽しく味わい深い、ほんとお得な一冊です。

当ブログ関連
2020/06/13
突然、つるやももこさんの訃報。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2020/06/post-451eb9.html

 

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2021/04/09

小沢信男―長谷川四郎―平野甲賀―エヴァンゲリエ。

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2021/03/25
今月もおわる。
https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2021/03/post-041e37.html

に書いたように、3月3日に亡くなられた小沢信男さんにいただい本、『捨身なひと』(晶文社2013年12月20日発行)と『本の立ち話』(西田書店2011年3月6日発行)を読み返したら、どうしても長谷川四郎の作品が読みたくなった。

図書館で検索すると、「シベリヤ物語」や「鶴」など、小沢さんが「ドキュメンタルな小説群」とよぶものは『長谷川四郎全集』で読むしかないようだ。ついでに全部読んでやろう。

全集は書庫入りしていたから、係の方に出してもらった。一目でわかる平野甲賀のブックデザインだった。

平野甲賀は小沢さんのあと、3月22日に亡くなられた。

1巻に収録の「シベリヤ物語」を読んでいたら、「エヴァンゲリエ」という言葉が出てきた。ちょうどネットでは「エヴァンゲリオ」とか「シン・エヴァンゲリオ」とかいう言葉が飛び交っていた。

「ゲリエ」と「ゲリオ」一字違いだが、関係あるのだろうか。「ゲリオ」のほうは、まったく知らないというか、関心がなかった。

「ゲリエ」について、こんなふうに書かれている。

シベリヤに抑留中の「私」は、ある鍛冶工に「あなたは神を信じますか?」という。
彼は「もちろん信じます」
「教会へ行きますか?」
「行きます。しかし、それは古い正教の教会ではありません。あれは堕落したものです。あれは坊主がウオトカを飲む為のものです。私の行くのは普通の家です」
十字架のついていない、普通の家。そこに集まる。坊主などいない。普通の労働者が集まった人たちを指導する。
「そんな宗教があるのですか?何と云う宗教です?」

 「エヴェンゲリエ」と彼は言った。「戦争前からありましたが、アメリカから来たそうです。戦争中アメリカは要求した――政府がこの宗教の邪魔をしたら、アメリカはソビエトの援助をしない、と。それで戦争中にだんだん増えました」
 私は黙って考えた、このアメリカとは何者だろうかと。

「エヴァンゲリエ」とはなんだろう。
ネットの検索では、「ゲリオ」ばかりで、わからない。
アメリカが何者かなんか永遠にわかりそうにない。人種、宗教、思想、武器…などのごった煮だ。

それにしても、長谷川四郎、このリアリスト、このリアリズム。おれは全身をわしずかみにされた。

丁度、この数日、体調優れずごろごろしていたので、1巻は読み終え、いま2巻目の「鶴」を読んでいる。

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2021/01/02

元旦のレターパック。

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昨日、元旦の郵便は年賀状だけと思っていたが、レターパックが届いた。

差出人は伊那の田口史人さんだ。

高円寺・円盤の店主田口さんは伊那に移住し、よくわからないが、円盤&黒猫&リクロ舎の田口史人になった。

という理解でよいのだろうか。

神出鬼没八面六臂の活躍で、おれの理解をこえている。

レターパックを開けると、その活躍ぶりが、ドサッと出てきた。

新年早々、お宝の山。

30人の執筆と作品による「季刊 黒猫」2020年秋号。

ディスク4枚は、入船亭扇里の落語だ。

田口さんの、私小説らしい、『父とゆうちゃん』。

レコード語りシリーズ『青春を売った男達 小椋佳と井上陽水の七〇年代』。

そして、田口さんの初の「食」エッセイ『あんころごはん』。

『あんころごはん』の「ゲスト執筆」に、安田謙一さん、上野茂都さん、おれの名前が並んでいる。

そうそう、だいぶ前に書いた原稿だ。

「厨房が汚い食堂は料理がまずい、か?」

忘れていた。できあがったのだ。

それにしても、田口さん、あいかわらず、すごい馬力だ。

読み応え味わい、タップリつまった、「福袋」。

手紙を読むと、楽しみなことが書いてあった。

うれしい。

いい年明けをよぶパック。ありがとうございました。

伊那も行ってみたいなあ。


『あんころごはん』
黒猫・円盤店主によるはじめての「食」をテーマにした書籍
「味覚は記憶の上に築かれる。私の「美味い!」は、ここにある記憶たちによって作られた。誰にでもある食べ物の記憶たちが走馬灯のように紡がれる」
37本の食話に加えて、ゲスト執筆にて安田謙一、上野茂都、遠藤哲夫のお三方にもエッセイを寄稿していただきました。
装丁:宮一紀
挿絵:三村京子

こちらからお買い求めいただけます。
http://enban.cart.fc2.com/ca29/4406/p-r-s/

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2020/12/27

生と死とめし。

この年末、家の中が明るくなった。物理的に明るくなったのだ。

家を建て引っ越してから12年が過ぎた。蛍光ランプが寿命で暗くなったり点かなくなったりなので、新しい蛍光ランプやLEDに替えた。

室内の大半がLEDになった。明るい。

LEDの仕様を見たら、「計画寿命」が4万時間とある。24時間つけっぱなしでも4年半はもつ。普通の使用状態なら10年以上。

人間には「設計寿命」なんてものはない。生まれたときから、何かを口に入れなくては生きていけない。生と死は隣合わせ、といわれる。

毎日、食べて、何とか死を先延ばしにする。

そのことをうまくいったやつがいる。「やつ」という言葉を敬称として使っているのだが。

ブコウスキーだ。

こんなぐあい。

………
いずれにしても生き延びていくしかないのだ。死はいつも隣にいるが、何とかごまかして、しばらくはおあずけをくわせるのにこしたことはない。
………

詩人らしい、といえるか。『ブコフスキーの酔いどれ紀行』(中川五郎訳、ちくま文庫2017年)にあった(P126)。

同じようなことを、学者が近代医学の成立にふれながら生と死を語ると、こんなぐあいだ。

………
 他方では、生そのものにおける死の不断の進行が、病的プロセスとは区別されるものとして発見される。死が、唯一の絶対的瞬間であることをやめて、時間のなかに分散されるということ。死は、もはや生を外から不意に襲うものではなく、生のなかに配分されているもの、生とのあいだに内的関係を持つものとしてとらえられるようになるということだ。そしてここから、そもそも生の根底には死があるという考え、生とは死への抵抗の総体であるという考えが生まれるとともに、死は、生の真理を語るための視点として役立つものとなる。
………

学者らしい著述、といえるか。

慎改康之著『ミシェル・フーコー ――自己から抜け出すための哲学』(岩波新書2019年)、「第二章 不可視なる可視性 『臨床医学の誕生』と離脱のプロセス」の、2「近代医学の成立――近代医学の誕生」のところにある(P48)。

この本は、ミシェル・フーコーの著書を年代順に読み解きながら、そこに「自己から抜け出すための哲学」を見るという仕掛けになっているのだけど、そのことは置いておこう。

「そもそも生の根底には死があるという考え、生とは死への抵抗の総体であるという考えが生まれる」のは、近代医学の成立の過程であり、そんなにふるいことではない。

いまでも、「生とは死への抵抗の総体である」という考えは、それほど一般的のようには思えない。

ブコフスキーの「死はいつも隣にいるが、何とかごまかして、しばらくはおあずけをくわせるのにこしたことはない」は、どうだろうか。

「おあずけをくわせる」は、死への抵抗だろうと思うけど。

食べることは、「おあずけをくわせる」ことだし「死への抵抗」だ。という考えは、普通の生活ではあまり感じることも認識することもないのではないか。

死を考えることは生を考えることだ、ぐらいまではよくあったとしても、「生の根底には死がある」という考えとは違うようでもある。

だけど、「余命」や「5年後の生存率」が話題になる癌などに罹ると、生きているのは日々めしを食うのは「おあずけをくわせる」「死への抵抗」という実感も認識も、グーンと高まる。

こんなことを書くていどには。

そして、やっぱり、力強くめしを食え!だよね、と思うのだった。

それから、死の視点から、生の真理を考えるように、食の真理を考えられないものだろうかと思っている。栄養とか、健康とか、「最後の晩餐」とかじゃなくて。

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2020/12/23

今年の読書と本。

今年は「本を読んだ」という気分がある。

「必要趣味」と「自由趣味」という軸に従えば、自由趣味の読書が多かったということになるか。

つまり、必要趣味の本は、いくら読んでも、「仕事脳」がぶよぶよし、「読書」の気分ではない。ということになるようだ。

別の軸、たとえば鶴見俊輔がいうような、「文明批評として読む」と「人生の一部として読む」で比べれば、後者の小説が多かったともいえるようだ。

「多かった」といっても、絶対数ではない。おれの小さな日々のなかで、どちらかといえば読書量の少ないなかでの、「ていど」のことだ。

津村記久子の『サキの忘れ物』(新潮社)の発行が6月25日で、7月初めに買って読んだ。これが発火点だった。

面白くて、味わい深くて、しばらくほっておいた津村記久子の本を、手持ちのものから読み返した。

図書館で、『ポースケ』(中央公論新社、2013年)『とにかくうちに帰ります』(新潮社、2012年)『やりたいことは二度寝だけ』(講談社、2012年)を借りて読んだ。

9月になって、図書館で『エヴリシング・フロウズ』(文藝春秋2014年)を借りた。

朝日新聞出版から2012年11月に発行の『ウエストウイング』に登場する「やまだヒロシ」のその後を知りたい、というようなことをどこかの編集者にいわれてこの小説を書いた、というような話を何かで読んだ。もしかすると、『エヴリシング・フロウズ』のあとがきにあったのかも知れない。

とうぜん気になるから、『ウエストウイング』を図書館で借りて読んだ。『エヴリシング・フロウズ』では中3の「やまだヒロシ」は、この本では小学6年生。主要登場人物の一人、あるいは主人公を構成する一人だ。この小説は「場」が主人公のように話が展開する。

とにかく、小学6年生と中学3年生、そしたら高校3年生が気になった。『ミュージック・ブレス・ユー!!』のオケタニアザミだ。これは角川文庫版を持っているから、もう一度、4回目ぐらいになると思うが読んだ。

ついで、大学卒業間近のホリガイを読みたくなった。枕元の本棚から『君は永遠にそいつらより若い』(ちくま文庫)を引っ張り出して、これも何度目になるか、読んだ。

これで、小・中・高・大の、しかも卒業年度のシリーズになる。「シリーズ」とは謳ってないが。

喜寿で癌で先が短くなっているジジイの頭のなかだけ、「青春」がざわざわ。

「青春小説」という言葉がある。中学3年生ぐらいなら引っかかりそうだが、小学6年生は、どうだろう。でも、「青春」になりそうでもある。

図書館で『アレグリアとは仕事はできない』(筑摩書房2008年)を図書館で借りて読んだ。これは、「仕事系」だ。それでまた、手元にある「仕事系」の文庫本『ワーカーズ・ダイジェスト』(集英社文庫)『ポトスライムの舟』(講談社文庫)『カソウスキの行方』(講談社文庫)を読み返す。

同じ頃、図書館の棚の前をふらふらしていたら、四方田犬彦の『ハイスクール1968年』(新潮文庫2008年)が目に止まり、「おっ、青春だ」と借りて読んだ。これはエッセイということになるか。ちょっとはずれた。偶然読んでしまったという感じ。

同じ頃、やはり図書館の棚の前をふらふらしていたら、佐藤亜紀の『スウィングしなけりゃ意味がない』が目に止まった。

佐藤亜紀は『ミノタウロス』 (講談社2007年)を買って読んで以来、ご無沙汰している。パラッと開いて見たら、「青春だ」しかも「ジャズだ」、それもナチの支配下。借りて読んだ。ひさしぶりだが期待を裏切らない佐藤亜紀。これは手元において何度でも読みたい、角川文庫版を買って読み直した。須賀しのぶの解説。面白さとまらず、『ミノタウロス』まで引っ張り出して読み直した。

『サキの忘れ物』は、これまでの到達点、さらに「青春系」「仕事系」をこえ、いろいろな枠組みをこえ、あたらしいこれからのステージのお目見えという感じでもある短編集だ。

その一編のタイトルである「サキの忘れ物」は、新潮文庫の『サキ短編集』。読んだことがない。買ってきた。一度に読むのはもったいないから、病院の待ち時間の読書にしている。21編中4編まで読んだ。

そして、いま、初めての西加奈子を少しばかり。『円卓』(文春文庫、2013年)、小学3年生のこっこ。『漁港の肉子ちゃん』(幻冬舎文庫、2014年)、小学5年生のキクりん。

いやあ、おれとしては、よく読んでいる。

必要趣味のほうは、いろいろだが、目下の関心は、「大衆食」「モダニズム」「民藝(運動)」というあたりのつながりと断絶などを、ポテトサラダで探求することだ。

こうして、新型コロナと癌の年は暮れようとしている。

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2020/08/16
「食べることを食のマウンティングから切り離したい」
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